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「貴殿が神獣様であらせられるか」

 緑青の鳥の羽と白木で作った上品な扇の向こうから、幼子のように興味津々の目が敬う言葉とは裏腹に遠慮無くバサンを眺め回す。

「ほんに光り輝くという比喩しか思いつかぬほどの面立ちをしておられるな。さすがは神獣様じゃのう。しかし舜龍、この方に張るとは、そなたもさすが龍王の子孫よの」

 ある意味失礼な感想をあっけらかんとのたまう女人に、バサンはいつも通りの高慢さでふんと鼻を鳴らしたが、舜龍はにこやかに拱手して礼をした。

「恐れ入ります、璋蓉様。ですが、璋蓉様こそいつご尊顔を拝見しても常にお美しく、私など足下にも及ばぬかと存じます」

「よう言うわ。五十女が二十歳にも満たぬおぬしに敵うものか」

 いたって楽しげに軽やかな笑みを零す女人に、バサンと舜龍の横に並ぶ葟杞の頬が上気する。

 この女人こそ『平陽の女王』と称される、呂璋蓉その人である。

 歳は五十過ぎ。皺こそあるものの貴族的な美貌は未だに健在で、鮮やかな紅がよく似合う。くるくると動く大きな黒瞳は強い意志の光を放ち、指先までたおやかでありながら、大樹の幹を思わせる動じなさと、猛虎のような勇ましさを併せ持つ。

 葟杞が敬愛してやまないこの女傑に呼び出されたのは、あの決着の日から三日が経った午後のことだった。「羊の刻なら時間が取れるから来てくれ」という文を受け取り、文句たらたらのバサンを呂家の下屋敷まで引っ張ってやって来たのだ。

「まずは、今回の件をバサン様と葟杞に任せきりになったことを、謝りたいと思うております」

 舜龍の世辞にひとしきり笑った後、璋蓉は本題を切り出した。神獣のバサンに配慮してか場所は広間や応接室ではなく、満開の梅の香が芳しい庭院の四阿だった。

 璋蓉は葟杞に跪くことを許さず、また自らも立ったままで、まっすぐにバサンと葟杞を見つめる。

「お二人には大怪我まで負わせてしまい、本当に、申し訳もございませぬ」

「そんな…! とんでもございません、奥方様!」

 頭こそ下げなかったものの、全面的ともいえる謝罪に葟杞は慌てて声を上げた。

 平陽を守りたくて走り回ったのは葟杞の意志であり、バサンの仕事だっただけだ。葟杞が問題を解決した暁には直に礼を述べるのは毎回のことだったが、今度のことで謝られるのは明らかに違う。恐れ多いことこの上ない。

「葟杞、わたくしを呼ぶときは名でよいと前から言うておるじゃろう」

 だが璋蓉は葟杞の困惑を正確に見抜いた上で、わざとらしい溜め息で話を逸らした。

「そもそも『奥方』なんぞこの平陽だけで何十人いると思うておる。誰のことだかわからんではないか。だいたい人間には名があって、それで呼ばれるのが一番嬉しいのじゃ」

「ええと………はい……璋蓉様」

 有無を言わせぬ視線に圧されて葟杞が俯きながら頷くと、璋蓉は「よし」と大きく笑った。葟杞の頬が更に赤く染まる。それを憮然と横目で見るバサンに璋蓉は内心で眉を上げたが、顔には出さなかった。

 璋蓉の後を、彼女の横に佇む男が穏やかな口調で継いだ。

「そして、改めて謝意をお伝えしたいのでございます。呂氏と楚氏、そして――役府を代表しまして」

 かの女傑が隣を許す男はただ一人。入り婿で呂氏当主となった夫であり、刺史と韋檀亡き後の平陽鎮府と州府で最高官を務める、呂史鵬である。

 年相応の皺を刻みながら、怜悧さと穏やかさが滲み出る顔つき。目元はあくまで涼やかでありながら、高い鼻やがっしりとした顎や骨格は、いわゆる蛮族のもの。

 実は史鵬は、玄国建国を成し遂げた先代皇帝の(れっき)とした御落胤なのだ。母親の身分によって公的な皇子としての地位はないが、確かに血の繋がった異母兄弟であり、国都と並んで最重要の都市である平陽を任されるほどの厚い信頼を受ける臣下でもあった。

「バサン様には事態の解決に尽力してくださったことだけでなく、平陽の危機をお知らせいただいたこと、本当に感謝しております」

 いまいち事情が呑み込めずに怪訝そうなバサンに、史鵬が丁寧に述べる。

「貴殿がおられなければ、我々呂氏と楚氏が神祖の代から脈々と受け継いできた大切な使命を果たすことができず、みすみす自らを滅ぼすところだったのです」

 後で聞いて驚いたのだが、呂氏と楚氏は昔から深い繋がりがあるのだという。楚氏は敖古と共に陰から、神祖の宰相の子孫である呂氏は政事や商業を通じて表で、様々に協力しつつ互いに国と平陽の安寧を守ってきた。

「わたくしは呂氏の当主として」

「平陽の全官吏の長として」

「楚氏の宗主代行と、敖古の名代として」

 璋蓉、史鵬、更には舜龍までもがうち揃ってバサンに向かって跪き。

「我等一堂、バサン様に、心からの御礼を申し上げる。この御恩は、子々孫々に至るまで忘れはいたしませぬ」

 深々と、頭を下げた。

 葟杞は唖然と口を開く。

 まがりなりにも皇族の末端である史鵬はもとより、平陽貴族の頂点に立つ璋蓉が膝をついたなど、聞いたことがない。しかもバサンに負けず劣らず矜持の高そうな舜龍までが、最敬意を示す拱手で跪拝の礼するとは。ただただ仰天するしかない。

(……でも確かに、それくらいのことはしてくれたよね)

 心の中で呟いて微笑み、葟杞も同じように膝をついて手を組み合わせた。

「私などが僭越ではございますが、平陽の民を代表いたしまして、バサン様に感謝の言葉を述べさせていただきます」

 こんな光景はまったくもって予想外だったらしく、ぽかんと呆気に取られるバサンに、葟杞は叩頭はせず――しかしありったけの心を込めて、笑って言った。

「―――本当に、ありがとうございました」

 葟杞の言葉でようやく我に返ったバサンは幾度か瞬いて、そして難しい顔で腕を組んでそっぽを向いた。

「俺は自分の仕事をしただけだ」

 あ、これは照れ隠しだな、と葟杞は胸の内で笑った。バサンは今回の件のは自分に全ての責があると未だに思っている。確かに責がないとは言わないが、彼が命を賭してこの平陽を救ってくれたことも事実。だからこれは正当な礼だ。

 憮然と顔を顰めたまま、バサンは続けた。

「全員さっさと立て。そこまで感謝される謂われはない」

「でも、けじめですから。これからも貴方に好き放題言えるようにしておききたいので、ここはきっちり落とし前をつけておかないと」

「…ほう、お前にそんな分別があるとはな」

 にこやかに毒舌混じりで立ち上がる舜龍に、バサンも嫌味を返す。

 最初の文のときから対立的だった二人は、未だに顔を合わせる度にいがみ合っている。たいてい舜龍が先に突っかかり、バサンも引かずに応戦するという形なのだが、そのやり取りのところどころに相手への敬意が窺えるのが面白い。

 韓からこっそり聞いた話によると、舜龍はそもそも自分が相柳の意識体が封印から抜け出したことを見逃したのが最大の罪過だと、相当悔やんでいるらしい。その感情が回り回ってバサンに対する複雑な態度を為しているのだろう、と気心の知れた大伯父は漏らした。

 ちなみにバサンの方はおそらく、やられたからやり返しているのと、単に馬が合わないだけだろう。能力は認めるとしても、気に喰わない相手は誰しもいるものだ。

(……あれ?)

 葟杞はここでようやく、舜龍の言葉の違和感に気付いた。――これからも?

 天界の伝令から申し送られた予定では、バサンはあと二、三日で平陽を離れることになっている。死なせてしまった相棒の件で形式上でも設けねばならなかった査定のため、また、文官としての職務を大きく外れつつも魔物達の陰謀を水際で阻止したバサンに休暇を取らせたい、という上の意向で、ひとまず天界へ帰ることになったのだ。

 内心で、故郷を離れたときよりももっとずっと深い寂寥感を抱きつつ、葟杞はそんなことはおくびにも出してはいなかった。

(…だって、元々ここのあたりのひとじゃないし…)

 正直、最初は本当にどうしてやろうかこいつと忌々しく思っていたけれど、表面の態度の裏に隠された彼のことを一つずつ知っていき、いつの間にか――とても大切な存在になっていた。

 筆舌に尽くせないほど感謝もしているし、とてもさみしくも思うが、それは葟杞の事情だ。彼を引き留める理由にも根拠にもならない。

「よーう、悪いな。邪魔するぜ」

 突然ばさりと羽音が舞い降り――四阿のすぐ傍に、男が現われた。波打つ黒髪に無精髭、男の色香が滲み出る容姿。イサクだ。

「おやイサク殿。お元気そうで何よりですね。酒と女遊びは控えておられますか?」

「…ま、まあな。それなりにな」

 舜龍の先制口撃に、イサクが顔を引き攣らせた。絶対これは反省してないな、と葟杞は半眼になった。バサンもじと目でイサクを見つめる。

 魔物に操られた女に娼館で毒酒を呑まされて昏倒して敵方の手に落ちるという、神獣としても天界の武官としても相当の醜態を曝したはずなのだが、相変わらず娼館で遊び倒しているらしい。まったく困ったおひとである。

「おいイサク、何しに来た」

 バサンが一歩前に出ながらイサクを睨めつけた。前から食ってかかるような言動はしていたが、この三日ほどはどうも態度がおかしい。葟杞をイサクから隠すように立ったり、イサクと話していると無理矢理引き離したりと、どうにも挙動不審である。

 だがイサクがそれを不審がったことはなく、毎度にやにやと眺めているのが葟杞にとっては最も不思議なところだ。今も至極面白そうにバサンを眺めるだけで、たしなめる気配は一つもない。葟杞は毎度のことながら、首を傾げるしかない。

 気まずい空気を流すためか、イサクはこほんと一つ咳払いをした。

「あー、俺がここへ来たのは他でもない。つい先程、大地管理庁のお偉方から下された命令を伝えるためだ」

 似合わない真面目くさった口上を述べたイサクに、葟杞もバサンも目を瞠った。さすがにバサンも姿勢を正し、慎重に尋ねる。

「……何か新たな事件が起こったのか?」

 ところがイサクは軽く手を振り、怪訝そうに眉根を寄せるバサンにさらりと言った。

「いやいや、そういうんじゃねーよ。新しい辞令だ」

「…辞令?」

「そ。じゃ、いくぞー」

 いつもの暢気な口調のイサクの言葉を、仕方なくバサンは畏まって待った。何が発表されるのかと葟杞も緊張する。

「大地管理庁は、レグザゴンヌ地区所属、淡水部門湧水担当官のユニコーン、バサンに」

 にやりと、イサクが笑んだ。

「―――同庁、中原地区所属、特別任務部門の神龍・敖古の下に付き、当分の間、この平陽に逗留し、逐次任務をこなすよう命じる」

 しばらくの間、沈黙が落ちた。

(……え、え、ちょっと待って…!)

 内容は瞬時に理解できた。できたが、葟杞の頭の中は大混乱だった。……今、イサクはなんと言った?

「………ちょっと待て」

 バサンもまた、思い切り顔を顰めて口を開いた。

「なんだー?」

「……俺は敖古も天界の官吏だなど、ひとっ言も聞いてないぞ…?」

「おやバサン殿、ご存じなかったんですか」

 応じたのは――敖古の子孫である舜龍だった。

「敖古はかつて天界の武官で、当時手を焼いていた共工一派を掃討するついでに神祖を助けるうちに神祖の姪に惚れて子を為し、我が先祖が生まれたのです。そして最終的には奴らを封じ込める特別な役目を負い、天軍から今の所属に変わったんですよ。……しかし、今の今まで知らなかったとは。少し考えれば気付きますし、天界の方に問い合わせればすぐに判明したことですのに」

 末尾の余計な一言にバサンがぎっと舜龍を睨み、二人の間にバチバチと火花が散る。それを眺めながら、葟杞は内心微妙に複雑だった。

(……ほんと、片っ端から夢を壊されていってるなぁ……)

 神話やおとぎ話が大好きな葟杞としては、そこに登場するひとびとが実在しているのはこの上なく嬉しいが――彼らの話は例外なく世知辛い。所属だの任務だの仕事だの辞令だの、もう少し夢のある言い繕いをしてほしいというのが正直なところである。

「あ、ちなみに」

 空気など微塵も読まないイサクが、能天気に話題を変えた。

「俺もしばらくこっちに地区替えになったんだわ。所属は天軍のまんまだけどな」

「……何だと?」

「というわけで葟杞ちゃん、これからもよろしくー」

 ひらひらと片手を挙げるイサクを、葟杞は冷たい半眼で切り捨てた。葟杞は未だにイサクの記憶操作の術をかけたときの手段と、その術が解けるのが絶体絶命の半歩手前だったことに腹を立てている。イサクは反省する様子を全く見せてないので、今のところ許すつもりはない。

「おいイサク! なんでお前までこっちに残るんだ!」

「お偉いさんの決定だよ。俺は何にも関与してねえっての」

「嘘吐け! 平陽に残りたいがために裏から手を回したに決まっている! 正直に言えこの野郎!」

「えー……違うっつーのに…」

 今度はイサクとやり合い始めたバサンを見て―――葟杞の顔にやわらかい笑みが広がっていく。

 バサンは、まだ平陽に留まる。しばらくは。

 ならば。

(………まあ、いいや。何でも)

 そうして葟杞はなんとなく、手のひらで顔を隠した。見られて困るわけではない。だが、どうしてか――この微笑みは自分だけの秘密にしておきたかった。

 璋蓉と史鵬が、そんな葟杞を本当に嬉しそうに眺めていたのを、彼女は知らない。




 結局まだしばらく平陽に滞在することになったバサンと共に星火大路を下りながら、葟杞はちらりとバサンを見上げた。被布をかけているので周囲の人にはわからないだろうが、すぐそばの葟杞には、とても物騒な顔が透けて見えて非常に気障りだ。

「……さっきからどうしたの?」

 たまらずに問いかけてみたが、バサンはむすりと黙り込んだまま、何も答えようとはしない。葟杞はこっそり溜め息を吐き、女子どもで賑わう目抜き通りを南へ歩く。理由を言わないなら、放っておくより致し方がない。

 だが、葟杞は段々と心配になってきた。

 なぜなら葟杞が考えつくバサンの不機嫌の理由が、たった一つしかなかったからだ。

(……そんなに平陽に残るのが嫌だったの…かな…?)

 天界へ帰るのを楽しみしている節はなかったが、人間嫌いのバサンである。まだ人がごった返すこの商都に滞在しなければならないのが、葟杞が考える以上に不愉快だというのなら、これほど鬱々とするのもわかる。

 帰還しろという命令が下った後はバサンもなんとなく落ち込んでいるように見え、彼も別れがさみしいのかもしれないと思っていたのだが――あれは葟杞の勘違いだったということか。…自らの希望に歪んだ目に映った、ただの幻影だったのだろうか。

 どことなく重苦しい空気で連れ立って進むうち、やがて璋璋茶館が見えて来た。今日の夕の回からようやく、葟杞は雁翔館の仕事に久しぶりに復帰する。それはそれで楽しみなのだが、こうまでバサンの様子がおかしいと、気にかかって仕事に集中できない。

 馴染みの門番に開けてもらって庭院を突っ切り、最早バサンの住み処と呼ぶべき池亭に辿り着いてから、葟杞は思いきって口を開いた。

「……ねぇ、バサン」

「……何だ」

「…そんなに平陽に残るのが、嫌なの?」

「………は? 何故そうなる?」

 だがバサンは完全に虚を突かれたように目を丸くし、不思議そうに聞き返した。思いがけない反応に葟杞はたじろぐ。

「いや……なんだか、さっきから、すごく怒ってるみたいだから…」

 尻すぼみに葟杞が答えると、バサンはまたむっと眉根を寄せて腕を組み、黙り込んだ。

 しかし、平陽に滞在するのが嫌ではないなら、どうしてこんなにご機嫌斜めなのだ?

「…………………………イサク、が」

 しばらくして、ようやくバサンがぼそりと口を開いた。珍しく、あさっての方に視線を逸らしながら。

「………幼き日のお前に口付けたことがあるとか言ってたが――本当か?」

「………。…………。……………。…――っ!?」

 質問を三回頭の中で復唱し、内容を理解した途端――かっと葟杞の顔に熱が昇った。

 幼き日に出会った、大怪我を負って行き倒れていた黒い大猿の姿をした神仙は、確かにあのイサクが変身していたものだった。ちなみに彼は様々な動物に変化する能力も持っているらしい。そして術のためにあろうことか、五つの葟杞に接吻した。それは確かである。

「………なっ…!」

 だが――バサンがそんなことを知っているとは露とも思わなかった葟杞は、心底動揺した。声を詰まらせながら、なんとか質問を繰り出す。

「…なんでそれ知ってるの!?」

「…お前が敖古山の山頂でそんなことを怒鳴っていたから、後で奴に聞いた」

 説明されて、さぁっと血の気が引いた。そういえばぎりぎりで助けにやって来たイサクに怒鳴り散らしたとき、うっかり口走ってしまったのだ。慌てふためく葟杞に、唸るようにバサンが呟いた。

「…………本当なんだな」

 みるみるうちに、先程とは段違いに気圧が下がっていく。なぜだかわからないが、あの出来事が大層お気に召さないらしい。

「あれはっ…! なんか術をかけるのに必要だっただけで!」

 とにかく誤解をとかなければと、葟杞はしどろもどろにまくし立てた。

「別に他意も含意も何もなくて! ていうか私も三日前まで記憶消されてたから全然覚えてなかったの! そもそも勝手にあいつに奪われてただけで、私の意思なんてどこにもなかったの! …ど、どうせなら」

 何を言っているのか自分でもほとんど把握しないまま、言葉を並べ立てる。

「初めての口付けは、もっとちゃんと、好いた人としたかったわよ、私だって! あんなの数のうちに入れてないしこれからも入れない! ―――うんだからあれはただの事故で私の初めてはまだなのよ! わかった?!」

 最後の一言を無意味に叫ぶように叩きつけ、ふと我に返って葟杞は俯いた。

(……ちょっと待って私、今何をわめいた…?)

 かなり恥ずかしいことを宣言してやいなかったか。特に最後の方。

 一旦気付いてしまうともう、羞恥で顔が上げられない。だからバサンがどんな表情をしているのか、全くわからない。だが自分から動く勇気はなく、頼むからさっさと何か言ってちょうだい、と祈るようにぎゅっと服を握りしめた。

 葟杞にはかなり長く感じられた間の後――バサンがふっと笑った。

「………なるほど」

 和らいだ空気につられるように、葟杞がそろそろと目を上げたとき。

 ―――不意に、顔に影が差した。

「……………………………」

 何が起こったのか即座に理解できず、葟杞はぽかんと口を開いて、ただ目の前のひとを見上げることしかできない。

 バサンはものすごく満足げに、その光るような美貌を更に輝かせ。

「じゃあ、これで俺が最初というわけだ」

 満面の笑みで――そう言った。

 ここでようやく、葟杞も衝撃から立ち直った。

 すぅと息を吸い込む。

「………何すんのこの馬鹿神獣―――ッ!!!」

 林檎のように耳まで赤くした葟杞に頭ごなしに怒鳴られて、バサンはむっと口をへの字に曲げた。

「何って。口付け」

「…だからそれをどうしてしたのかった聞いてるの!」

「どうしてって、人間は愛しいと思ったときにするんだろう? 葟杞は人間だからその慣習に倣ったまでだが」

 きょとんとして、なぜ怒るのか全くわからないという真顔でのたまう神獣に、葟杞は眩暈を覚えた。

 この美貌でそんなことを言われたら――うっかりやられそうになるではないか。

(……相手は神獣! 本気にするな私!)

 心の中で自分に言い聞かせつつ、バサンに正当なる抗議を申し立てる。

「あのね、人間同士の場合はね、相手の意向をきちんと確認してからするものなのの。私は是とは言ってないわ。勝手にそういうことするのは金輪際やめてちょうだい」

「だが、イサクはそういうのもいいと言ってたぞ。なんだったか……不意打ちは恋に効くとかどうたら」

 平然と返してくるバサンに、葟杞は二度目の眩暈を覚えた。

 いつもいがみ合っているくせに、どうしてそこだけ素直に言うことを聞くんだ。葟杞は反射的にバサンに掴みかかりかけ、ぎりぎりのところで持ち前の冷静さを発揮し、相手を間違えていることに気付いた。――よくも余計なこと吹き込んでくれたなあの好色親父!

「……ちょっとイサクを殴りに行ってくるわ! じゃあまた明日ねバサン!」

 くるりと踵を返してずかずか歩き始めた葟杞の後を、またむっと眉根を寄せたバサンが訊きながら追いかけてくる。

「おいどうした葟杞。なぜイサクのところへ行く?」

「物申したいことがあるからよ。バサンついてこないで。一人で行かなきゃいけないの」

「いやあいつは危険だ。俺も行く」

「駄目よ! 二人じゃないと話せないこともあるの!」

「何だと? やっぱりあれと何かあるのか?」

「そうじゃないわよ! そうじゃないけど…もう、人間には色々あるのよ!」

「そんなもん知らん。俺も行くと行ったら行くんだ」

「やめてよ大したことじゃないから! ここにいて!」

「嫌だ」

 押し問答を繰り広げながら、葟杞とバサンが池亭から歩き去っていく。

 そのすぐそばの辛夷(こぶし)の大木の枝に、ばさりと羽音を立てて、一羽の巨大な烏が留まった。それは瞬時に――件の天馬の人形となる。

「…やっぱ面白いねぇ。葟杞ちゃんもバサンも」

 にやにやと高見の見物を決め込みながら、イサクは微笑んだ。

 そしてふいに真剣な顔つきになり――平陽の街並みを見やり、そして北を、神龍・敖古が宿る山を見霽かす。

 今回は終わった。だが、舜龍はまだ平陽の結界を修復できてはいない。舜龍の神力や技倆の問題ではなく、完全修復するためにはいくつかの条件があり、それを満たすにはまだしばし時が必要なのだ。つまりまた何かが起こらないとは限らず、常に目を光らせておく必要がある。

 だから天界は、結果的に一人で事態を解決へと導いたバサンを残す決断を下したのだ。

 そして――彼に多大な影響を与えた人間、葟杞をも、天界は注視している。

「……お二人さん、頑張りな」

 色々な意味で。

 心の中で付け足しながらイサクはまた烏に転じ、二人にちゃんと怒られるため、大人しく娼館へ戻っていくのだった。


― 了 ―

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