第三話
「主上…………」
その声はいつもの璃桃よりも僅かに低いように思う。
感情が表に出ないように抑えているからか、それとも青鷹に興味がなくなったからか。前者ではなく後者な筈だ。
眺める先には二つの影。
初夏にふさわしい明るい陽の光を纏った少女と――この国の皇帝。
焦がれて、手に入れたくて仕方なかった男の顔を見下ろして、僅かに安堵する。
少なくとも、あの焦りにも似た気持ちは璃桃の心のどこを探してもない。皇后になるために、ならなければ、いや、なる筈だ、といつも高慢に顰められていた眉間に無意識に触れる。
「……いっそ初めから皇后位を与えてくれれば良かったのに」
そう、そうすれば璃桃自身にも説明出来ない、モヤモヤを抱えることもなかった筈だ。
翠蘭に比べて璃桃が優るものは一つもないだろう。
勿論、生まれの違いはある。だが璃桃自身に誇れることは何ひとつとしてなかった。
自嘲気味に笑う。
青鷹の大きな掌が、きらきらと光を浴びて輝く少女の頭を撫でる。それは優しくというよりは悪戯をした子供相手のように無邪気な仕草に見せていて、だが瞳は慈しむように細められている。
璃桃が、青鷹の後宮に入って約三年。
青鷹があんな風に笑うところを見たことはなかった。
彼の笑みはどちらかといえば冷たく映る。唇の端だけで笑うような、温度のない嗤いだ。後宮に集う美姫が揃っていても、まるで興味がないのか無感動にしていた青年と、眼下の青鷹は別人のようで。
胸が痛む。
璃桃は狼狽した。
「……あのような主上を見たことはない」
――あのような主上を見たことはない。
抑揚のない声でポツリと零すが、欄干を持つ手は強く握りこんだせいで白くなっていた。
後宮で正式に翠蘭が淑妃となった日に、璃桃はその光景を見ていた。
(多分、少しくらいの違いはあっても台詞は決まっているのだわ)
赤く紅を引いた唇が歪む。先程も勝手に言葉が唇から溢れていた。ゲームに出てこない部分は自由だが、本筋は変えられないようだ。
台詞だけはそのままに、エンディングを変えるのは至難だと思う。しかし、乗り越えねば毒杯は避けられない。
「嫌だわ」
――嫌だわ。
呟きは本来の悪役、迂貴妃の台詞と同じだった。苦笑いで白くなった指先に僅かに視線を落とし、指を意識して動かす。
心配そうな侍女を無視し、眼下の二人を眇めた。
(……あのシーン、俺には味方が少ない、とかそんな感じの台詞だった筈)
――すまなかったな。
――もう! 何度謝れば終わるんですか!
脳裏に台詞がよみがえる。
――青さんは私を助けてくれたんです! それでいいじゃないですか!
朗らかに少女が笑った。
画面いっぱいに甘く苦笑する青鷹の、整った顔。
――俺が皇帝だって知っても変わらないお前がすごいよ。
――私、青さんとはお友達だと思ってるので!
――そうか。なら、ずっと俺の味方でいてくれよ?
――勿論です!
まさに陽だまりのように、青鷹のゴツゴツとした手を包み込み、翠蘭が笑う。
璃桃は溜息を吐いた。
そろそろ翠蘭と青鷹が院子を眺める璃桃に気付く。その時、迂貴妃は鳥肌が立つ程冷えた視線で二人を見つめていた。同じように見ることは容易いが、それではバッドエンド真っしぐらだ。
璃桃は扇を優雅に広げると、一度顔を隠す。
あ……、と鈴のような可愛らしい声が聞こえた瞬間、璃桃は満面の笑みで二人を見下ろした。
ついでに翠蘭に向けて優雅に手を振ってみる。
青鷹が僅かにたじろぐ。普段、璃桃に感情を感じさせない無機質な青年とは違う瞳に満足を覚えた。
(このくらい態度で好意を示せば何とかならないかしらね)
ならないわね、と即座に否定し、璃桃は踵を返す。勿論、ゲームのように退場するためではない。その逆――二人のシーンに乱入するためだ。
完璧な妃としての歩き方で、しかもなかなかの速さで璃桃は院子に降りた。侍女――璃桃がまだ迂姫と呼ばれていた頃から側にいる春玉が、心得たかのように装飾の乱れを素早く整える。
「ご機嫌麗しゅうございます、主上」
青鷹は眉を寄せ、僅かに身を傾げて翠蘭を隠した。それは身構える、と言っても過言ではない態度で、まだ一度も渡りがないとはいえ、自らの妃に向ける視線ではない。
(こんな人間くさい主上は初めてね。わたくしがもしゲームの知識がなくて、このような主上にお会いしたら、そりゃあ翠蘭が憎くてたまらなくなるでしょうよ)
側仕えの高官や宦官、その他の女官たちも、青鷹の覚えめでたい孔攸すら、青鷹が周囲への警戒もあらわに、自らの妃と相対する場面など見たことはないだろう。
思わず溢れたものは溜息や嫌味ではなく――心からの笑みだった。
「迂貴妃、何用か?」
「――先日は失礼しました、崔淑妃」
不敬であることはわかっていたが、皇帝である青鷹が口を開くのにかぶせて、璃桃はその背の少女に直接声をかける。二つに結われた柔らかそうな金髪が、風に揺れてふわりふわりと広がっている。
呆気に取られたような顔の青鷹に些か意外な心持ちになった。しかも、どうやら孔攸は先日、璃桃と翠蘭の初邂逅の場面を主人に言わなかったらしい。ゲームにない展開のため璃桃は把握出来なかった。
「わたくし、あの時は気分が優れず……ごめんなさいね」
青鷹が目を見開いた。
ともすれば武官にも見える鍛えられた青年は、乙女ゲームの攻略対象らしく、かなりの美丈夫だ。だがぽかんと口を半分開けた姿は、あまりに意外だった。
(……雷に打たれたような衝撃を受けるのはやめてほしいわ)
かつての迂璃桃ならあり得ない。格下の、しかも市井の少女に謝罪を口にする。
確かに、衝撃的かもしれなかった。思わずクスリと笑みを落とし、そして見なかったようにしてあげようと顔を背ける。
だから、青鷹が璃桃を懐疑的に見ていたことに気付かなかった。
「……何があった?」
さらに意外なことに青鷹は璃桃に話しかけてきた。必要最低限以外は自らの妃には決して口も聞かず近寄りもしない、というあの青鷹が。
(それだけ翠蘭が大切なのね……)
璃桃は若干の同情を覚える。
翠蘭はこの後、後宮なのに乙女ゲーム!? という風に、攻略対象たちからかなり愛されることになる。後宮に入れたのは皇帝だが、必ずしも皇帝が翠蘭の心を得られるかといったら、そう簡単にはいかないのだ。
(この人が皇帝じゃなければね。協力してあげられるかもしれないのだけれど)
残念ながら、青鷹は皇帝で璃桃は貴妃だ。当初の予定通り、抱き込むには孔攸が一番である。
「いえ、大したことはございません。あの時のわたくしは本意ではなかった、とだけ崔淑妃にお伝え出来れば構わないのです」
青鷹の広い背中から顔だけ出した翠蘭ににこりと笑いかける。
翠蘭は少しだけ翡翠色の瞳を見開いた後、ぽっと頰に朱が差して、花が咲くかのような笑みを浮かべた。それは璃桃のように誰もが認める玲瓏な美貌ではなかったが、一度目にすれば心にずっと残るだろう、陽だまりのような暖かい笑顔だった。
「…………御前、失礼致しますわ。またいずれ」
精一杯の矜持だった。
背筋を伸ばし、裾は翻さないまでも素早くその場を後にする。
この胸に大きく響く音が自分の心臓の鼓動だと遅まきながら理解した璃桃は、自分の宮に戻ってもまだ呆然としていた。春玉が心配そうにしながら耳飾りや簪を外すのにも、全く気付いていなかった。
遅くなりまして、申し訳ありませんです。