感謝祭の夜
雨の夜だった。
ランプの光を受けてぬらりと輝く石畳の上を、一台の馬車が走っていく。
ここはガリア王国の、王都ガレリス。今、市街地のレンガ造りの家々は雨に沈み、しんと静まり返っている。その中で、大通り沿いに建つダナ教会だけが、今宵明々と燃える沢山のランプで夜闇に浮かび上がっていた。年に一度の感謝祭が雨に見舞われてしまい、哀れな民衆のために教会がダンスパーティーの場を提供してくれたからだった。
馬車はやがて、そのダナ教会の前で止まった。
いつもは厳粛な雰囲気の教会も、今日ばかりはそこかしこに浮かれた空気が漂っている。
「だんな様、着きましたよ」
「……ああ」
ジャスティ・デル・シュヴァイツァーは、目的地に着いてもしばらくの間、馬車から降りることをためらっていた。雨のせいではない。自分の行いが正しいのかどうか、判断しかねているからだった。
だが、もうここまで来てしまったのだ。
ジャスティは重い腰を上げ、ゆっくりと馬車を降りた。続いて甲冑を着込んだ兵士が、石畳にことさら騒がしい音をたてて降り立つ。甲冑の兵士は無言のまま、どこかギクシャクとした動きで、主の背後で一振りの剣を捧げ持った。ジャスティは御者の少年に言った。
「甲冑兵を一体、お前の護衛に置いて行く。すぐに戻るから心配はいらないと思うが、近頃は物騒な輩が多い」
──甲冑の兵士にはおよそ人の気配というものがない。バイザーの視界から覗くものは、全くの闇であった。人が入っていないのだ。
「はいはい、僕のことは心配いりませんから。さっさと行ってきてください」
御者の少年、ロジエの軽々しい返事を受けて、ジャスティは教会の扉としかめ面で向かい合った。ロジエがにやにや顔でこちらを窺っているのは間違いない。背中で嫌と言うほど視線を感じる。
ドアの向こうから心弾む舞踏曲が聞こえ、ジャスティに中の様子を連想させた。
マリーは今頃、あの緑色のドレスを着て、ロバ顔の肉屋の若者と手を取り合って踊っているのだろう。別にマリーが誰と踊ろうと、大した問題ではない。ただ、事前に何の報告もないというのが問題だった。大きな問題だ。
何にせよ、とジャスティは思う。マリーの楽しみをぶち壊しに来たわけじゃない。ただ、様子を見に来ただけだ。場違いなのはよくわかっていたが、だからといって、貴族である自分が町の教会に来てはいけない法などない。ないはずだ。
ひとつ息をして、ジャスティは勢いよくドアを開けた。とたんショームが大音量で押し寄せてきて、ジャスティの意識は夜会の狂乱の中に埋もれそうになった。だがそれも一瞬のことで、音楽はすぐに濁った余韻を残して途絶える。突然の珍客に気づいたヴィエール奏者が驚いて手を止めてしまったせいだ。
水を打ったように静まり返った館内で、ジャスティだけが冷静に事態を把握していた。
──なんてこった、皆がこちらを見ている。
町民たちはジャスティが誰であるかを思い出すと、ただただ呆気に取られて立ち尽くしていた。まるでその姿を見ているのが現実ではないかのように。きっと、『閣下』に対してどのような態度を摂るべきか、量りかねているのだろう。
浮かれた空気は取り払われ、替わって緊迫した空気が辺りを支配し始めた頃、元の興奮を取り戻させたのはジャスティの一声だった。
「続けたまえ」
凛とした声である。奏者たちに向けられたその声は、軍人特有の有無を言わせぬ威圧感を持って館内に響き渡った。効果は十分で、音楽はすぐに再開される。
ただ、もう誰も踊ってはいなかった。
「お目にかかれて光栄です、閣下!」
若い娘が頬を染めてジャスティに熱い視線を送ると、近くで酔っ払った男が声を上げる。
「常勝将軍、万歳!」
「お婆ちゃん、だれが来たの?」
人だかりに埋もれて前が見えない子供が、隣の祖母の服を引っ張った。
「魔道将軍さまだよ。前にお前に話したね、空の甲冑を魔法の力で動かして、たくさんの敵をやっつけた偉い将軍さまさ」
ジャスティはそれら全てがまるで存在しないかのように、ただ目的の人物を探して人々の間を縫って歩いた。町民たちの中では上等な布地は目だって仕方がない。これでも一番地味な服を着てきたつもりであったのだが。
やがて目的の人物は、予想通り緑色のドレス姿でジャスティの前に現れた。
隣には肉屋の若者が困惑顔で佇んでいる。
「まあ、閣下!」
マリーは心底驚いた、という様子で目を丸くさせた。
「おいでになるとは思いませんでしたわ」
「来るんじゃなかった!」
ジャスティは喚いた。喚いてから、マリーが普段ジャスティのことを『天性の気難しがり屋』と批判していることを思い出し、後悔した。これではまるで、肉屋の若者に嫉妬しているみたいではないか。
「その、つまり、突然来て皆の楽しみの邪魔をしてしまったみたいだからね」
ひどい言い訳だ。マリーは呆れているに違いない。また短気をおこして、と内心で僕を責めていることだろう。やはり、来るんじゃなかった。さっさとここに来た理由を言って、退室するべきなのだ。ただちょっと、気紛れに寄ってみただけなのだと。
人々の視線が方々から突き刺さってとても居た堪れない。結局は、マリーに惨めな思いをさせただけなのではないか。だが次の瞬間、信じられないことにマリーが微笑んだ。
「お城では盛大な感謝祭が開かれているのでしょう? そちらに行かれるとばかり思っておりましたのに」
「あんなところ!」
ジャスティはお世辞と色香に塗れた宮廷の様子をうんざりした気持ちで思い浮かべた。
「行ったところで誰が僕を相手にするものか。農民の子は農民と踊れと言うに決まっている」
「閣下、そんなにしかめ面をしたら、せっかくの夜が台無しですわ」
「しかめ面? 僕が?」
緑の女神は鈴の音のような笑い声をあげて将軍の眉間に寄せられた皺をなぞってみせた。
「まるですぐにでもお帰りになりたそうなお顔ですよ! せめて一曲だけでも踊っていかれないと。そうでしょう?」
「いや、もう失礼するよ……あまりに……僕は場違いだ。そうだろ?」
「借りてきた猫というやつかしら。普段の貴方の勇敢さが微塵にも感じられませんわね」
マリーが腰に手を当てて言い放った。隣で肉屋の若者が目を白黒させている。
よりにもよって『ガリアの魔道将軍』を猫呼ばわりするとは! 大いに愉快だった。百戦錬磨と謳われるジャスティにとっては無視できぬマリーからの挑戦である。受けてたたないわけには、いきそうになかった。
「一人で踊るわけにもいくまい。もちろん君がパートナーを務めてくれるのだろう?」
ジャスティはマリーに対してとは打って変わって、肉屋にはひどく冷淡な声を向けた。
「……いいかな?」
哀れな若者は声も出せずに首を縦にぶんぶんと振ると、おとなしく身を引いていった。
「あまりあの人を苛めないでくださいな。あなたに睨まれたら、私たち平民なんて蛇に睨まれた蛙も同然なんですからね」
「別に苛めたりなどしていないさ。ただ、あの若者に君と踊る権利があるなら、僕にだって同様あってしかるべきだろ」
二人は手を取り合って舞踏曲のリズムに乗った。他の客たちが踊らないので、見世物になっているようで落ち着かない。うっかりステップを踏み間違えたらことだ。なぜ町民たちは踊らないのだろう。人のことなど気にせず、自分のパートナーと踊ればいいのに。
マリーが肉屋を『あの人』と言ったことも気になっていた。二人はそんなに親密な仲なんだろうか──もちろん、マリーが誰と親密になろうがジャスティの関知する問題ではなかった。そんなことをいちいち気にしているなど馬鹿馬鹿しいことだ。今はただ、この夢のようなひと時に酔いしれていよう。
曲が終わると、二人は互いの視線だけで言葉を交わした。昔を思い出したのだ。お互い、ただの騎士見習いと、施療院の手伝い人だった頃を。あの頃はなんと気楽だったことだろう! マリーの目は過ぎ去っていく時と別れを惜しんでいるかのようだ。そして僕は今、どんな目をしているのか?
教会を後にして馬車に戻ると、ロジエが主人の姿を見つけて驚嘆の声を上げた。
「だんな様! まさか、一人で出てきちまったんで? 冗談でしょ!」
ジャスティが訝しむと、若い御者は言った。
「すぐに戻って、マリーさんを連れてくるんです。あの肉屋に取られてもいいんですか!」
その頃マリーは、すっかり元の感謝祭に戻った教会の中でぼんやりと立ち尽くしていた。心のどこかで、ジャスティが戻ってきてくれることを期待していたのかも知れなかった。
「その……あの噂は本当なのかな……」
「噂って?」
マリーは肉屋の若者の存在を思い出して慌てて振り返った。肉屋はおどおどと言った。
「君が閣下と恋仲だって、皆が噂してる」
「そんな、そんなことないわよ……。だってそんなこと、一度も言われた事ないもの……」
そう。言われたことはないのだ。
もう一度顔を上げたとき、そこに肉屋の若者の姿はなかった。
「閣下……」
ジャスティが戻って来ていた。何かを言いたそうに開かれた口元はそのまま笑みの形になり、マリーにこう告げた。
「家まで送るよ、マリー」
帰途に就く馬車の中では、先程とは打って変わって凍るような沈黙が二人の間を満たしていた。もう一度馬車に収められた甲冑兵だけが、遠慮がちに雑音を響かせている。
ジャスティは一人物思いに沈んでおり、マリーを困惑させた。
「陛下から伯爵位をいただいたって聞いたわ。もう立派な領主様ね」
「ただの肩書きだよ」
「でも、立派だわ……」
本当はおめでとうと言いたいのに、なぜかマリーの声は沈みこんだ。ジャスティは二人が初めて出会った四年前よりさらにいくつもの武勲をたて、いまや国中で知らぬ者はいないほどの騎士になっている。施療院で働いているとはいえ、ただの平民でしかないマリーとは別世界の住人なのだ。
「この国も、しばらくは戦もなく平和になるだろう。僕も暇になる」
ジャスティの視線を感じたが、顔を向けられない。どんな顔をしていいのかわからない。
「一緒に、シュヴァイツァーに来ないか」
不機嫌だが、優しい声音が耳朶を打った。
「無理だわ」
マリーはひどく現実的に答えた。
「私は貴方が無事に戦場から戻ってきてくれれば、それで充分幸せよ。それ以上を望むなんてあまりにも罰当たりだわ。貴方が陛下からの縁談を何度も蹴ってるって、町中の噂なの。私なんかが一緒に行ってしまったら……」
その時、マリーの頬を暖かい手が包み込んだ。ふいに言葉を遮られて目を上げると、見えたのは闇と、そこに浮かぶ二つの真摯な眼差しだった。音という音が途絶え、時も消えていた。あるのは互いの温もりだけだった。静かに唇を重ね合わせたまま、マリーは全ての思考を停止させた。考えるのは、もう少し先に延ばせばいい。色々な問題も、今のこの幸せの前には些細なことだ。
ロジエは手綱を握ったまま、空を振り仰いだ。こんな夜には、何もかもがうまくいきそうな気がする。晴れ間を覗かせつつある夜空には、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。