第二話
夢だ、とすぐにわかった。何故なら璃桃はこの場にいるはずがないからだ。
それは璃桃が去った後だった。
階の下で砕けた簪を孔攸が拾って丁寧に手巾に包む。それは悲しそうに地面を見ていた翠蘭から隠すためだろう。
――翠ら……いや、崔淑妃。
孔攸が翠蘭の名を呼びかけ、言い直す。
訝しそうに孔攸を見上げた翠蘭の眦から、透明な涙がぽろっと落ちた。
――あ……やだ、わたしったら、なんで……。
悪意は幼い頃から感じていた。皆が遠巻きにする、西域人の容貌。国の端の方にはいないわけではないが、都であっては稀な要望。
――ごめんなさい、慣れているはずなのに。
翠蘭が自嘲気味に笑う。
――このぐらいで泣いていては、主上の後宮で根を張ることは出来ないよ。
――孔攸様……。
――言われたのだろう? 主上はこの薔薇ばかりが咲く花園に、蘭が咲くことを望んでいる。
孔攸の言葉に翠蘭がはっと目を見開いた。
たまたま出会った武官が実はこの国の皇帝だった。
驚き固辞する翠蘭を後宮に連れてきた。懇願された、と言ってもいい。何がそんなに気に入ったのか翠蘭にはわからなかったが、絆されたのは事実である。
翠蘭が孔攸を振り仰いだ。
――貴女を慰めることは出来ない。だが……そうだな、肥料ぐらいにはなってやる。
にやっと笑みを浮かべて言われた言葉に、翠蘭もまた笑みを作る。
――わたし、頑張ります! だからいっぱい栄養をくださいね、孔攸様。
僅かに赤くなっていた孔攸の耳に翠蘭は気付かなかった。
「……って、これ、ゲームの話だわ」
月の光が窓の隙間から差し込んでいる。
璃桃は夜半に目が覚めた。夢だとはっきりとわかっている夢を見ることは、あまりない。
画面で見るより臨場感があったのは、現実の孔攸と翠蘭を知っているからだろう。彼女を孔攸が慰めることはわかっていたから、何も不思議には思わない。
どちらかというと傍観者の気分なのは、どこかゲームの続きのように感じているからかもしれない。いわゆる動画や映画を見ているような、そんなワンシーンだった。
薄めの上掛けを剥ぎ、寝台から降りる。
物音を立てないようにして――今までそんなことに気を使ったことはなかったが、今は誰も邪魔して欲しくないから、息をひそめながら――璃桃は窓を開けた。
ちらちらと星の光が瞬く空に半分程の月が浮かんでいる。
(どうにかしないと……)
自分は何故かゲームの世界で生きている。しかも結末があまり愉快なものではない。
正直言って、今もまだ頭が混乱している。
迂璃桃として十九年間生きてきた。その記憶に日本人として二十八歳までの記憶がかなり朧気ながらも足される。
社畜と言われるくらい仕事をしていたこと。
恋人はもうずっといなかったこと。
友人に勧められて始めたスマホアプリにはまってしまったこと。
課金するかしないかかなり迷った覚えもある。
でも璃桃は璃桃だ。
迂家の一の姫。
父親は高官の一人で腹黒な狸だし、母親もまた名門の出だった。一族は昔からこの国の中枢にあり、時折皇家と縁を持つが、まだまだ弱い。
皇帝と璃桃が良い年回りであったために、璃桃は迂一族の期待を背負っている。
皇后になれ、国母になれ、と言われて、それが当然だった。そのために自分を磨き、迂家自体も目立ち過ぎず、かといって埋没しすぎないように、上手く舵取りをしてきたのだ。
ところが皇帝は後宮に興味がないようだった。
いや、まだ誰を選ぶが見極めている段階なのだ――そう父が言っていたから、璃桃は努力し続けていた。
(結果がこれね……)
璃桃は溜息が出るのを止められない。
どんなに努力しても、皇帝に選ばれるのは翠蘭なのだ。翠蘭以外を選ぶことはあり得ない。何故ならそういうゲームだから。
「わたくしが主上に選ばれることはない」
口に出すとそれはひどく悲しいことのようだったが、璃桃は自分がそこまで落ち込んでいないことに気付いた。
勿論、昨日までの璃桃は皇帝の関心を買うのに必死だった。
高貴な姫はこうあるべき、とされる所作、淑女としての教養や笑顔の作り方だけではなく、現状後宮第一位の位である貴妃としての振る舞い。
努力することに終わりはなかったが、皇帝を慕っているからここまで努められるとさえ思い、自らの誇りでもあった。
ただ皇帝――文青鷹自身に興味があったわけではない。
(これはこれで良かったのかもしれない。主上は必ず翠蘭を選ぶもの)
水差しから銀色の杯へ湯冷ましを注ぎ――本来の璃桃は自分で入れることなどないが――くいっと乱暴に煽ると自嘲気味に笑った。
もしも皇帝に、青鷹自身に執着してしまっていたら、今この記憶がかなり耐えがたいものになっていただろう。
手に入らないとわかっていて想い続けるのは辛い。いつか取られてしまうのだとわかっている相手を憎まずにいることは難しい。
(むしろ幸運だったわ)
璃桃にとって前世の記憶は道しるべだ。この先の展開をある程度理解していることは強みになる。知らずにいたら確実に破滅するところだった。
(……誰か、味方を作らないといけないわね)
璃桃は死にたくない。
それに迂一族を巻き込むことも嫌だ。狸親父にも母にも特段思い入れはないが、寝覚めは良くない。
だから、対策を取らなければならない。この後宮にいる限り、一族からは圧力をかけられ続ける。
青鷹は翠蘭を皇后にしたいから、どんどん璃桃に冷たくなるだろう。同じように他の攻略対象の面々も――。
(あら? 逆に攻略対象の誰かを味方につけてしまった方がいいのではない?)
少なくとも利害が一致しているのではないか?
翠蘭を大切にしたい攻略対象の面々は翠蘭の目の上のたんこぶの璃桃が邪魔な筈だ。その璃桃が戦線を離脱するのに協力するのは、結果として翠蘭のことを守ることになる。
しかも上手く立ち回れば璃桃が当て馬になることで仲を進展しやすくなるかもしれない。
なかば投げやりにそんなことを考えて、標的を決める。
(誰がいいかしら?)
一番良いのは青鷹だ。
翠蘭を後宮に連れてきた張本人。
だが青鷹は皇帝であり、おいそれと近付けない。後宮という自分の庭に青鷹が用もなく訪れたことはない。何故かと思って過ごしていた日々が虚しく思えるが、今の璃桃は残念ながら青鷹が寄り付かなかった理由を知っている。
そして今後、頻繁に青鷹に遭遇することもまたわかっている。
ただし密談には向かない、翠蘭への嫌がらせの最中が圧倒的に多いのだ。逆にそんな最中に何を言われたところで、誰も璃桃の言うことなど信じないだろう。
現状、接触出来る者は限られている。
「狙い目は――」
貴妃である璃桃が自ら接触しても違和感のない人物。
後宮にいても不思議がなく、また青鷹の信頼も厚い。今まで殆ど関わったことはないが――その容姿から別の醜聞に巻き込まれて失脚する可能性があったからだが、しかし――貴妃が呼び出しても特に問題はないはずだ。
「孔攸様」
にんまり、と璃桃は薄く笑った。
御誂え向きに孔攸には弱味がある。
申し訳ないが璃桃は人の善意を信じない。自らの侍女として腹心の者が二人、だが後宮に来てから支えてくれている女官では誰が裏切るかもわからない。
後宮内で立ち回るためには詳しい者が必要で、しかも確実に弱点を狙える相手に協力を頼む方が確実だった。
翠蘭は二、三日のうちに淑妃になる。各宮に新しい妃の情報が回るだろう。だれよりも早くその情報を得て、他の妃たちより先回りをする為にも、動き出すなら早い方が良い。
そして死なずに、穏便に、後宮を出るのだ。
溜息をひとつ――己の運命を変えるために後宮を出ることを尻込みして、ではない。その途方も無い難題を達成してやるという奇妙な高揚に、璃桃は微笑んだ。
努力は嫌いではない。ベクトルの方向を変えるだけ。
「この身体はまだ若いから少しくらい酷使しても問題ないわ。でも……」
出来るなら次の縁談を押し付けられないようにしたい。
正直、前世の記憶が戻ってきたことで、迂一族の姫として政略的に扱われることに抵抗が出来てしまった。それが当然として疑問を持たなかったことが不思議なくらい、ごく一般的な貴族の姫だった筈なのに。
後宮を出る、が他の誰かに下賜される、ではたまったものではない。
「……とにかく、穏便に、誰にも恨まれずに、後宮を去るのよ。絶対にゲーム通りの展開なんてごめんだわ」
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