鳳仙峠
深夜、日が変わるか変わらないかという時間。
ライトで煌々と照らされた駐車場、積荷の最終チェックを済ませて積み込み業者に挨拶を済ませ、トラックに乗り込む。
出発しようと荷物を満載した大型トラックのエンジンをかけ、ギヤをパーキングから一速に入れようと手をかけたところで扉をガンガンと叩く音にビクッとなった。
「おい昌義、ピンチヒッターすまないな」
パワーウィンドウを下ろして顔を出すと先輩の一条さんが俺を見上げながらそんな事を聞いてきた。
「いえ全然、気にしないで下さいよ」
強面の一条さん、実際に喧嘩っ早いというのもよく聞くので苦手な先輩だ。
「鳳仙峠を走るだろ、あの峠は初めてか?」
こちらが見下ろす形になっているのに見下ろされている様な圧迫感を覚える。
やっぱり苦手だな・・・
「はい、鳳仙峠は初めてですね」
「あの峠は急コーナーが多いから走る時は携帯の電源を切っといた方がいい、着信音で気を取られた瞬間にやっちまう新人が前に何人かいてな」
一条さんは俺にそう告げた。
「あ、はい、分かりました」
俺は長距離トラックの運転手になって2年、今まで無事故無違反でトラックをどこかにぶつけた事も無い。
それなのにわざわざそんな事を言ってくるくらいだからよっぽど走りにくい峠なんだろうか?
自分ではもう新人って感じでもないんだが、以外に自分の知らない所で俺はやらかしそうな奴と思われてるんだろうか・・・
「それじゃ、行ってきます」
ちょっと腑に落ちない感覚はあったが強面の一条さんに「大丈夫っすよ」と軽口を叩く気概はないので素直にしとこう。
「あぁ、気を付けてな」
俺は一条さんに軽く手を上げて走り出した。
なんか今日の一条さんは妙に優しかったな、いつもはしかめっ面であんまり喋らないのに。
鳳仙峠ってそんなに事故が多いのか?
あっち方面はいつもは一条さんの担当だ、今回は一条さんが娘の結婚式でピンチヒッターとして俺が行くことになった。
峠を越えた先には人口が1000人もいないような街があり、そこのスーパーへ月に1度の卸しの仕事。
時計を見ると深夜の1時半、殆ど人の気配の無い街中を走り抜け、道路沿いの民家も疎らになってきた。
目的地までは片道で4時間、一条さんの言っていた峠は2時間程走った所にある。
あれ?
そういえば一条さん、明日は娘さんの結婚式なのになんで会社の駐車場にいたんだろう?
まさか、わざわざ俺にあんな事を言うためにいた訳はないよな・・・
スマートフォンに映されたマップをチラリと見ると鳳仙峠にもうすぐ差し掛かる。
車に添え付けられたカーナビはあるが、スマートフォンのナビの方が地図も最新の上に道を曲がる時の指示もタイミングが分かりやすいのでもっぱらこっちを使っている。
出発前に地図上で見た限りでは確かに峠特有の細かいカーブが多かった。
下り坂でスピードを出しすぎてカーブに入ると危険は危険だが、それは何処の峠だって同じ。
わざわざ携帯の電源を切っておけというのは何故なんだろうか?
スマートフォンの道案内が曲がり角を告げ、曲がった先は上り坂になっていて件の峠の入口だ。
最後の民家が終わりを告げ、片側一車線の峠道に入ると周りは真っ直ぐに伸びた杉の木が道を見下ろしていた。
大抵、山に差し掛かった辺りは杉の木ばかりだ。
トラックのヘッドライトは峠の街灯もない道を走っていると心許なく感じる。
対向車は全く無い、サイドミラーを見る、巻き込み防止用のライトがトラックのサイドを照らしている、後ろから走ってくる車の気配も全くない。
俺は走る時にカーステレオは使わない、今、聞こえるのは車のエンジン音とタイヤが路面を走る音だけ。
長い上りが終わり、今度は下り始めた。
時計は3時前、確かに、カーブは多いが他の峠と比べて際立っている感じはしない。
フォンフォンフォン!
サイドミラーを見ると凄まじい速さで妙なエンジン音のセダン車が走ってくる。
峠を走っていると割と見かける走り屋の類だろう、大抵放っておいたら勝手に追い抜いていく。
気にすることもなく走り続ける、何故かセダン車は追い抜かずに後ろを走っていた。
ん?
妙な匂いが鼻をついた、眠気防止の為にエアコンで外気を循環させているから外の匂いだろう。
腐敗臭のような嫌な匂いだ、エアコンを室内の空気を循環させる様に切り替える。
街中ならまだしも、峠を走っていて外気を臭いと感じたのは初めてだ。
おかしい、腐敗臭がどんどんと濃くなっている気がする。
その時、ナビを起動していたスマートフォンが着信を知らせた。
こんな時間に誰だと思う間もなく俺は通話を押す。
「ドッカァン!! ぎゃあ"ぁぁあ"ぁぁー!!!」
スマートフォンから聞こえてきたのは衝突音と耳を劈くような悲鳴だった。
「なっ! えっ!?」
なんだこれ?
「いたいぃぃ、たすけてぇぇ」
「くそぉ、いてぇよおぉ」
スピーカーからは男女の助けを求める声と呻き声がずっと聞こえてくる。
「なんだよなんだよ、なんだなんだなんだっ」
俺は軽いパニック状態になってなんだを繰り返した。
「いたいーっ!! たすけてっ! たすけてぇーー!!」
通話を切ろうとするが今もスピーカーからは絶えず悲鳴と助けを求める声が響く!
「どこいくんだっ!? 逃げるなっ!?」
「あ"あ"ぁぁーーーー」
バンッバンッバンッバンッ!
トラックを叩く音が鳴り響く!
どういう事だ!?
サイドミラーを見ると右には男が、左には女が、四つん這いでトラックの側面に張り付いている!!
どちらも血塗れで巻き込み防止のライトに照らしだされ、こちらを睨みつけながらトラックの荷台をバンッバンッと叩いている!!
恐怖のあまりパニックになってアクセルをめいっぱい踏み込んだ瞬間、さっきまで後ろを走っていたセダン車がいつの間にか前を走っていた!
「どーいう事だよ!」
道幅の広くない片側一車線をいつの間に抜いたっていうんだ!
セダン車は前を蛇行して走り始めた!
「くそっ!」
バンッバンッバンッバンッ!
両側に張り付いている男女は荷台を叩きながらまるで蜘蛛が這うかのように運転席へとゆっくり近づいてくる!
前を走るセダン車はハザードランプを炊いて蛇行しながらゆっくり速度を落としている。
くっそ、こっちは速度を上げたいってのに!
上りが終わって下りに入ると対向車線が登坂で2車線になったので俺はアクセルをめいっぱい踏み込んで対向車線に飛び出し強引にセダン車を抜きに行った!
なんとその動きを読んでいたかのようにセダン車は進路を塞ぎこんできた!!
「あっぶねえっ!!!」
下りでスピードが出ていた上にアクセルを踏み込んだので危うくぶつかりそうになる!
今度はブレーキをめいっぱい、ペダルが床にめり込む程に踏み込んだ!
大型トラックはケツを滑らせながらそのまま対向車線を跨いで登坂車線の端で歩道に少し乗り上げる形でなんとか止まった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
全身にびっしょりと汗をかいている。
ハッとなってサイドミラーを見たがそこにはなにもなかった。
トラックの前に止まったセダン車から男がゆっくり降りてきた。
「昌義、大丈夫か」
そこにいたのは一条さんだった。
俺はサイドミラーをもう一度見てなにもいない事を確認してからドアを開けて降りた。
「一条さん」
なんでここにいるんだ?
一条さんはセダン車の横に立って俺を手招きした、懐から取り出したタバコにマッチで火をつける。
強面の顔がぼんやりと浮かび上がるが今は怖い気持ちよりも安心感を覚えた。
「危なかったな」
ふーっと煙を吐きながら俺の顔を見て一条さんは少し笑った。
そして、歩道の脇にしゃがみこんで土山を作り、そこにつけたばかりのタバコをさした。
「なんですか、それ」
「線香の代わりだ」
そう言いながら新しいタバコを取り出して火をつける。
「お前も吸うか?」
セブンスターを差し出した。
「あ、いただきます」
1本、ソフトタイプの箱から飛び出たセブンスターに手を伸ばすと俺の手は驚くほど震えていた。
俺がタバコを咥えると一条さんがマッチの火を差し出してくれた。
すーっと大きくタバコを吸い込む、チリチリと焼ける音が聞こえてタバコの先が真っ赤に燃える。
ふーっと煙を吐くと気分が随分と落ち着いた気がする。
「あれ、見てみろ」
一条さんが顎でしゃくった方を見るとさっきトラックの荷台に取り付いていた2人の男女が坂道の上の方からこちらを見下ろしていた。
薄ぼんやりと光っているようにも見える。
俺は声も出せずに後退りした。
「大丈夫だ、もう心配ない」
「ナンなんですか、あれ」
「あそこの建物見えるか」
タバコを挟んだ手を山の方に向ける、ネオンが光っていた。
「ラブホテルですか」
なんであんな所に?
距離はここから歩いて10分くらいか、山間の少しだけあるスペースにわけいって立った様な、そんなホテルがピンク色のネオンを光らせていた。
周りの木々がなんだか迷惑そうに見える。
「今流行りの浮気してる連中で案外と客はいるらしいな、それで、この登坂車線の歩道からの景色が昼間は良いらしくてな。 ホテルから出て歩いてる所を轢かれたみたいだ」
タバコを挟んだ指を指し示しながら一条さんが説明する。
「なんでそんな事知ってるんですか?」
・・・
「こう見えてな、俺は霊感が強いんだ」
少し間を置いてからそう一条さんは言った。
「アイツらはここを通る車の携帯を鳴らして、着信をとった奴の車に張り付くんだ、お前も危なかったぞ。 この下りを下りきった先のコーナーはあのスピードで入ったら曲がりきれなかった」
口の端を軽く上げるくらいの薄い笑顔で話す一条さん。
「一条さん、俺の為にわざわざ来てくれたんですか?」
「あぁ、お前がスマホのナビで車を走らせてんのを思い出してな」
「明日は娘さんの結婚式じゃ?」
「あぁ」
一条さんはちらっと腕時計をみた。
「ま、大丈夫だ。 コイツで飛ばしたら余裕で間に合う」
一条さんは真っ赤なセダン車を撫でた。
マツダのRX7。
あの妙なエンジン音はロータリーエンジンだったのか。
「いつの間にか前を走ってましたよね?」
「お前が左のコーナーに入った瞬間、アウトから前に出たんだよ」
パニクっていたとはいえ、気づかないうちに前に出るとは凄い腕と車だ。
「いや、本当にありがとうございました。 一条さんが来てくれなかったら今頃死んでたかも知れません」
「気にするな、お前が駐車場から出る時にハッキリ言わなかった俺が悪い」
そうは言っても俺は駐車場で聞かされてもこんな話を信じなかっただろう。
「じゃあな、スマホの電源は切っとけ。 トラックのドライバーなら地図を頭の中に入れるまでは新人だ、じゃあな」
一条さんはタバコを携帯灰皿で揉み消してRX7に乗り込んだ。
俺は一条さんの車の窓に向かってもう一度頭を下げた。
一条さんは車をスっとUターンさせて窓から手を振って一瞬でカーブを曲がって消えた。
俺はタバコを地面で揉み消し、吸殻をちゃんと持ったままトラックに乗り込んだ。
サイドミラーを確認して、なにも無いことを確かめるとスマートフォンを見た。
スマートフォンの画面は何事も無かったように地図アプリを映し出している。
俺はスマートフォンの電源を切ってから走り始めた。
車に充満していた腐敗臭は消えていた。
坂を下りた先のカーブをゆっくりと曲がり、今度、一条さんを飲みに誘おうと考えながら峠を越えた。