02_彼女の日常 ~Side F ~
お久しぶりの面々です。
―― コーヒー職人の朝は早い。
まだ夜の明けきらぬ時刻に、ベッドの上で身を起こす。
隣で無防備な寝顔を晒している彼を見て、微笑みを浮かべる所から彼女の一日は始まる。
少々間の抜けた様に見える無防備な寝顔も、あれだけ頑張ってくれたが故と思えば、また愛しさがこみ上げる。
昨晩の情事を思い出し、軽く頬に手を和え、少しだけ熱くなった溜息を『ほぅ』と吐き出した。
彼を起こさぬようにそっとベッドから降りると、磨りガラス越しに差し込む仄かな光の中に、一糸纏わぬ肢体が浮かび上がる。
髪を軽くかき上げ、頭を一つ振って眠気を覚ます。
床に落ちていたバスローブを纏うと、未だ目覚めぬ彼の頬に軽く口付けを落した。
静かに部屋を出て一階へと下りる。
脱衣所でバスローブを洗い物篭へと脱ぎ捨て、再び一糸纏わぬ姿となると、浴室へと入る。
備え付けられた魔具に手を当てて軽く魔力を通せば、シャワーからは温かいお湯が降り注ぎ、僅かに残った眠気と、昨夜の残滓を洗い流していった。
この世界において風呂は贅沢であり、基本的には貴族を含む一部の金持ちの家にしか設置されていない。
だが、この家には家主の意向もあり、いつでもお湯の出せる魔具と合わせ、広々とした浴槽が設置された浴室が用意されている。
一般的な家庭で言えば、時々は公衆浴場を利用するが、その他の日は濡れタオルで体を拭くのが精々といった事を考えれば、いつでも気軽に湯に浸かる事の出来るこの家は少々異常と言えるかもしれない。
軽く水気をふき取ると、そのままバスタオルを体に巻き、再び二階へと上がり、自室へ向かう。
箪笥から清潔な下着を取り出し身に付けたところで、ふと違和感を覚える。
―― 少々胸周りがきつくなったような気がする。 ――
俗説ではあろうが、心当たりが無くも無い。近いうちに新しい物に替えようかと思案するが、服屋のおかみさんにまた揶揄われるのかと思うと若干気が重くなる。
以前はコルセットや、それこそ布を巻いて押さえていたものだが、彼が考案した『ブラジャー』なるものを身に付けるようになってからは、その快適さに驚いたものだ。
今ではその技術を譲渡された何軒かの服屋がこぞって売り出してる。
考案者特権と称して、自分や仲間たちの分は優先して製造してもらえる事にはなっているが、より多くの女性がそれを買い求める為、常に品薄な状態が続いている。
余談ではあるが、下に穿いた下着もまた、同様である。
その後は鏡台に向かい、ドライヤーを当てて髪を乾かす。
化粧水を叩き、乳液を伸ばしながら肌の調子を確認する。
冒険者をやっていた頃は、身嗜みなど碌に気にしたことは無かったが、それも今は昔の話。
彼女とて一人の女性であるので、髪が綺麗になれば嬉しくなるし、肌の調子が良ければ心も躍る。
貴族達の『隠し、飾り立てる』化粧と違い、髪や肌そのものに宿る艶は、街を歩けば女性からも羨望の眼差しを向けられる事も屡々である。
そんな街の女性達にも提供出来ないかと、製作者の彼に聞いてみた事はあるが、残念ながら大量に生産する為にはそれなりの技術と設備等が必要となる為、当面は難しいとの事であった。
自分達だけと申し訳ない気分になる事もあるが、逆に言えば特別扱いされているようで嬉しくもある。
人の心とは難しいものだ。
香水瓶から一滴、一滴と香水を指に取り、耳の裏、うなじ、手首へと香りを纏う。
決して派手でも華やかでも無いが、ふとした時に優しく香るこれは、彼女のお気に入りだ。
クローゼットを開け衣装を取り出す。
白いワイシャツに袖を通し、黒のタイトスカートを穿く。
姿見に映る自分の姿を確認し、軽く体裁を整えると、黒のベストを手に取り部屋を出る。
一日着た服、一日使ったタオルは毎日洗濯する。
これも冒険者時代では考えられなかった事だ。
一度依頼を受けて街を出れば、数日の間は着たきりにもなるし、その間身を清める事すら出来ない事もざらにあった。
街に戻れば洗濯もするが、稼ぎの良かったフローラの場合、新しい物に着替えたら古い物はそのまま廃棄する事も多かった。
当時はそれが当り前だと持っていたし、その事に特に不満も無かったが、清潔な服を毎日着られるという快適さは、一度経験してしまえば昔に戻る事など出来そうにもない。
一階へ下りた後、ダイニングの自分の椅子にベストを引っ掛け、キッチンでエプロンを身に付ける。
サンダルをつっかけて喫茶店側へ入ると、カウンターへ立つ。
今日のブレンドをどうしようかと暫し考えた後に、昨晩の内に水出しコーヒーを仕込んでいた事に思い当たる。
いつもはサイフォンを使ってコーヒーを淹れるのだが、深く煎った豆を水に長時間浸して淹れるコーヒーも有ると聞き、早速試してみたのだった。
冷蔵庫を開けて確認する。
昨晩仕舞う時は透明だった水が、すっかりコーヒー色になった容器が3つ。
一つを取り出し、味見の為にショットグラスへと注ぐ。
軽く香りを確認した後、ほんの一口含み、続けて一気に呷る。
口の中に広がる酸味と苦み、鼻に抜ける香り。
いつものサイフォンで淹れたコーヒーよりも雑味が少なく、すっきりとした味わいになっているような気もするが、その分単調で弱くなっている気もする。
そのまま飲むには面白いかもしれないが、カフェオレにするのは少々物足りないかも知れない。
豆の種類や煎りの程度でまた変わってくるだろうが、それは今後の研究次第といったところだろうか。
朝食用に、先程取り出した容器を抱えて住居側へと戻りキッチンに入る。
大きな鍋に水を入れて湯を沸かす。
少し小さ目の鍋に、容器の中身をフィルタで濾しながら注いでおく。
湯の沸いた鍋底に折りたたんだ布巾を沈め、コーヒーの入った鍋を沈める。
水で出したコーヒーは、直接火にかけるのではなく、湯煎で温めるのが良いと彼に聞き、昨晩の内に手順を確認しておいたのだ。
―― それにしても…… ――
鍋を眺めながら彼女は考える。
改めて考えても、この家の利便性と言うものは異常と言うべきだろう。
住居のキッチンや店舗のカウンター内に設置されている冷蔵庫。
いつでもお湯の出る風呂にシャワー。
今鍋をかけているコンロ。
クレアが大喜びしていた洗濯機。
そう言えば、コーヒー豆のロースターもそうだ。
製作者の彼がそう呼んでいるそれらは、この家で暮らし始めてから瞬く間にこの家を埋め尽くし、日々の生活をより快適な物へと変貌させていった。
彼が言うには、彼の住んでいた世界では当たり前の物を再現しただけらしい。
『別の誰かが発明したそういう物があると知っていれば誰でも作るさ。別に俺が考案した訳じゃない』
そう彼は事も無げに言っていたが、初めてそれらを見た時にはどれもこれもその便利さに驚かされたものだ。
魔国の王侯貴族であってもこれほど快適な生活は営めていないだろう。
同時に、それらに使われている素材についても驚いた。
大きな声では言えないが、この家の設備に使われている希少素材の種類と量を知る人が知れば、血の気を失うか、いっそ卒倒してしまうかもしれない。
なにしろ、金額に換算すれば魔国の数年分の国家予算に匹敵するかもしれないのだから。
「おはよう」
物思いに耽っていたフローラに声がかかる。
振り返れば、件の彼が立っていた。
振りむいたフローラを抱き寄せて軽くキスを交わす。
目を開けて彼の顔をよくよく見れば、前髪に水滴が残っている。顔を洗ったばかりなのであろう。
少しだらしないと言えなくもない彼の様相に、フローラは"くすり"と小さく笑う。
「お、早速やってるのか」
そんなフローラの横に立って鍋の中身を覗き込んだ彼が声をあげる。
「ええ、初めてだからあまり上出来とは言えないけれど」
そう言いながら、鍋の中身を少しだけカップに移して手渡す。
カップを受け取った彼が、香りを確かめた後に少しずつそれを口に含む。
「いつものと比べれば少し物足りないか? もっとも、俺もそんなに詳しい訳じゃないし、初めてでこれなら十分じゃないかな」
そう言って残りを飲み干すと、カップを流しの中に置く。
「折角だから、今日の朝飯はこのコーヒーを飲みながらパン食といこうか」
「あら、良いわね」
この家の朝食は、基本的に白米となっている。
また、『料理の味を邪魔するから、食事中に味の強い飲み物は良くない』という彼の妙な拘りにより、食事中の飲み物はといえば、―― パンの場合はミルクやコーヒーを飲む事もあるが ―― 薄い果実水や水が主流である。
別に強制されている訳では無いのだが、フローラもクレアもなんとなくそれに倣っている。
「それじゃあ、ひとっ走り行って来るわ」
そう言って彼がキッチンから出て行く。少し経つと、玄関のドアが開閉する音が聞こえて来た。
再び一人になったフローラは軽く腕を組みながら思案していたが、ややあって一つ頷くと、冷蔵庫の中からいくつかの食材を取り出す。
玉葱と人参、ベーコンをみじん切りにし、水を張った鍋に放り込む。
一煮立ちしたところで、常備しているコンソメ顆粒、塩と胡椒で味を調え、弱火にかけておく。
溶いた卵にミルクを加えてよく混ぜる。塩と胡椒を加えてさらに混ぜる。
弱火にかけたフライパンに油を薄く引き、そこに流し込む。
弱火のままゆっくりとかき混ぜていると、やがてトロトロの半熟状になるので、そこで火からおろし、あとは余熱に任せる。
別のフライバンを取り出し、すこし厚めに切ったベーコンを並べる。
火にかけているとベーコンから脂がしみだしてくる。
両面を香ばしく焼き上げたら別皿に取る。
フライパンに残った余計な脂を捨て、少量の水、刻んだトマトを加えて再度加熱。
温まって来たところで、フライパンの底についたベーコンの焦げをこそげ堕とす。
少量のコンソメ顆粒を加えて少し煮詰め、最後に塩で味を調えてソースポッドへ入れておく。
そうこうしているうちに、彼がパン屋さんから戻って来て戦利品を広げると、焼きたてのパンの香りがキッチンを満たす。
食パンとバゲットはそれぞれ切り分け、丸パンはそのまま、纏めて大きなバスケットへと放り込む。
パンと一緒に彼が買ってきたのは、ブルーベリーのジャム、オレンジのマーマレード。
これは瓶のまま食卓に並べれば良いだろう。
それぞれの皿に生野菜を刻んだサラダを盛り付け、油とワインビネガー、塩と胡椒に少量の香草で作ったシンプルなドレッシングを回しかける。
ベーコンとスクランブルエッグを同じ皿に取り分ける。
火にかけておいたスープを取り分け、空になった鍋を流し台に置き、代わりに小さ目の鍋にミルクを入れて再度弱火にかけておく。
「おはようございます!」
そうして朝食の準備が粗方出来上がった所で、何時の間にか起きて来たクレアが、顔を覗かせる。
「おはよう。これ、お願いできるかしら」
声をかけながら、渡りに船とばかりにクレアへお皿を渡す。
「は~い」
皿を受け取ったクレアがダイニングに向かうと、彼がバスケットとジャムを抱えてそれを追う。
温まったコーヒーとミルクをそれぞれをデカンタに移し、人数分のカトラリーとジャムスプーンをバスケットへ。
彼と自分用のコーヒーカップにクレアのカフェオレボウル、それらを纏めてトレーに乗せてから最後に火の用心。
そうしてダイニングに向かえば、二人が席に着いて今か今かと待ち構えていた。
『いただきます』
三人揃って軽く手を合わせて、食事前のいつもの挨拶。
それが終われば楽しい食事の始まりだ。
「あれ?」
鼻歌を歌いながらカフェオレを作ったクレアが、一口それを口に含み首を傾げる。
「いつもお店で出しているコーヒーとちょっと違うような?」
そう言ってもう一口、今度は味を確かめるようにゆっくりと。
「ええ、ちょっと淹れ方を変えてみたの。どうかしら?」
「そうですね……いつもと同じだけミルクと砂糖を入れてしまうと、少しコーヒーの味が弱いかも知れません。シナモンの香りもいつもより強く感じますね」
「やっぱりそう思う?」
クレアの素直な感想に、フローラも頷く。
その後は、各々本日の予定を報告したり、料理に舌鼓を打ったり、いつも通りの朝食の風景が流れていった。
§
「さて……」
開店前の掃除を終え、店内を見渡して一人呟く。
クレアは予定通り本日はお休み。
どうやらギルドで簡単な常設依頼でも受けてくるようだ。
それを休みと言って良いのかは審議の別れる所だが、本人が休みだと言っているのだからきっと休みなのだ。
駆け出し冒険者の貴重な収入源でもある常設の採取依頼ではあるが、彼女にとっては半ばピクニックのようなものなのだろう。
「お散歩も兼ねてますから!」
そう言って、お昼ご飯のサンドイッチを詰め込んだバスケットを持って家を出て行く彼女を、フォンが追いかけて行く。
親のグリはと言えば、首だけ上げてその姿を見送ると、また丸まって大きな欠伸を一つ。
どうやら留守番をする事にしたらしい。
この家にも随分と慣れてきたように見えるが、同時に随分と野生が失われているのではないかと思う程にのんびりとした姿である。
§
「すまん、ちょっと出かけてくる。夜には戻れると思う」
予定では一緒に店番をするはずだった彼は、朝食後にそう言っていずこかに出かけて行った。
どうやら朝食を食べている時に何事か思い付いたようで、クレアよりも先に家を飛び出して行った。
思い付いたら試さずにはいられないあたり、いつも大人ぶっている割には子供っぽいと思わなくも無いが、それも可愛げだと思って温かく見守るのもまた、正妻の余裕というやつであろうと思う事にする。
とは言え、折角の(事実上)二人きりの時間を放棄させられたのだから、この埋め合わせは別の形でしてもらうことにしよう。
朝食で一つ消費したので、水出しコーヒーの入った容器は残り二つ。
一つはこのまま冷やしてアイスで、もう一つは湯煎にかけておいてホットで供せる様にしておこう。
そんな事を考えつつ、ドアノブの札を『営業中』に引っ繰り返す。
今日も何人の客が来るか、はたまた開店休業でとなるかはわからないが、少なくともこれより営業開始である。
§
「珍しいわね。二人が揃って来るなんて」
そう言いながら目の前に座る二人を眺める。
「この人がようやく溜まった仕事をある程度終わらせてくれましたのでね、少しばかり休憩する時間が出来たのですよ」
二人連れの片割れが眼鏡を拭きながら答える。
赤みがかった真っ直ぐな毛を短髪に切り揃えた、青い瞳をした長身の青年。
街を往けば間違いなく淑女たちの羨望の的となるであろう『イケメン』は、だがしかし、その濃い疲労の色により、些か陰惨とした雰囲気をその身に纏わり着かせていた。
良く見れば、目の下に隈も見える。
「そうは言うが、適度な休憩は作業効率を上げるものだ。残業は効率を落とすだけだぞ」
もう一人の片割れがぼやく。
こちらも、街を歩けば黄色い悲鳴の飛び交いそうなイケメンである。
肩より下まで伸ばした漆黒の髪は解れ一つなく、意志の強さを感じさせる瞳はこれまた黒。
造形はともかく、要所の色合いは、なんだか彼を連想させる気がしないでもない。
「貴方の『適度な休憩』は長すぎるんですよ。ふらりといなくなったと思ったら、放っておけば半日は帰って来ないのですから」
黒髪の男に非難がましい目を向けながら声をあげる赤毛眼鏡。
誰あろうこの国の宰相という立場を担う者である。
「休憩というからには、心休まる時間であるべきだろう? 城の中でメイド達に傅かれながら飲む紅茶などで気が休まるものか。気心の知れた者を相手に、気兼ねなく会話しながらコーヒーを飲む時間こそ真の休憩と言うものだろう」
連れの愚痴に悪びれた様子も無く答えるのは、控えおろう、この国の頂点である魔王陛下である。
なんの因果かこの場末のコーヒー店は、この国のツートップが足蹴く通う、隠れ家的な店になっていたのだった。
「まったく……。取り敢えず、アイスで頂けますか?」
諦めたように、或いは呆れたように溜息を一つ吐くと、フローラへ声をかける。
「ああ、私はホットで頼む」
宰相の反応は見えない様な調子でこちらも注文。
ホットかアイス、砂糖やミルクは客自身のお好みで。となるが、この店のメニューは基本的に一つだけ、主にフローラが決めた豆で淹れたブレンドのみとなっている。
一応『常連』となっている二人もそこは弁えたものなので、余計な質問や注文は行わない。
「畏まりました」
様式美という事で、一応フローラも畏まった物言いで答える。
今更気を遣うような間柄でも無いのだが、普段から心がけていないと別の客の相手をするときに地が出てしまう可能性もある。
彼女は物事にメリハリをつけるタイプなのだ。
湯煎していた容器からカップへとコーヒーを注ぎ、ソーサーに乗せる。
スプーンを添えればホットコーヒーの準備は完了。
グラスに氷を入れ、冷蔵庫から取り出した容器からコーヒーを注ぐ。
こちらはコースターと別の小皿にマドラーとストロー。
ミルクポットを二つ、一つにはミルク、一つにはガムシロップ。
ホットコーヒーの彼はブラック派だ。
カウンターの内側で準備の出来たそれらを客の前へ。
その動作は、例えば城のメイドなどとは比べるべくも無いが、姿勢の良いフローラの所作は、それだけでも目に美しく映るものだ。
少しの間、店の中には氷のぶつかり合う涼しげな音が響く。
その音が止むと、二人の客はそれぞれのコーヒーを口へ運ぶ。
「ん?」
「おや?」
一口飲んだ後、二人同時に戸惑いの声をあげる。
「細君が淹れたにしては、いつもと随分味が違うな」
「そうですね、挽き方や煎り方を変えた程度ではないような違いに思えますが……」
そう言って首を捻る二人に、フローラは水出しコーヒーの件を説明する。
「なるほどな……」
「中々面白そうな試みですね」
彼女の言葉に頷きながら、二口、三口と、その味を確かめる。
「初めての試みという事を差し引いても、味や香りの複雑さはいつもの物と比べるべくも無いな。私としてはいつものコーヒーの方が好みなのだが」
そう評する魔王陛下に宰相閣下は諭すような口調で反論する。
「貴方の様な『自称』評論家の方は、複雑であれば良いと錯覚をおこしがちですが、物事の本質と言うものは簡素さにこそあるのですよ。私としては、奥様の研鑽によってこのコーヒーがどのような味わいになるのかが楽しみですね」
「『自称』とはなんだ。私はお前よりもよほど長くこの店のコーヒーを嗜んでいるのだぞ」
「人生も知見も、大切なのは長さではなく深さですよ。ただ長いだけを誇るのは、貴方が馬鹿にしていた老害というものと同程度では無いですか?」
「ふん、深さというのなら猶更だ。お前こそ昨日今日この店に来るようになった身で知ったような口を叩くなど、机上で空論を振りかざすだけの三文学者共と大して変わらないのではないか?」
「書類の山を前に、毎度敵前逃亡するような無責任な者の発言に、誰が感銘を受けるのでしょうね」
コーヒーの話から人格問題にまで発展した、気の置けない、というには些か過剰のように聞こえる会話ではあるが、当人達は楽しそうなので余計な口は挟まずに見守る事にする。
コーヒーと共に会話を楽しむ事もまた、この店の醍醐味であろうから。
「そう言えば、今日は彼奴は居ないのか」
ややあって会話も一段落したのであろう魔王が、今更気付いたようにフローラへ問う。
「いつもならもっと早くに彼奴が止めに入って来そうなものなのだが」
そう言って店内を見まわす。
「ええ、朝食の間に何か思い付いたみたい。食べ終わると同時に飛び出して行ったわ」
「まったく、細君一人を置いて放蕩三昧とは、あれも良い身分だな」
苦笑するフローラを見ながら呆れたように口を開く。
「まぁ、華やかさという点でもコーヒーを淹れる腕前という点でも、あれはこの店になんら寄与していないからな、客の側から見れば居ても居なくても同じような物か」
やや非難めいた軽口を叩きながら、愉快そうにカップを口に運ぶ。
「態々悪し様に語る事も無いでしょうに。申し訳ありません奥様、これでも気を遣っているつもりなのですよ」
宰相がフローラに頭を下げた後、隣を見て溜息を吐く。
「実際のところ、城の中では誰が聞いているかわかりませんからね。滅多な話をする事も出来ず、さりとて街の酒場なんぞに繰り出す事も敵わず。こういった周りを気にせず好き勝手喋る事の出来る場所があるのは、我々としても非常に有難いのですよ」
そう言ってゆったりとコーヒーを口に運ぶ。
「それに、この人が居なくなってもここに来れば捕まえられますしね」
片肘を着きながら、隣の主君を見て笑みを零す。
「わかっているから大丈夫よ。それに、彼がどこに飛び出して行ったとしても、帰ってくるのはここだもの」
そう言って柔らかく微笑む彼女を見て、両者は肩を竦める。
「あれには勿体ない程に出来た細君と言うべきかな」
「ええ、まったくです」
二人の感想に、フローラは笑顔で答えるのだった。
§
あれから暫く、時に二人で、時にフローラを交えながら軽口を叩いていた二人を見送ると、日は既に中天を過ぎようとしていた。
店の札を『閉店』に返し、クレアに持たせたサンドイッチの残りを摘まんで軽い昼食にする。
昼休憩を終えたら札を再び『営業中』へ返し、午後の営業の始まりだ。
とはいえ、客が来ないのもいつもの事なので、静かな店の中でフローラは一人思考の海に沈む。
考えているのは水出しコーヒーの事。
とりあえず同じ豆を使い、深く煎った後に同じ挽き方をした物。同じに煎った後により細挽きにした物を作ってみようと棚の中から豆を取り出しロースターへ入れる。
ややあってロースターから香ばしい香りが漂って来た頃、店の扉が開き、ドアベルが軽快な音を立てた。
「いよう、大将はいるかい?」
そう言いながら店に入って来たのは、近所の鍛冶屋のおやじさんだった。
「今日は朝から出かけているけれど、急用かしら? 急ぎなら連絡を取る事は出来るけれど」
カウンターに腰掛けるおやじさんに水を差し出しながら問う。
「いや、ちょっと届けモンがあっただけだ。帰ってきたらコイツを渡しておいてくれればそれでいいや」
そう言って懐から何物か取り出すとカウンターの上に置く。
「スプーン?」
それを見たフローラが首を傾げる。
「今朝ウチに駈け込んで来た大将に頼まれてな、スプーンはスプーンなんだがちょっと変わった形をしているんだ」
言われてカウンター上のスプーンを良く見ると、先端の部分に平らな板状の折り返しが付いているのが見える。
もう一つはやたらと柄の長いスプーン。
「何に使うかは知らないが、使い方がわかったら教えてくれねーか」
そう言ってにやりと笑うおやじさん。
この店のカウンターで二人、悪い顔をしながら何事か話し合っているのをたまに見かけるのだが、もしかしたらこれも画期的な発明なのだと考えているのかも知れない。
「うちの人がごめんなさいね。お礼に一杯如何かしら」
そう言ってコーヒーの入ったデカンタを掲げて見せる。
「おっ、有難いねぇ。最近はかみさんからホックだっけか? あればかり作らされてよお、たまにゃ他の物も作らねーと、腕がにぶっちまうってもんだ」
そう言ってカウンターに腰掛けた親父さんの前にカップを置く。
ホック作りの話に始まり、小言が多いの小遣いが少ないの、コーヒーを啜りながらおかみさんに対する愚痴をこぼしてはいるが、彼女の事を語る時の目は優しい。
一頻り愚痴をこぼし終わった後、カップに残ったコーヒーを呷ると腰を上げる。
「ごっそさん。大将が帰ってきたら宜しく言っといてくれ」
そう言い残し店を出て行くおやじさんを見送る。
『男なんてのは、いくつになったって悪ガキのまんまなんだよ。また馬鹿やってるって放っておく位で丁度良いのさ。その代わり、余所様に迷惑かけるような事が有れば、その時は尻ひっぱたいて叱り飛ばしてやんな』
豪快に笑いながらコーヒーを飲んでいたおかみさんの言葉を思い出す。
絵物語で語られる、燃える様な情熱は無くても、酒場の詩人が語るような眩しい程の煌めきが無くても、二人寄り添って来たその姿には、積み重ねて来た時間に伴う落ち着きと安心が有って。
フローラにとっては、夫婦として、妻としての在り様を教えてくれる、両親と同じく心の師匠でもあり、おかみさんの来店は、彼女の密かな楽しみでもある。
その時は、大抵クレアも『ふんふん』言いながら一緒になって話を聞いているのだが。
§
おやじさんを見送った後は来客も無く、いつもの静謐な時間を過ごす。
そうして豆を挽いて水につけた頃には日は西に傾こうとしていた。
札を『閉店』に返して本日の営業は終了。
店の後片付けをしていると、彼が紙包みを抱えて帰って来た。
「すまん、少し遅くなった」
そう言って紙包みから取り出した瓶のうち、口の広い方を冷蔵庫へと仕舞う。
もう一本の瓶はカウンターに置かれた。確か酒精の強い蒸留酒だったと思う。
酒道を嗜む者が居ないこの家では、酒と言えば料理に使うワイン位しか常備されておらず、彼が酒を買って来るのは珍しい事と言えた。
「お、言うの忘れてたけど、コーヒー残ってて良かった」
そう言って指を鳴らす彼を見て、不思議そうに首を傾げるフローラ。
「ま、後のお楽しみって事で一つ」
下手くそなウィンク一つ返すと、彼も一緒になって後片付けを始める。
カウンターの外と内とに分かれて片づけをする間、今日の事を語り合う。
彼とは言えば、本日何をしてきたかというのを秘密にしておきたいらしく、悪戯っぽい笑顔ではぐらかすのみ。
自然、フローラが一方的に喋る事になる。
「あの野郎、言いたい放題言ってくれるじゃねぇか」
二人連れの客の話をしている時に、彼が憮然とするのを見てフローラがくすくす笑う。
「お、流石親方だな、注文通りだ」
鍛冶屋の話をした時に、彼が注文していたというスプーン二つを見て満足そうな顔をする。
相変わらず用途のわからないそれにフローラは首を傾げるが、相変わらず悪戯っぽい笑顔のままはぐらかされるのだった。
お楽しみは後に取っておきたいらしい。
おかみさんの言葉を思い出しながら、フローラは苦笑を浮かべるのだった。
§
「うし、そんじゃ俺は晩飯の支度しとくわ」
店の片付けを終えると、彼はキッチンへと入っていく。
「ええ、お願いね」
その後ろ姿を見送ると、フローラは一旦自室へと戻る。
ベストを脱ぎ、鏡台の椅子へ引っ掛けると、隣に置いてあった収納袋を手に取り、今度は一階に降りて庭先へと出る。
来訪者に気付いたグリが顔を上げるが、フローラの姿を確認すると再び丸くなる。
野生の感じられぬその姿に苦笑しながら、収納袋から一通りの武器を取り出す。
一つ一つ感触を確認するように型をなぞる。勘を鈍らせない為、ほぼ毎日行っている彼女の日課だ。
「ただいま戻りました~」
いくつかの型を終え、うっすらと汗をかき始めた頃、クレアの声が聞こえる。
声のした方を見れば、玄関側からこちらに顔を覗かせているクレアが見えた。
「おかえりなさい。少し遅かったのね」
「ええまぁ……」
フローラの声に、頬をかきながらばつが悪そうに答えるクレア。
「何かあったのかしら? 言い難い事で無いなら話を聞くわよ?」
「その~、なんと言いますか、柄にもない事をしたと言いますか、語ったと言いますか……」
「そう、なら夕食の時にでも聞かせて頂戴。勿論、話せる範囲で構わないわよ」
恥ずかしげではあるが緊急では無さそうだと判断し、そう声をかける。
「そうですね。大した事では無いんですが、ちょっと気恥しいというか、なんというか……」
指を合せてモジモジしているクレアの姿はあざといというか何と言うか、これを目の前でされれば、大抵の男は落ちるのではないかとフローラは思う。
今のところ、『大抵』の外側に居る彼の事を思い浮かべ、さていつまで外側で居られるだろうと、少々意地悪な考えが頭をよぎる。
「今夕食の準備中だから、先に湯浴みして着替えてらっしゃい。私もそろそろ中に入るわ」
その言葉に頷いて玄関をくぐるクレアを見送ると、残りの型を済ませるべく再び武器を手に取る。
クレアと一緒に帰ってきたフォンがその姿を眺めていたが、クレアが肉を抱えて出てくると、グリと一緒に駆け出して行った。
襲い掛かられたクレアが尻餅をつく事になるのだが、それもまた日常の風景であった。
§
シャワーを頭から浴びながら、泡と共に一日の汚れを落とす。
湯船に浸かれば、思わず漏れる溜息と共に、一日の疲れが抜けていく。
今日の湯船には、先に入ったクレアの好みであろう柑橘系の精油の香りがしていた。
室内着を纏い、髪にタオルを当てながらダイニングに入れば、そこには今日の夕食が並んでいる。
「待たせたかしら?」
そう言いながら席に着けば、彼がサラダボウルを抱えてキッチンから顔を覗かせる。
「いんや、丁度良いタイミングだ。あとは運ぶだけだから座って待っててくれ」
言われて席に着けば、テーブルの中央には塊のまま焼かれた肉が大皿の上に鎮座し、各席の前には取り皿と取り分けられたスープにパン。
そして、肉の塊を見て目を輝かせているクレアが居た。
「お待ちどうさん」
彼が抱えていた、ボウルに盛られたサラダをテーブルに置けば夕食の準備完了。
大皿の上で切り分けられた肉が各人の皿へ取り分けられていく。
「今日はいつもより豪華な気がするけれど、何かあったかしら?」
フローラの素朴な疑問は、
「今日はこの後もあるんでね、ちょっと雰囲気出してみた」
そんな言葉と共に、彼のしたり顔で返されるのであった。
『いただきます』
そう声を合せれば、いよいよ実食開始である。
最初の少しの間だけ、言葉少なく食事に集中するが、すぐに会話が始まる。
夕食の話題と言えば、大抵は今日の出来事の報告となる。
今日も今日とて御多分に洩れず、それに倣っているのだが、彼はと言えば『後のお楽しみ』というだけで特に語らず、自然とクレアの話を聞く事となる。
「そう言えば、さっきは何かあったような雰囲気だったけれど、聞いても大丈夫かしら?」
「あ~、そうですね……」
若干言葉を濁しつつも、今日あった出来事を語る。
§
「そんな事があったのね」
「はい、それでちょっと困ってしまって。なんで私なんかに執着されるんでしょうね、フローラさんやオフィーリアさんも居るのに……」
複雑そうな顔を擦るクレアになんと声をかけて良いか悩むフローラ。
「まぁ、クレアは誰にでも人当たりが良いからなぁ。そういう勘違いをする奴も中には居るってことさ」
「そうですか……」
自らの性分が招き寄せたと思えば少々落ち込んでしまう。
「加えるなら遭遇率の高さもあるだろうな」
「遭遇率、ですか?」
続く言葉に首を傾げる。
「ああ、基本的にフローラは店から出ないだろ? オフィーリアに至ってはこの街にいる事の方が珍しい。結果、表に出る事の多いクレアが目に留まるって訳だ」
「なるほど……なら、私もあまり表に出ない方が良いんでしょうか?」
恐る恐る訊ねてみる。
「んなこたねぇだろ。クレアの人当たりの良さはクレアの良い所だ。別に改める必要はないさ。それに、断るべきはちゃんと断われてる。なら、悪いのは言葉の通じない勘助の方だ。その為に行動を制限されるなんて馬鹿らしいじゃねーか」
「勘助、ですか?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ああ、『勘違い野郎』の事を俗にそう呼ぶんだよ。まぁあれだ、あんまりしつこいようなら俺が話をつけるよ。『ウチの大事な店員に手ぇだしてんじゃねーよ』ってな」
彼の言葉にくすりと笑い、少しだけ顔を赤らめて答える。
「それは……多分もう大丈夫かなぁと。その、色々圧し折りましたから」
クレアの言葉に一瞬虚をつかれた二人だったが、その後には笑いの花が咲く。
「それで良いんだよ、ちゃんと対処できるじゃないか」
「そうね、何も心配いらなかったわ」
そう言って笑い合う二人。
「もうっ! そんなに笑う事無いじゃないですか!」
気恥ずかしさから赤面したままクレアは拗ねて見せるが、ややあって笑いも落ち着いた二人に宥められ機嫌を直す。
「それでですね、実はもう一つあるんですが」
その言葉に、再び耳を傾ける姿勢の二人。
「あら、そっちも是非聞きたいわね」
「だな、全部語っちまいなさい」
「それがですね……」
§
「それに何か問題があるのかしら? 当り前の事を言っただけの様に思うのだけれど」
「んだな。別に間違った事も言ってないし、普通に感謝される案件だと思うぜ」
二人の不思議そうな顔に、またもや赤面して小さくなってしまうクレア。
「その、ですね。何と言いますか、我ながら偉そうな事を言ってしまったとか、出過ぎた真似をしたと言いますか……」
縮こまったままのクレアを見て、二人は溜息を吐く。
「謙虚さは美徳ではあるけれど、これはちょっと重症かしら」
「だなぁ」
顔を見合わせて再度溜息を一つ。
「ねぇ、クレア」
フローラの言葉にクレアが顔を上げる。
「貴女はもっと自信を持って良いのよ? 貴女は間違いなく最高位Sランクの冒険者なのだから」
「それは、そうですけど……」
彼女には自身を過小評価する悪癖があるのが知っていたが、これは少々根深いかも知れないとフローラは思う。
「それに、私もオフィーリアも、ただ仲が良いだけでパーティーを組んだりしないわ。貴女が私達と肩を並べて戦える、背中を預けられると信頼しているからこそパーティーを組んでいるのだから」
「はい……」
「それに、貴女が貴女自身を卑下するのは、貴方の事を認めている人達の見る目が無いと言っているのと一緒よ?」
「そ、そんな事は!」
はっとして顔を上げる。
「なら胸を張れば良い。今日、クレアは良い事をした、誇るべき事をした。少なくとも、俺達はそう思っているよ」
「そうね」
そう言って向けられた二人の笑顔に、クレアも笑顔で返すのだった。
「はい!」
§
「ではお嬢様方、こちらへどうぞ」
夕食を終えて暫し食休み。
その後、彼は些か芝居がかった調子で二人を店舗のカウンターへと誘う。
照明を落とし、いくつかのキャンドルランプだけが灯された薄暗い店内は、なんだか昼間とは随分と印象が変わって見える。
特に、フローラはクレアと違って常時カウンターの内側に居る為、少々落ち着かない様子であった。
「今朝のコーヒーを飲んで、ちょっと思い付いたんだよな」
客席に二人を座らせると、彼はカウンターの内側で何事か準備を始める。
「まずはこれから」
そう言ってカウンターの上に置かれたのは、一組のコーヒーカップとソーサー。
少し高めの温度に温められたコーヒーが注がれると、その上にスプーンが渡される。
「それは……」
何かに気付いたフローラが声をあげる。
「そ、今朝親方に頼んで作って貰ったスプーン。このさきっちょの返しがカップの縁に引っ掛かって、カップの上にスプーンを固定出来るんだ」
少々得意気な顔でスプーンついて説明される。
「そうなのね……でも、なぜわざわざそこに置く必要が? 」
「ま、仕上げを御覧じろってね」
フローラの疑問に笑顔で返すと、今度はスプーンの上に白い塊を乗せる。
「それは……砂糖かしら?」
「ああ、『角砂糖』って言って、粉の砂糖をこの形に固めた物なんだ」
そう言いながら、カウンターに置いてあった蒸留酒を手に取る。
「ある程度酒精の強い酒じゃないと駄目なんだよなぁ。多分大丈夫だと思うけど」
瓶の口を開け、少しずつ角砂糖の上にそれを注いでいく。
砂が水を吸い込むかのように酒を吸収していた角砂糖だが、やがて吸いきれなかった酒がスプーンへと溜まる。
スプーン一杯に酒が満たされたところで注ぐのをやめると、カップをそっとフローラの前に差し出す。
「それじゃ仕上げだ」
そういって細い木の棒を取り出すと、キャンドルランプに翳して火を移す。
その火を、酒の満たされたスプーンの上でゆっくりと輪を描くように動かすと……。
「これは……」
「わぁ~!」
スプーンに注がれた酒に火が点き、青い炎が上がる。
その火の中で、角砂糖は見る間にその形を失っていく。
薄暗いカウンターの上で仄かに点る青い炎に、フローラもクレアも、言葉を忘れ見入っていた。
「あ……」
ややあって、酒精の全てを燃やし尽くした炎が消える。
そこには、完全に溶けた砂糖の乗ったスプーンだけが残されていた。
「そのスプーンでコーヒーをかき混ぜて飲んでみてくれ」
彼の言葉に従い、砂糖の溶けた酒に満たされたスプーンをコーヒーの中に入れる。
そのまま二回、三回とかき混ぜてから、カップを持ち上げる。
「これは……」
いつも感じているコーヒーの香りの中に、蒸留酒の香りが立ち昇る。
口に含んでみればそれはさらに顕著となり、初めに酒の香りが鼻に抜け、それをコーヒーの香りが追いかける。
酒を使ってはいるが、先に燃やして飛ばしている為か酒精臭さは無く、酒の風味と香りがコーヒーに加味されていた。
「美味しい……」
「今日のコーヒーはいつもより香りが弱かったから、こうしてみたら面白いかと思い立ってさ。成功して良かったよ」
フローラの感想を聞き、ややほっとしたかのような表情で語る。
「私も! 私にも下さい!」
クレアが手を上げて存在をアピールする。
「ちょっとまってな? クレアにはこっちだ」
そう言って彼が取り出したのはワイングラス。
そのグラスの中に砂糖を入れ、グラスの四分の一ほど酒を注ぐ。
普段サイフォンを加熱するのに使っているヒーターの上に翳してゆっくりとグラスを振ると、熱された酒の中で、砂糖がゆっくりと溶けていくのが見えた。
砂糖の粗方溶けたグラスの口を、今度はキャンドルランプに翳す。
「わぁ~……」
グラスの中に青い炎が点り、再び幻想的な光景が浮かび上がる。
「素敵ですね~」
クレアの前でグラスをゆっくりと振れば、その演出に目を輝かせる。
「あっ……」
少しの間そうして炎を眺めていたが、グラスをカウンターに置くと、一気にコーヒーを注ぎ入れる。
火の消えたグラスを、少しだけ残念そうに見つめるクレアの前で、グラスの中に浮かせた柄の長いスプーンの背に当てながら、ゆっくりとクリームが注がれていく。
「よし……」
ゆっくりとスプーンを引き抜いて、グラスをそっと差し出す。
「ふわぁ……」
目の前に置かれたグラスは、黒と白の二層に分かれた中身がガラスを通して見えている。
「かき混ぜずに、そのままゆっくりどうぞ」
やや気取った動作で示されたグラスを、ゆっくりと持ち上げて口へ運ぶ。
「んふ~」
幸せそうな満面の笑みが浮かぶ。
「ミルクの代わりにクリームを使ってるから、その分量が少なくても濃厚な味になってると思う。砂糖も入ってるからそこまで苦みは感じないと思うけど」
「はいっ、とっても美味しいです!」
彼の解説に笑顔のまま返事をすると、二口、三口と口にする。
「どうかな?」
クレアの様子を微笑みながら見ていたフローラに声をかける。
「そうね、こんな飲み方もあるなんて素敵な体験だったわ」
フローラの評価に小さくガッツポーズをする。
「まぁ、酒を使うから真昼間から店で出す訳にはいかないけどな。たまのナイトキャップには良いんじゃないかなって」
「そうね、ここは酒場では無くて喫茶店だものね」
彼の言葉に微笑みながら答え、カップに口を付ける。
そうして二人で笑っていると、
「ま~たそうやってふたりだけのせかいをつくるんれすね~」
クレアの、どこか間延びしたような声がかかる。
声のした方を見てみれば、顔を真っ赤にしたクレアが、ジト目でこちらを睨んでいた。
心なしか体が左右にふらふら揺れているように見える。
「まさか、あれだけで悪酔いしたのか……」
「そう言えばクレアがお酒を呑むところは初めてみたわね……」
「な~にいってるんれすか~。いつもいつもそうやってふたりのせかいをつくってはわたしをおいてけぼりにしれ~」
驚いている二人を尻目に、やや呂律の回っていない言葉を発しながらフローラに抱き着く。
「わらしらって、わらしらって~……」
そこまで言って、次の句を告げずに黙り込む。
「クレア?」
フローラがクレアの顔を覗き込んでみると、フローラの胸に顔を埋めたまま安らかな寝息を立てていた。
「まいったな……」
頭を掻きながら苦笑する。
「クレアには、一人でお酒を呑ませないようにした方が良いわね」
フローラも苦笑する。
「とりあえず、クレアを部屋に寝かせてくるよ。悪いけど後片付けをお願いして良いかな」
「ええ、わかったわ」
フローラに抱き着いているクレアを優しく抱き上げると、抱き上げた彼のその胸に、頬を擦り付ける様に身動ぎする。
「んふ~」
その寝顔には、笑みが零れていた。
クレアを抱えて住居へ向かう彼を見送る。
丁度店舗との境の辺りで、クレアが何事か呟いているのが聞こえるが、それは聞かない事にしておいた。
§
「不器用というかなんというか……」
カップとグラスを洗い終え、手を拭きながら呟く。
クレアの気持ちは知っているし、その事に否やはない。
『家族が増える』という事考えれば、むしろ歓迎すべき事である。
さりとて、あくまでそれは当人同士の心の問題。背中を押す位はしても良いだろうが、押し付けるのは無粋が過ぎる。
そう結論付けると、キャンドルランプの灯を落とす。
真っ暗になった店舗を後にし、彼女は自室へと戻る。
室内着を全て脱ぎ捨て曇りガラスから覗く月に裸身を晒す。
クローゼットからバスローブを取り出し身に纏う。
自室をから廊下に出て扉を閉める時、隣のクレアの部屋の扉が目に入る。
―― 彼女には申し訳ないけれど、もう少しだけこのままで ――
夫婦の寝室へ向かう。
少しだけ体が火照っているように感じるのは、先程飲んだお酒のせいだけでは無いだろう。
激しく情熱的な夜か、
とろけるような甘美な夜か、
いずれにせよ、彼女の一日はもう少しだけ、終わらない。
繰り返しますが、私はコーヒーが飲めませんので、作中に置いて語られるコーヒー関連の事例は全て伝聞、或いは想像です。
その点ご留意下さい。
※クレアsideの出来事は、また別の機会に。