第一話 薔薇には棘ばかりではなく強かさも必要です
「あなた今、主上が市井の女を連れて帰ってきたと言ったの?」
――あなた今、主上が市井の女を連れて帰ってきたと言ったの?
迂璃桃は金管よりも高い声で女官を振り返った。眉宇はいつも不機嫌そうに顰められている。
「一体どういうこと? まさか宮を与えるなんてことにならないでしょうね…………?」
――一体どういうこと?
――まさか宮を与えるなんてことにならないでしょうね。
手元の扇を翻すと、顔をしかめて周囲を見回した。それだけ見ると聞かれたら困ることを言いそうな雰囲気だが、璃桃はこの後宮で聞かれて困ることなどない。何故なら不都合なことを聞かれたとしても無かったことにするだけの権力があるから。
ひとつ首を振ると女官が肩を竦める。誰も彼もが璃桃にこんな態度だから余計に腹が立つが、今はそれよりこの女官の言葉が問題だった。
「西域人の女ですって!? なんて汚らわ……」
――西域人の女ですって!?
――なんて汚らわしいこと。
璃桃は不自然に口を噤む。
それなのに脳裏にはまるで璃桃が話しているかのように言葉が紡がれていく。
――まさか主上はこのわたくしを差し置いて、そんな女をご寵愛なされたりなんかしないわよね?
――誰ぞ詳しいことを知っている者をお呼びなさいな。
茫然と立ち尽くした璃桃に、唐突にそれはやってきた。
――後宮に逆ハーレムとか、ありえなくない?
響いた声は璃桃の声ではなかったが、そう言ったのが自分だと疑いもなく思えた。
玻璃のように薄く加工された翡翠が美しい簪をしゃらと鳴らしながら、首を傾ける。よく手入れされた射干玉の髪は複雑に結い上げられていて、簪は庶民が生涯働いても手に取ることはおろか見ることさえ叶わない高価なものだ。
迂璃桃は後宮にいた。
そして唐突に今の人生が前世のゲームと同じだということに気付いたのだ。
乙女ゲームなのに後宮!? がキャッチコピーの中華ファンタジー世界を舞台にした《禁忌の恋と咲き誇る華》だ。愛憎渦巻く後宮で皇帝が見初めた市井の少女が幸せを掴むゲームだ。
ただし攻略対象が正統派の皇帝一人ではなく、怜悧な冢宰やら軽薄な偽宦官やら真面目な禁軍将軍やら、他にもイケメンがいっぱいだった。正直、後宮なのに逆ハーレムとかありなのか? と思いながら、プレイしていた。
ちなみに江戸ファンタジー世界の大奥バージョンもあった。
「……いかがいたしました、迂貴妃?」
別の女官が遠慮がちに声をかけてくる。階で急に立ち止まった璃桃を慮ってのことだろうか? 遠慮の中に探るような胡乱な色を読み取ってしまい、表情に乗せないまま自嘲する。璃桃の知る今までの璃桃は、下女にも女官にも辛く当たる嫌な妃だったのだ。
そう、この国の後宮において、迂璃桃は皇后の地位に次ぐ位――貴妃にあり、後宮内で一番序列の高い妃だ。その気位の高さはヒロインがどの攻略対象を選んだとしても邪魔しかしない、稀代の悪女。
いわゆる悪役令嬢である。
父は六官長の一人。家格は高く、皇后になれと言い含められて後宮に入った。最初から位は上から二番め、どの妃たちよりも上の位を頂き、またそれが当然と思っていた。
玲瓏な美女、のスチルが脳裏で思い出される。
この世界の鏡は少しだけ歪みがあるのでわかりづらいが、多分そっくりそのままなのだろう。
絹糸を漆黒に染め上げたかのような黒い髪、黒曜石に例えられる瞳、赤というより紅に近い蠱惑的な唇。形の良い額には花鈿が施されている。
少なくとも璃桃の知る限り、この国では価値のある美貌だ。
「何でもないわ」
手に持った扇を口元に添え、震えそうな声を誤魔化すために溜息をひとつ零す。それに目に見えて女官たちが緊張する。
「そろそろ牡丹が咲くわね」
唐突に話題を変えて、あ、と小さく唇を戦慄かせた。
牡丹の蕾は色づいて、今にも綻び始めそうだ。
そしてヒロインが後宮に来たのは――牡丹の宴の少し前。まさに今頃ということになる。
(では近いうちに翠蘭が来るのね。そしてわたくしは貴妃の地位を追われて……)
選択を間違えると死ぬ。
恐らくあれやこれやの嫌がらせをこれから璃桃がするのだろう。誰を攻略対象とするかで若干流れが変わるが、悪くすると璃桃は毒杯を賜り、一族は外戚に至るまで連座となる可能性がある。
ねっとりと嫌な汗が背を伝う。
人が聞いたら荒唐無稽な話だが、璃桃は既に設定を受け入れていた。
階を降り切って、璃桃は扇でペシペシと自分の額を叩く。薄っすらと赤くなっているが、今の璃桃は頓着しない。女官たちが呆気に取られたように、そんな彼女を見つめる。
「そう……確かこんな階のところから迂璃桃が降りてきて……」
当の璃桃が言う言葉に周りが目を白黒させていたのも、馴染みの侍女が僅かに心配そうに見ていることにも最早気付いていない。
何故なら璃桃は、見目麗しい宦官とその後ろを歩く、金の髪と翠の瞳をした西域人の少女に釘付けだった。
(崔翠蘭!!)
主上――皇帝を、そしてその他の攻略対象を巡る恋敵であり、璃桃を窮地に陥れる主人公。
簡単に結い上げただけの髪は陽光を梳いたような輝きを放つ。
表情を引き締めることが出来たのは身に染み付いた貴妃としての所作のおかげだった。
意地は悪そうかもしれないが魅力的に見える微笑みを浮かべ、璃桃は二人と相対する。はにかんだように笑む甘い美少女を庇うように、若い宦官が前に出る。
この宦官もまた璃桃はよく知っていた。
「ごきげんよう、陶宦官。後ろの方はどなたなのかしら」
――ごきげんよう、陶宦官。後ろの方はどなたなのかしら?
我知らず笑みを深めた璃桃は内心で慌てた。先程より明確に、脳裏に台詞が浮かび上がる。その上、自分の紅い唇が言葉を紡ぐのが止められない。
――金の髪、緑の瞳、まるでわたくしのこの髪飾りのよう。
「…………金の髪、緑の瞳、まるでわたくしのこの髪飾りのよう」
何も知らない翠蘭がはにかむ。
攻略対象の一人、陶孔攸が訝しむように璃桃を見つめる。
(――早く止めなさいよ!)
願いが聞き届けられないのはどこかでわかっていたが、孔攸の悠長さに腹が立つ。完全に八つ当たりだが、仮面のように典雅な笑みを貼り付けていた璃桃が鼻で笑った。
「ああ、気持ち悪い」
――ああ、気持ち悪い。
髪から簪を引き抜くと、わざと取り落す。かそけない音を響かせ、翡翠が割れて飛び散る。
息を飲んだ翠蘭に僅かに溜飲を下げたのは、本当に璃桃だろうか?
このシーン、悪役である璃桃と翠蘭が最初に邂逅する場面だ。このゲームが終わるまでほぼ璃桃は嫌がらせを続けるが、誰が攻略対象でもまずはこのシーンから始まる。
全てを思い出しているわけではないが、璃桃はこの後、孔攸が翠蘭を慰めることはわかっていた。
「わたくしにその姿を見せないでちょうだい。西域人は嫌いなの」
――わたくしにその姿を見せないでちょうだい。西域人は嫌いなの。
呆気に取られていたのだろうか、ようやく孔攸が璃桃の視線から隠すように、さらに前に出た。感情の読めないその顔は昨日までの璃桃であればなんの感慨も湧かなかっただろう。
(宦官だと思っていたけれど……)
均整の取れた身体つきは宦官というより武官のようだった。処置してまだ間もない、と皇帝自らが後宮へ訪いの際連れてきた。皇帝の覚えのめでたい宦官だ。側近といってもいい。
だが、後宮の女官に人気があるのは何もその地位だけではない。
やや垂れた目尻に薄めの唇。孔攸は顔が良い。しかも、高位の妃嬪に向かってでも臆さず話す。それこそ軽口まで叩く。その気安さもあって、女官たちも孔攸には聞けば際どいところまで話している。
(下位の妃の中には本気でこの男に逆上せている者もいる様子。宦官であれば間違いも起こらないでしょうけれど……)
璃桃はちらっと孔攸に目を向けた。
無表情のようだが、眼差しに険がある。その後ろの翠蘭の綺麗な若葉色の瞳が薄っすらと潤んでいるからかもしれない。いずれにせよ、璃桃の出番はお終いである。
踵を返す、などはしない。何故なら璃桃は貴妃である。
「道を開けなさい」
「……御意に」
孔攸は翠蘭を庇いながら――器用ねえ、と璃桃は頭の片隅で思う――脇に退いた。その横を通り過ぎる時に孔攸から声がかかる。
「簪、貴女に良く似合っていましたよ。勿体ない」
「…………何が言いたいのかしら?」
(こんな風に孔攸が話しかけてくる場面あった?)
璃桃は内心の疑問を隠し、立ち止まる。顔は前を向いたままだから、孔攸と翠蘭がどんな表情をしているかはわからない。だが、その声音は硬質だった。
「新しい簪を届けさせましょう」
思わず顔を見て、璃桃は絶句する。
孔攸は満面の笑顔だった。それはひどく挑戦的な笑みだった。
また後日。よろしくお願いします。