「私の歌を知らないで」
ただ、ひたすらに歌っていたかったのだ。
歌に寄り添うことを許容される世界であれば、それだけでよかったのだ。
漠然と抱いていただけだったその夢は、あのときの出会いを通して、少しずつかたちを宿していった。
そのかたちは未熟で、粗削りで。作り手はどうしようもなく不器用で、ささいなことにも切実だった。
けれど、そんな視野の狭さを持っていたからこそ、私は、そしてあなたは。
日常の延長線上に、唄を込められるだけの想いを抱けたのだと思う。
出会いはそれこそ、古い恋愛漫画か何かかと疑ってしまうくらいに偶然が重なったものだった。
朝の日課の犬の散歩。片手でスマホを弄りながら、海岸線沿いの道を歩く。
天気もいいし、今日は秘境ルートに行ってみようか。
気分でそう思い立って、秘境ルートと命名された防風林の向こう側、道なき道を超えた先の砂浜へと踏み入った。そのときだった。
微かに人の声が聞こえる。しかも、女性の歌声らしきものが。
驚いた。まさかここを知っている人がいるとは。しかも朝から歌とは。このまま居合わせて恥ずかしい想いをさせるのも気の毒だったので、そっとその場から立ち去ろうとする。
けれど、かろうじて耳に届くその歌が、とても聞き覚えのあるもののような気がして。思わず足を止めた。
記憶を探って、はっと気付く。その歌は──。
少しだけ逡巡し、すぐに走り出す。顔を合わせてしまうことへの迷いよりも、その歌を知っている人と話したい衝動の方が勝った。何気にそれは、人生で初の選択だったかもしれない。
防風林と砂浜の垣根をざくざくと走って、緩やかな曲がり角を越えた先に、その歌い手はいた。
紺色のジャージを着ている。それは……僕が通う中学校のものだ。
その女子生徒は急に僕が現れたのを見て、さっと上着を頭から被って背を向けてしまった。警戒させてしまったと心が痛むけれど、どうしても伝えたいことがある。
「そ、その歌! 今歌ってた歌! 『夜標』だよね!? バーチャルシンガーの! 『テア』の!」
そう言うと、彼女は驚いたように顔を上げて振り向いた。その反応を見て、僕は確信を持つ。
チャンネル登録者四千人。活動を始めて半年のバーチャルシンガー『テア』を、彼女は知っているのだと。
「さっきはほんとごめん。夜標を知ってる人が同じ学校にいるなんて思わなくて……」
「……私も、驚いた」
砂に埋もれかけた防波堤に、僕と彼女は腰を下ろしていた。
わしゃわしゃと飼い犬のシバを両手で撫でる。女子と話すのは慣れていないので、落ち着かない。
彼女の方はと言えば、被っていた上着を取って横顔を見せている。肩まで伸ばした黒髪。やや釣り目の黒い瞳は、遠くの海を見つめていた。
なんてことはない。隣のクラスの龍守さんだった。たつもりと読むそうだ。珍しい苗字だったので何となく覚えていた。
今は共通の話題、テアについて話をしていた。
やや大人びた少女という設定の3Dモデルに、そのイメージに即した歌ってみた動画やオリジナル曲を上げている。『夜標』はテアのオリジナル曲のひとつだ。
半年前にデビューしたばかりというのもあって、他の有名バーチャルシンガーと比べるとチャンネル登録者数は少なめ、知名度はほとんどなかった。
「ネットだとファンの人もいるのは分かるけど……こうやって会ってみたら、ちゃんと実感できるよね。自分以外にテアを好きな人っているんだなって」
そう言うと、彼女は膝を抱える手を少しだけ強張らせた。僕も気恥ずかしいことを言った自覚はあるので冷静ではいられない。ごまかすように話題を変える。
「龍守さんはテアのどんなところが好きなの?」
「…………歌詞。歌ってみたくなる」
「ああ、それすごい分かる。僕も歌ってた」
「えっ」
「あっいや、ちがう。口ずさむくらいだよ。風呂で歌ったら親にめっちゃいじられたし……」
慌てて弁明すると、彼女は小さく笑った。それを見て少しほっとする。
僕がつられて笑うよりも先に、彼女は表情を改めて僕に問いかけた。
「霧乃くんは、どう?」
きゅっと丸め込まれた彼女の身体。初対面の探り合いのような会話の中で、初めて彼女が投げかけてくれた質問だ。
それに適当に答えてはいけないよな、と僕は必死に思考を巡らせた。好きという曖昧な感情の言語化を試みる。
「もともと歌ってみた動画の選曲が自分好みだったんだ。3Dキャラもいいと思う。けど一番は……やっぱり、歌い手さんになるかも」
彼女の肩が、小さく跳ねた。
「ありきたりだけど、やっぱり歌声に惹かれるんだ。歌い手さんがどんな気持ちで歌っているかは分からない。けどテアはきっと真剣に、切実に歌ってくれてるんだろうなって、そう思わせてくれる」
「……それは」
「ん?」
「────何でもない」
彼女は何か言いたそうだったが、口を閉ざしてしまった。会話が途切れる。
ふと腕時計を見て、はっとした。朝ごはんの時間が目前まで迫っていた。
「やば、帰らないと!」
慌てて立ち上がり、ズボンについた砂を払う。シバはようやく散歩再開かとリードを引っ張るが、残念なことにこのまま家に直行だ。
龍守さんは座ったまま、上目遣いで僕を見ている。僕は目を左右に泳がせながら、言葉を喉から引っ張り出した。
「また天気がいい日とか、このシバといっしょにここ来るからさ。今日のこと許してくれるなら、また来てよ。テア知ってる人と、いろいろ話してみたい」
そう言うと、彼女は小さく頷いた。内心でほっとする。よかった。今の言葉を聞いてくれただけでも十分だ。
「じゃあね」と言ってその砂浜から出ていく。早歩きと顔の火照りは抑えられようもなくて、リードを持つ手は汗ばんでいた。
その日の学校から家に戻ってきて、私は自室のベッドにばたんと倒れ込んだ。
疲れているというか、動揺している。いつもなら流れで手に取るはずのスマホも、見る気が起きない程に。私はベッドに仰向けになったまま、深くため息をついた。
ある大きな会社が立ち上げた小さな企画、新人バーチャルシンガーのテア。
その歌い手が、私だ。
最終選考の合格通知が届いたとき、一番驚いたのは私自身だった。
作詞担当の人が私を気に入ってくれたらしい。候補者の中では最年少、拙い歌声で一次選考もぎりぎりでの突破だった。それが今や、業界では少ない方とはいえ数千人のリスナーを有するバーチャルシンガーの『中の人』だ。
歌い手になってからはいろいろと大変だった。けれど、それでもいいと決めたのは私自身だ。
親は私の決断を認めてくれた。なかなかリスナーが増えないのに、スタッフさんも作詞者さんも寛容だった。今も支えられている実感がある。
そんな作詞者さんは、以前こんなことを言っていた。
「歌い手は君なんだから、歌に込める想いは君だけのものにしていいんだよ。そして、聴き手が抱く思いもまた、彼らだけのものだ」
新参者の私に向けての助言だったのだと思う。けれど私は、その言葉の意味をずっと探し続けていた。あのときも、これからも。
砂浜で歌っていたのも、それが目的だった。『夜標』を歌うときのイメージを、作詞者さんの意図ももちろんだけれど、私自身がそれに抱く感情を知りたくて。それ故、つい歌声が大きくなってしまった。
そう。そんな経緯を経て、出会ってしまったのだ。私は。霧乃くんに。
彼に抱いた感情は、複雑なものだった。
彼は言わばただのファンの一人だ。テアが好きな理由も、動画のコメント欄で数多く投げかけられるものと大差ない。
だから、特別視することはない。そう思いつつも、私はしっかりと今日の朝の出来事に動揺していた。
その理由も、なんとなく分かっている。
歌い手の私のファンと、現実の世界で出会うのが初めてだったからだ。
ひとつ、バーチャルシンガーがそう在り続けるために守らなければならない誓約がある。
バーチャルシンガーはリアルを明かしてはいけない。絶対に。
それは現実のアイドルとの大きな違いだ。中の人がいることは誰だって分かっている。けれど、暗黙の了解のようにそれを暴こうとしない。
現実的な話をすると、もし中学校で私の歌い手活動がばれて炎上するようなことがあれば、私は強制的に活動を中止させられる。それが、会社と私、そして親との約束だった。
歌い手の私を知っているのは、両親と担任の先生と事務所の人くらい。それくらい秘密は徹底されていたし、私はテアのファンに会うどころか、現実で見たことすらなかった。
だから、そう。とても新鮮な体験だったのだ。彼とのテアの話は。
もっと話を聞いてみたい、と思った。同年代の人との話に飢えていた。なんなら、今企画段階の曲について相談に乗ってほしかった。私が歌ってみるから、感想を教えて、と。
それは到底叶わない望みだ。彼から秘密が漏れるようなことがあれば、歌い手を辞めさせられてしまう。それは嫌だ。私はまだ、歌い続けていたい。
けれど────。
「今日のこと許してくれるなら、また来てよ。テア知ってる人と、いろいろ話してみたい」
去り際の彼の言葉を思い出す。恐らくはこの中学校で唯一のテアのリスナーで、私の質問に真剣に答えてくれた彼のことを。
もうあそこへ行くべきではない。けれど、彼の話をまた聞いてみたい。些細なことでも、テアとその歌についての話ができるなら。私は。
目を腕で覆って、またひとつ、ため息をつく。
胸の内の葛藤は、未だに収まりそうになかった。