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四:流転、霹靂、燈火


 あまりに遅い葟杞を苛々しながら待っていたバサンは、はっと顔を上げた。南の方へ振り向く。

(…葟杞が外へ出た?)

 先程葟杞に渡した角の欠片がの気配が、消えた。

 平陽は強力な結界のせいで、外の気配が全て遮られる。自分の分身ともいえる角の欠片の気配も、結界に遮られればわからなくなる。気配が消えたのは南のちょうど門の辺りだ。都市の外に出たと見て間違いない。バサンの背筋を氷塊が滑り落ちた。

(…やはりまだ終わっていなかったのか…?!)

 彼女の性格からして、外に出るほどの用ができたのなら、必ず待っているバサンに一声をかける。勝手に行くことなど有り得ない。バサンは痛いほど肋骨を叩く心の臟の音を聞きながら、一瞬で本来の姿に戻った。

 そして地を蹴って高く舞い上がり、宙を矢のように駆ける。

 北の平陽城―――舜龍が飲んだ角の気配に向かって。

『結界は貴方でも突き抜けられないよう強化しました。平陽をお出になる際は私に声をおかけください』

 あのクソ生意気な方士は別れ際にそう言った。確かに平陽を護るには最良の選択だが、今はそれが憎い。すぐにでも葟杞を捜しに外へ行きたいのに。

 ほとんどつむじ風の速度で城に辿り着いて、焦燥に駆られながらも騒ぎを起こさぬよう物陰に降りる。城壁に角をつけて結界に触れながら、バサンは怒鳴った。

「小僧! 聞こえるだろう! 葟杞が連れ去られた! 今すぐ俺を外へ出せッ!」

 舜龍ほどの力があれば、結界に触れて発した神力交じりのこの声を必ず捉える。

 案の定、ふわりと木の葉が飛んできて――ぱっと舜龍の姿に転じた。半透明の姿は術で作られた幻影の証だ。

『…それは真ですか』

 怪訝というよりも慎重に問いかける舜龍に、バサンはかっと眦を吊り上げた。

「この状況で嘘なんざ吐くか! 葟杞に渡した角の気配が南で消えた! ――あいつが俺を待たせて黙って外に行くなぞ有り得ん!」

『…わかりました。この木の葉をお持ちであれば抜けれるように致しましょう』

 舜龍が考えたのは一拍だけだった。瞬時に木の葉に神力が流れ込み、新たな術が為される。それと、と舜龍は付け加えた。

『人間以外で外周の結界を通った者はおりません。誰がやったかはこちらで調べましょう』

 魔物の仕業だと思っていたバサンは虚を突かれたが、ますます怒りが募った。人間の分際で葟杞に手を出すとはいい度胸だ。バサンはおざなりに頷くと、ただの葉に戻った舜龍の木の葉を咥えると、再び宙に駆け上がる。

 墜落したときは強行突破だったためにひどく痛んだ平陽を守る五角形の外壁上の結界を――するりと通り抜ける。

 バサンは滞空したまま、角の欠片の気配を探った。――愕然とする。

(…もう北の山頂にいるだと…?!)

 有り得ない。人間の速度ではない。――これはやはり、人間の仕業ではない。

「おい小僧、葟杞は北の山の頂上にいるぞ!」

 木の葉に向かって話しかけると、再び舜龍の幻影が現れた。

『何ですって?! 敖古ごうこ山にいるんですか?』

 山の名を言われ、バサンはぎりと奥歯を噛みしめた。

 舜龍は最初に言った。自分はあの敖古山に眠る神龍、敖古の子孫だと。――その敖古山だ。

『………まだ、敖古が起きたり消えたりした気配はありません。ですが時間の問題でしょう。本当は貴方には行ってほしくないのですが……止めても無駄そうですしね』

 さすがに焦りの滲む顔でしかし舜龍は嘆息した。バサンが反射で噛み付く。

「ふざけんな! 俺は行くぞ!」

『わかってます。敖古が消されてしまえば打つ手がなくなる。こちらの手札が少ない以上、貴方にも働いてもらわなければ困ります。向こうの結界も通れるようにしておきますから、急いで向かってください。私どももすぐに追いますから』

「―――当たり前だッ!」

 怒鳴るように返事をして、バサンは風となり空中を走り抜ける。胸の中を後悔が渦巻く。こんな思いは、相棒を失ったとき以来だ。

 だが、まだ葟杞は失ったわけではない。

(…葟杞、今行く…!)

 バサンは白い旋風と化して宙を切るように走り出した。




 ずきん、と頭が痛んで葟杞はぼんやりと瞼を開けた。ずきん、また痛む。昔、木から落ちて頭を打った後のような痛み。…頭を、打った?

 瞬間、葟杞は覚醒した。が、なんとか身動きをすることは堪えた。

 拐かされた。それは確かだ。水仙の姿形をした何者か――おそらくは人間でないものに。

 ならばすぐに動くのは得策ではない。周囲の状況を窺うのが先だ。息を潜め、倒れている振りをしながら目と感覚はしっかりと開く。

 一面の――泥の沼だ。

 葟杞のいるあたりだけが、小さな島のように、不気味な色合いの沼から浮き上がっている。他は何もかもが沼に変わってしまったというのに、ここだけは下草が生え、小さな花さえ咲いていた。…なぜ、ここだけ?

 不意に、ずるり、と視界の外で何か巨大なものが蠢いた。

『小娘、起きたか』

 ひび割れ、おかしな具合に反響する声が、葟杞に話しかける。

 人間の声では、ない。

『起きたのはわかっておるぞ、小娘』

『怖れで動けぬか?』

 嘲る声に、葟杞は覚悟を決めた。意識して息を吸い――声を押し出す。

「…いえ。思い切り頭を殴ってくださったおかげで、すぐに体が動かなかっただけでございます」

 何とか強気な声が出せた。

 相手が誰なのかは最早察していた。だから、怯えている様を見せてはいけないと本能的に悟っていた。

『この状況で嫌味を返せるか』

『さすがはユニコーンと方士が気に入っただけあるのぅ』

 葟杞は答えず、全身に力を込め、眩暈を隠して上体を起こす。震えを押し殺し――声の方をゆっくりと振り向いた。

 竜だ。とてつもなく巨大な胴から、一目で数えきれぬほどの頭が、まるで地平線から空を浸食していく黒雲のように四方八方に広がって伸びている。

 西方の妖魔でバサンが追ってきた大罪人――ヒュドラに間違いはないだろう。

 やはりバサンが感じていたように、まだ終わっていなかったのだ。

 なぜならこのヒュドラはどこにも怪我など見当たらず、五体満足で、全ての頭と双眸で葟杞を見下ろし――愉しげに嗤っている。

 おぞましい化け物を目の前にして顔から血の気が引いていくのは、自分ではどうにもできなかった。だが目だけは決して逸らさない。必死に睨みつける。ぎゅっ、と無意識に胸元を掴んだ。固い小さなものを指に感じる。

 ―――ユニコーンの角。バサンがくれた欠片だ。

 欠片から、じんわりと不思議な力が滲み出ているのがわかる。ユニコーンの神力の源であり、あらゆる毒を無効とする万能の解毒薬。彼の神獣が認めた者にしか与えないという、神宝。それが、ここに、ある。葟杞は思わずほっと息を吐いた。

 角の欠片の場所はわかるとバサンは言った。ならば、自分が拐かされた意味は、ある。

 葟杞はさりげなく懐に手を入れ、欠片を密やかに取り出した。

「…ただの人間である私をこんなところに招いてくださるとは、何か、ご用でもございましたか?」

 青ざめながら、しかし微かな笑みさえ浮かべて問う葟杞に、ヒュドラは面白げに口を歪めた。

『そうさな』

『本来ならただのであったが…』

『…少々考えが変わった』

 入れ替わり立ち替わり話しながら、にたり、二十ほどはある頭がいっせいに嗤った。

 それに怯えたふりをして葟杞は口元に手を当て――角の欠片を素早く飲み込んだ。

 奪われるわけにはいかないなら、飲み込むのが一番安全だ。そうして鸚鵡返しに問う。

「……考えが変わられた、とは…?」

 冷静になれ、と葟杞は自分を奮い立たせた。欠片があれば、必ずバサンはここへ来てくれる。何とか会話を繋ぎ、興味を保たせ――絶対にバサンが来るまで耐えてみせる。

『そうさな。お前はしばらく、生かしておこう』

『我等が解き放たれ』

『そこの忌々しい都市が死に絶え』

『世界が我等のものになるのを』

『存分に、見せつけてやろうぞ』

『高潔気取りなその面と魂が絶望に染まる様は』

『さぞや……見物であろう』

 二十余頭のおぞましい嗤笑が肌と鼓膜に突き刺さる。必死で頭を回転させ、気付く。

 ヒュドラの言っていることは、何か、決定的におかしくはないか。

「………解き放たれる? あなたは、捕らわれているのですか?」

 葟杞が尋ねるや否や――ヒュドラの甲高い哄笑が爆発した。葟杞は思わず耳を塞ぐ。頭が割れそうだ。

『そう。ようやく我等は解放されるのだ』

『待ちに待った目覚めの刻が来たのだ!』

 恍惚とした表情で全ての頭が天を仰ぐ。

『待ち望んだ生け贄が』

『もうすぐやって来る』

『白く誇り高い』

『憎き天界の眷属が』

『その神力を宿す清らかなる血を以て』

『忌々しいこの山を壊し…』

『我らは』

『――地の底より解き放たれるのだ!』

 山を壊すだの、地の底だの、何を言っているのか、わからなかった。だが――奴の語る生け贄とは、まさしく。

「……まさか、私を掠ったのは…」

 もう、葟杞は声が震えるのを抑えられなかった。

『西方から誘き寄せた―――』

『あのユニコーンを、招くためさ』

 にたり。

 中央の一頭が、いっそ優しげに告げた。

 次いで周りの頭が南に視線を投げながら、揶揄するように囃したてる。

『…そら、来た、来た』

『おうおう、必死の形相だの』

『お前を助けるために、来やったぞ』

『罠とも――知らずに!』

 呆然と葟杞も南の空を振り向く。

 白金に輝くつむじ風が、矢のように近づいてくる。

 思わず、叫んだ。

「…来ちゃ駄目――――――っ!!」

 しかしその声は届くはずもなく。

「―――葟杞は何処だこのクソ野郎ッ!!」

 まっすぐに飛び込んできた美しい真白の神獣が、鼻息荒く、怒号した。




 舜龍は、静かに待っていた。とあるびょうの前で、彼の人物がやって来るのを。

 バサンにはすぐに追いますと言ったが、舜龍自身が城を離れるつもりはなかった。離れるわけにはいかない理由が、あった。

 その廟は、目立たない中庭にぽつんと在る。「平陽を造成したときに犠牲となった人足達の御魂を祀る廟」という由来よりも幽霊が出ること有名で、祀られている者の身分も手伝って、城に入れるような人間は誰も見向きしない。それが重要だった。

 廟の名に隠された意味など、誰も知る必要はない。使命を持たぬ人間以外は。

 ゆるりと春の風が渡っていく。微かに甘い香りがした。梅の花だ。この辺りは一面の梅林なのだ。神祖の代から延々と咲き続ける――鎮守の杜。

 微かな足音を捉え、舜龍は顔を上げた。

 配下に命じて人払いと結界創設は完了している。ここに入ることのできる人間は、ただ一人。待ち人だけだ。

 彼は平素と全く変わらぬゆったりとした、しかし迷いのない足取りで、梅林の間に通る飛び石の路を歩いてくる。舜龍は姿勢を正し、彼が近づいてくるのを眺めていた。

 十歩ほど離れたところで、彼は足を止めた。

 そして、いつも通りの穏やかな表情で問いかける。

「おや、舜龍殿。こんなところで、何をしておられるのですか?」

 舜龍もいつも通り、にこりと笑顔を浮かべた。

「貴方をお待ちしていたのですよ。―――韋檀様」

 彼は――韋檀は身じろぎひとつせず、ただ少しだけ、目を眇めた。

 平陽鎮府と州府で次官を務める男は、一分の隙もない正装をしていた。白いものが混じり始めた髪をきっちりと冠に結い上げ、儀式でのみ着用が許される特別な官服を纏っている。先程州刺史の宮で見た姿とは似ても似つかない、まさに精悍な能吏そのものの姿。

(……官服を、選んだか)

 舜龍は胸の内でひそやかに感嘆した。痛みを、押し隠すために。

「私を待っておられたのですか? こんなところで?」

「ええ。貴方が必ずここにいらっしゃると、わかっておりました」

 舜龍はにこやかに核心を突いた。

「―――この幽梅(ゆうばい)廟にご用がおありでしょう?」

 その問いに、韋檀は微笑んだまま口を開かなかった。それが答えだった。

 やがて韋檀は小さく溜め息を吐いて、独り言のように呟く。

「貴殿が生まれてさえ来なければ、何も問題はなかったのですがね…」

「そうでしょうね。敖古が苦心して私を作らなければ、計画は成功したでしょう」

「全く、素晴らしい方ですね。―――忌々しい天界の狗め」

 異常なほど穏やかな顔で韋檀が吐き捨てた。

 よく見れば、顔色が青を通り越して、灰白色だ。生者の顔色では――ない。

 しかし韋檀はゆるりと笑んだまま、世間話をするかのように、続けた。

「あの狗にとって、三千年もの永きに渡り我等を封じ続けることは、容易いこと。だが、肝心の『要』となる人間は時を経るごとに血が薄まっていき、やがて力が衰えた。徐々に封印が緩み始めていた」

「ええ。だから敖古は一族に指示を与え…」

 舜龍も何気なく、応じた。平陽最大の秘密も、舜龍の出生も、二人にとってはただの世間話。互いにとうに知っていること。

「母の胎内に宿った私に、自分の力を注ぎ込んだ」

「……ふふ、よく考えれば、お前も大概化け物ではないか、楚氏の継嗣。母の命を犠牲に生み出された、敖古の申し子よ」

 韋檀が――いや、韋檀の皮を被った何かが、にたりと嗤った。

確かに舜龍には、自分が真っ当な普通の人間とは言えない自覚はある。だが敖古も楚氏も望んでこのようなおぞましい所業を為したわけではない。やむを得ない理由があった。

 母は全てを聞き、自ら望んで敖古に身を差し出した。楚氏に生まれながら凡人であった自分が一族として使命が果たせるならと、微笑んで命を捧げた。

 犠牲などでは断じてなかった。

「仕方ありません。私はそうしてまで生まれねばならない者だったのですから」

 舜龍は些かも動じず――初めて冷ややかな氷の微笑みを浮かべ、目の前のものを睥睨する。

「敖古山の地底に眠る不死の魔物どもを、封じ続けるために」




 バサンは山頂の光景を一目見るなり、安堵に胸を撫で下ろした。

(…生きてる…)

 葟杞は一面泥沼の中で、唯一草木が残って中州のようになっている場所に座っていた。だが彼女の第一声は期待したものとはかけ離れていた。

「バサン! 今すぐここから離れて!」

 いきなり葟杞が叫んだ。バサンはカチンときて怒鳴り返す。

「助けに来たのに何だその言い草は!」

「違う、そうじゃないの! 今すぐ逃げて!」

 だが葟杞は必死に言い募る。どうにも様子がおかしい。

「私じゃないの! こいつらの目的は―――ぐっ!」

 そのとき木陰から一人の女が飛び出した。葟杞を羽交い締めにして口を塞ぐのを、バサンは怒気を込めて凝視する。彼女の音を気に入っていただけに、わずかな落胆を感じた。

「…水仙か。魔物に取り憑かれるとは、無様だな」

『運の悪い女よのう』

 ずるり。

 毒の沼を這いながら、葟杞がいる中州の向こうでヒュドラがにたりと嗤った。

『忌々しい方士めが小娘に護り玉を渡しておってからに』

『人間でなければ触れられぬ』

『だから、その女の心を喰ってやった』

『お前達に気に入られねば、生き(ながら)えただろうになぁ…!』

 葟杞が青ざめ、「そんな…」とかすれた声で呟く。バサンは間髪入れずに反駁する。

「そもそもお前が存在しなければその女は生きていた。諸悪の根源はお前だ!」

『おうおうおう、そういきり立つな』

『我等が待望の………救い主よ』

 以前より数が増え、二十一となった龍頭全てが宙空に浮くバサンにうやうやしく辞儀をする。その光景はある意味、壮観ではあった。バサンがふんと鼻を鳴らず。

「随分嬉しそうだな。これから死ぬというのに。――ここへ入る前に伝令を呼んで、天界の軍を手配した。間を置かず攻めてくるぞ。お前はもう終わりだ」

 実のところは平陽を出たバサンに気付いた天界の方が伝令を寄越したのだが、バサンの方も呼ぼうとしていたところだったので、嘘ではない。とにかく、ヒュドラの命はもはや風前の灯火であると思い知らせられればいい。

『天界の軍か!』

 だが、ヒュドラはいっせいにけたけたと腹を抱えて笑い出した。

『面白い、面白いぞ』

『客は多ければ多いほどよいからのう』

『それも天軍が客とは!』

『こんなに愉快なことはない!』

 ぞわりと鬣が逆立つ。…これは、まさか。

『では、早速始めるかの』

 バサンはじとりと滲む汗を自覚しながら、慎重に聞き返す。

「……始める、だと? 何をだ」

『大切な儀式さ!』

 中央の一頭が歓喜に身を震わせて答え、周囲が後を引き継ぐ。

『敖古の忌々しい封印を壊し』

『我、(そう)(りゅう)や大勢の下僕を従えるこの世の真なる主』

(きょう)(こう)様が地上にお還りになるため』

 爛々と光る四二の眼が、バサンを捉えた。

 もはや舌なめずりを隠しもせず、二十一頭が恍惚と叫ぶ。

『―――聖なる血で敖古を殺す、生け贄の儀式を始めるのだ!』




 遙かな昔、中原一帯を支配していたのは、燃えるような朱の髪の人面蛇身の妖魔――共工であった。共工は数多の不死の魔物を従え、災いと死を撒き散らし、人間達を苦しめていたが、半神半人の偉大なる『神祖』がその軍勢を一掃し、平和と安寧をもたらした。と、神話は語る。

 この、多くの者がただの作り話、もしくは騎馬蛮族を追払ったことの騙りと考える話は、実のところ紛れもない真実だ。ただし、一つ重大な相違がある。

 神祖は半神半人などではない。

 何の力も持たぬ、ただの人間だった。

 凡人である神祖を助け、実際に魔物を掃討したのは―――神龍・敖古であった。

 敖古は神祖と中原を救っていくその過程で、神祖の姪に惚れ、子を為した。その子が誰あろう――楚氏の初代であった。敖古は神祖、楚氏初代と共に中原平定を成し遂げ、最後の仕上げとして平陽を造りあげた。

 掃討はしたが魔物は不死で、閉じ込めることしかできない。ゆえに敖古は考えた。土塁の下に造った異界に封じるだけでは、無尽蔵に溢れ出す魔物達の力でいつか門が壊れるかもしれぬ、ならば。

 その力を吸い上げて利用してしまえ。

(実にうまい一石二鳥ですよね)

 舜龍はその発想に心から感心している。

 平陽が五角形である理由は、ここにある。地中の異界に潜む魔物の力を吸い上げて方術的守護に利用する術式のため、そして今は敖古山と呼ばれる異界の門たる土塁に宿った敖古と共に二重の封印を為し、魔物を永久に閉じ込め続けるために、五角形なのだ。

 平陽における封印と妖力の吸い上げの術式の『要』こそが、幽梅廟――地底深くにに埋められた異界を(かく)す、平陽城の中心にあるこの廟なのだ。

 だから舜龍は待っていたのだ。葟杞が敖古山に掠われたと聞いた瞬間、必ずここも襲ってくると、わかっていたから。

「ほんに憎々しい奴よのう、敖古と楚一族は」

 韋檀の顔をしたものが、嘆息と共に零した。

「貴殿を作ってくれたおかげで、我等は時を待つわけにはいかなくなった。そこで、一計案じることにしたのだよ」

「今のまだ封印が弱っている状態のうちに、敖古を神の眷属の血で汚して殺す……そのためにヒュドラとかいう西方の魔物に取り憑いたと、そういうことですか。遙か西方から来た妖魔の目的が、まさか共工一派の封印とは思いませんからね」

 我が意を得たりと奴がにたりと嗤う。韋檀には有り得ない表情に吐き気がした。

 平陽を護る術式の要となれるのは、敖古の血を引く者のみ。ゆえに三千年の間に徐々に楚氏の力が衰えたことを感じ取り、魔物達は歓喜した。やがて封じが壊れ、地上で暴れられる、と。

 だから敖古と楚氏は、創り出さねばならなかった。

 舜龍という――完璧に封印を修復できる、神譲りの力を持つ人間を。

 齢十六にして平陽の全ての術を管理できるだけの力を持つ舜龍が、病床の父に代わって当主になれば、全てが元通りとなる。また永遠とも呼べる時間を地の底で過ごさねばならない。魔物達にとって今が、逃すことなどできない絶好の機会だったのだ。

「しかし……桀公ではなく、韋檀様が取り憑かれたとは、意外ですね。韋檀様ほど民のために国に尽される方はいなかったのに」

「……そうだ。私は誰よりも尽くしてきた」

 不意に韋檀が――韋檀の顔で苦しげに呟いた。舜龍が驚いてひゅっと息を詰める。

 まさか、彼の言葉を聞けるとは、思ってもみなかったから。

「私はずっと民のため、国のために身を粉にして働き続けてきた。なのに……何故あんな若造が私の上に座る? この玄国の大部分を支える汎族を見下し、生まれに胡座をかき、ただ遊ぶしか脳のない愚凡な男が……なぜその血筋だけを理由にこの私の上に居座る! 名君と呼ばれる皇帝が――なぜそれを許すのだ!」

 今まで心に秘めてきた思いを露吐する韋檀に舜龍は目を伏せた。

 民の大半が汎族でありながら――玄王朝の皇族は、北方蛮族の莫黄(ばっこう)族であった。

 武と知に優れた先代皇帝の功で、莫黄族は圧倒的な兵力差があったはずの前王朝を征服して玄国を建てた。その事実が特に若い世代の莫黄族を、高慢で鼻持ちならぬ莫迦殿(ばかとの)にしていた。だが現皇帝は、実権は次官が全て握れるように工夫しながらも、その莫迦殿達を都で飼い殺しにするのではなく、地方の要職に就けた。身内を重用した先帝に倣うように。

 韋檀は常に穏やかで、放蕩な刺史の手綱をうまくさばく名次官だった。だがその誇りと能力の高さゆえに――不満を覚えずにはいられなかったのだ。皇族だけが上に立つ、この国の歪みに。その燻る惛い感情を、魔物達に利用された。

「こんな国滅べばいい。こんな……懸命に尽くした私を貶める、こんな国など…」

 呻くように吐き捨てた韋檀に、舜龍は告げた。

「ありがとうございます、韋檀様」

「………何、だと…?」

耀(よう)帝陛下は待ってたんですよ。――先代皇帝の身内贔屓を一掃する機会を」

 舜龍は楚氏当主代理として、桀公の平陽での遊蕩ぶりを見かねて耀帝に意見したことがある。そのとき耀帝が苦々しく吐き捨てた言葉を、舜龍は韋檀に伝えた。

「貴方が桀公を隠れ蓑にしてくださったので、耀帝はこれを桀公の謀反に仕立てるとお決めになられました。そして他の莫黄族から地位を剥奪するための調査を行う口実ができました。…貴方のおかげで、苦しんでいる能吏が皆、救われます」

「…そうか」

 韋檀は微かに笑った。人間らしい、彼の本物の笑みだった。

 本来の彼は素晴らしい官吏だった。耀帝を心から尊敬し、国のために尽くしていた。死に装束に官服を選んだ韋檀に、官吏として国をより良くするために貴方は死ぬと伝えた舜龍の言葉は――確かに韋檀本人に届いた。

 それが、韋檀の人間としての、最期の瞬間だった。

「…やれやれ」

 にたり、という嘲笑が再び韋檀の顔に戻った。

「こやつは最期の最後まで抵抗してくれたの。素直に欲望に身を任せればよいものを、必要なとき以外は我を完全に押し隠すとは…」

「強いお方でしたからね…」

 束の間、舜龍は目を伏せた。悼むために。

 そうして自分の感情を振り払い。

「…それで、ヒュドラと同化できるなら、貴方は相柳(そうりゅう)ですかね? ――凡人の意志の力に負けるとは、言い伝えほど強くはなさそうだな」

 意図的にぞんざいな口調で、舜龍は敵となったものを嘲笑った。

「……小僧…!」 

 怒りの滲む口調で、韋檀が低く唸り。

 ぼこり。その首が、妙な風船のように膨れ上がった。

 人間が、化け物に変身していく。そのおぞましい光景を、舜龍は決して目を逸らすことなく、睥睨する。

 (からだ)の至る所が沸騰するようにぼこりぼこりと盛り上がり、粘土のようにぐちゃぐちゃと姿を変え――…

『――我を侮ったことを詫びるなら、今のうちだぞ?』

 顕れた人面の大蛇が、舜龍を見下ろしながら、嗤った。

 厳めしくもどこか愛嬌のある韋檀の顔からの下には、長い長い巨大な蛇の体躯が伸びてうねるように地面に広がる。魔王共工の第一の臣、人面毒蛇の妖魔・相柳の真の姿だった。その蛇身に触れている場所がみるみるうちに――毒の沼へと変貌していく。

 自らの周辺を毒の泥沼と化すという、ヒュドラが本来持ち得ない能力は、相柳が与えたものだったのだ。

(…まったく、おぞましい化け物共だ)

 なにせ、これほどの力を持つこれが、相柳の本体ではないのだから。

 地底深くの扉の向こうにいる相柳が封じを抜け出すことは、いくらなんでも不可能だ。

 だが、相柳の意識だけを、封印に吸い上げられる妖力と共に外へ出すことは――封じに緩みが生じている現在、可能だったのだ。

 意識体の相柳は西方でたらふく人間を喰ったヒュドラの妖力を糧に、こうして実体を持つことができるほどになった。

 また、相柳が憑いたヒュドラが平陽の結界に進入したとき、神獣が二体だと感じたことも道理だ。平陽の結界は敖古と楚氏の神力と、相柳達の妖力で構成されている。結界に使われた力が通ったと感じたとき、舜龍は天界の者だと決めつけた。

(……真に責められるべきは、僕だ)

 一年ほど前、結界が妙な揺れ方をした。だがその時期に頻発していた小規模な地震のせいだと考えた舜龍は、相柳の意識が抜け出したことを察知できなかった。それが全ての始まりだ。あのときもっと追究して調べておけば、事態がここまで発展することは、防げた。

 官吏として、人間として、心から尊敬していた韋檀を――こんな形で死なせることはなかった。

『どうした小僧。我の本当の姿を前に、恐れで動けぬか?』

 相柳が韋檀の顔で、見当違いのことを愉しげに囁きかける。

 ただただ、自分の無力さと愚かさが憎くて仕方がなかった。噛みしめた唇が切れて、血の味が口の中に広がる。こんなものでは全く罰にならない。いっそ処刑されてしまいたいほどの後悔を覚えるなんて、考えたこともなかった。

 自分の能力と賢さを過信し、前兆を見逃し、あまつさえ護るべき平陽を危機に陥れた。どうすれば償えるのかわからないほどの、甚大な、罪。――だから、まずは。

(…ここで、必ず、終わらせる)

 舜龍は相柳に笑いかけた。

 見惚れるほど美しく。

「お前こそ、僕が紅顔の美少年だからって侮るなよ? ―――瞬殺してやるよ」

 どこまでも冷たく凍えるような深い深い怒りを載せて。

『…その減らず口、叩きのめしてくれる!』

 カッと相柳が眼を見開いた。その尾が――ぐわりと風を切って、舜龍目がけて襲いかかった。




 ぎっと眦を釣り上げ、矢のように宙を駆ける。巨体では避けきれず、鋭く長い角が端の一首をぶちりと飛ばした。

 だが、次の刹那にはその千切れた首からぼこり、と二つの頭が盛り上がり、みるみるうちに他の頭と変わらぬ大きさの二頭のヒュドラの首と成る。

 さっきからこの繰り返しだ。もうヒュドラの頭は三十を越える数になっている。攻撃すればするほど相手の力が増していく。――これではどうにもならない。

 ヒュドラが毒の海から飛魚のように跳ね上がる。バサンも必死で避けるが、あまりにも相手の牙が多すぎる。ざくり、肩が抉れた。

「…ぐっ…!」

『ケッケケケケケ!』

『どうしたユニコーン!』

『避けてばかりでは我等は倒せぬぞ!』

 口々にヒュドラの皮を被った何かが嘲る。

 これが西方の妖魔・ヒュドラではないことは、もうバサンにもわかっていた。この巨大な魔物さえ操る何かがこの地下に眠っていて、その封印を解くための贄として自分を遙か西方から誘き寄せたのだ、と。

『ひゃははは』

『また血が流れたぞ!』

『そら、天界の血に、敖古が苦しんでおる』

『愉快、愉快』

『今まで我等を痛めつけてくれた罰じゃ!』

 右側の十頭がいっせいに牙を剥いて襲いかかる。必死に上へ躱すが右腿に牙がかすった。

 また血が落ち――山が震える。

 ユニコーンの血が毒の海に吸い込まれる度に、山が揺れた。地鳴りが響いた。山に宿る敖古が呻いているのが、わかる。わかるが、どうしようもない。

 バサンは元の色が何だったかも判らぬほど、血と泥でどろどろに汚れていた。解毒の性質(たち)を持つユニコーンでなければ、傷口から入った毒の泥でとっくに死んでいただろう。

 傷口全部が心の臟になったかのようにどくどくと脈打つ。体中の傷から血が滴っている。

 唯一無傷なのは、鋼より固い角だけだ。

 相棒の風の力がなければ、とっくに死んでいた。だが、このままでは遠からず――

(…くそっ、援軍はまだか?!)

 多勢に無勢な上に相性が悪すぎる。首を掻き切れば倍に増える相手に、角での物理攻撃以外の手段を持たないバサンが打てる手は、ない。しかも生け贄が自分とあって捨て身の攻撃もできず、時間稼ぎをしながら天軍がやって来るのを待つことしかできない。

『天軍はなぁ、外で立ち往生しておるぞ』

 ちらりと結界の外に目線をやったバサンに、中央の頭がにたにたと言った。

『なにせ、我らが敖古殿の結界と』

『我らの力を練り合わせて作った』

『この世に二つと無い…特別な結界だ』

『天の力しか持たぬ天軍には、あの結界は破れぬ』

『内から破らぬ限りなぁ』

 今度は左の五頭と右の五頭がうねるように連携して突撃してくる。右へ左へ何とか避け続けて交わせなかった最後の一つの口蓋を、角でぶち上げる。顔の上半分が吹っ飛んだ。だが下顎が目もないのにバサンの喉笛に噛み付こうと伸びてくる。咄嗟に風を喚んで、なんとか右へ逃げた。

『だが、残念だのう』

『この結界は――お前程度の力では、壊せん』

 魔物はヒャハヒャハと狂ったような奇声を上げ、にたりとバサンを眺める。

『さて、さて、さて』

『活きの良い生け贄殿よ』

『いつまで逃げ続けられるかのう』

『折角の前戯だ』

『楽しもうではないか!』

 三十余頭分の下卑た哄笑が頭に響く。ふざけるなこのクソ野郎。そう言いたいのに、息が上がって声を出す余裕もない。

 視界の端に、中州にいる葟杞が映った。

 悲壮な――今にも泣きそうな顔で、魔物に嬲られるバサンを見つめている。だがバサンに葟杞に近づく余裕はない。声をかけてやる余裕もない。

(…お前のせいじゃない。お前が何もできないんじゃない、俺のせいだから――)

 きっと自分を責めているに違いない彼女にそう言ってやりたいのに、またヒュドラがぐわりと顎を開けて襲いかかってくる。バサンは必死で身を翻した。




「…かっ…は…」

 何度目からの攻撃はついに舜龍の体を捉え、梅林に吹き飛ばした。

 口から血が零れ落ちる。まともに腹に入った。相柳はけたけたと異様な声で嗤いながら、ずるり、ずるりと舜龍に近づいていく。

 舜龍は頭をしたたかに打って、起き上がるどころか身動きすらできない。喉も指も動かない。これでは術も使えない。

『どうした、小僧。もう終わりかえ?』

 ずるり、ずるり。周囲を毒の海に変えながら近づいてくる相柳が、韋檀の顔で愉しげに尋ねる。だが舜龍は、焦点が合わない目でその仇敵を睨み付けるのが――精一杯だった。

『口ほどにもないとは、まさにこの事よの』

「………っ……」

『それにしても、敖古と楚一族が命運賭けて生み出した方士がこの程度とは……焦らずともよかったかもしれんな!』

 顔のあちこちが引き攣るほどの狂気的な喜色を浮かべた相柳は、恨み心髄の楚一族の申し子を見下ろしながら、ずぶりと毒沼から尾を伸ばした。その尾はまたたく間に昏倒寸前の舜龍の細い体躯に巻き付き、拘束する。

 捕えた舜龍をゆるゆると自分の顔の前まで持ち上げ、懸命に殺意のこもった視線で凄もうとする少年をにたにたと眺めながら、相柳は独りごちた。

『さて。このまま毒の海に沈めてもよいが、それはちと趣に欠けるのう…。どうしてやろうかのう……、…なッ!?』

 思案する相柳の顔に、舜龍は全身の力を振り絞って、吐きかけた。

 血混じりの、唾を。

 それが何か悟った瞬間――相柳の顔がおぞましく歪んだ。

『…この…小僧めがあアああアアああ!』

「ぐあッ…!」

 相柳が舜龍の体を怒りに任せて締め上げる。舜龍が苦痛に唸り血を吐く。

 それを見た相柳は、ひゃっひゃっと喉の奥で笑った。

『おう、おう、どうやらこの小僧は、苦しむことがお望みのようだ……』

「……ぁッ……ッ…!」

『ならば、このまま――絞め殺してくれる!』

 蛇身に更に力が篭もった。まだ少年の舜龍の体を、ぎちぎちと音が鳴るほどに圧迫していく。舜龍はもはや声にならない声で呻くことしかできない。

 やがて。

 ―――ぼきり。

 舜龍の身体が―――折れた。




 血と泥に塗れた軀が、乱雑に中州に投げ込まれた。

 いつもなら夕陽を受けて燦めく白金色の角すら生々しい赤と黒に染まりきって、きらりとも光らない。

「バサンっ!」

 駆け寄ろうとするが女に押さえつけられて、葟杞は近づくことすらできない。

「バサン、返事して! バサンッ!」

 葟杞が叫ぶように呼びかけるが反応がない。はっはっと胸で息をしているのが僅かに聞こえるだけだ。

 酷い傷だ。初めて会ったときよりもずっと酷い。

 普通の動物であれば、致命傷であるほどに。

「いやっ…バサン返事して! お願いだから…!」

 泣いたら駄目だ。泣いたらもっと何もできなくなる。

 何かないか。彼を助けるためにできること。

 いつも傲慢で高飛車で尊大で―――魔物に殺されるくらいなら先に自分を殺しかねないほど高い矜持を持つ彼を、奴等の手から護るためにできることは、ないのか。

『娘、娘や』

『お前に名誉ある役目を…与えてやろう』

 (くら)い愉悦に昂ぶる声が、葟杞に語りかける。

『永きに渡る、屈辱の日々を終わらせるため…』

『共工様に、麗しき地上への扉を開くため…』

 ごとり。葟杞の目の前に重い音と共に、短刀が落ちてきた。

 古い、細かい装飾の施された儀式用の短刀。

 血のような眼をゆるりと細め。

『そやつの喉笛を掻き切り』

『―――この山に、贄の血を捧げるのだ』

 魔物がいっそ優しげに、命じた。

 しばらく、意味がわからなかった。…そんな、そんなこと。

「ふざけんな! 誰がするかッ!」

 必死に魔物を睨みつけ、怒号する。

 だが、奴はけたけたと嗤うだけ。愉しくて愉しくて仕方がないといわんばかりに。

 女が突然、腕を外した。その隙を逃さず身を翻そうとした瞬間――女が膝で葟杞の背中、肺の後ろをどんと圧迫する。肺の空気が一挙に押し出され、呼吸が止まる。

 動けない間に女が葟杞の腕を持ち上げ――無理矢理、葟杞の手に短刀を握らせた。

「……いやっ! 放して!」

 全力で暴れるが、右手は短刀ごと、左手は手首を後ろから拘束されていては、どうにもならない。抵抗虚しく力ずくで押しやられ――葟杞はバサンの傍らに、座らされた。

 毒沼の強烈な腐臭に紛れてわからなかった血の匂いが、鼻を突く。

 どうして様子がおかしい水仙に近づいてしまったんだろう。どうして今もこんな細腕を振り払えないんだろう。どうして自分には何の力もないんだろう。

 何もできない自分が、憎かった。いっそ殺したいほど。

 人間同士の問題なら、葟杞には必ずできることがあった。それがたとえ法に触れることであれ、最後の手段を選べば、葟杞は誰かを助けることができた。あのときのように。

 人殺しの罪を犯した。それがどうしたというのだ。

 自分のせいで命を落とそうとしている誰かを助けられないこの罪悪感に比べれば――自らが望んで犯した罪を背負うことなど、何と軽いものか。

「………き」

 そのとき、かすかな声が、した。

 もう聞き慣れた、声。

 小さな息を繰り返すだけだったバサンの口元が、喉が――僅かに動いて。

「…………の…い…い………おれ……い…」

 ――断片だけで、なぜわかってしまったんだろう。

「馬鹿言わないで!」

 葟杞は反射で怒鳴った。反駁せずにはいられなかった。

 矜持にかけて嘘の吐けない彼の性を、初めて、本気で恨んだ。

「お前のせいじゃなくて俺のせいって…そんなわけないでしょう!」

 彼が言うなら、きっと、バサンは本当にそう思っている。でも今だけは嘘でもいいから、責めてほしかった。

「私が…私が捕まらなきゃ、こんなことにはなってない…! 全部私のせいなのに…!」

 魔物がにたにたと上から覗き込きこむ。悲劇的な最期を愉しんでやろう、と。

 女が腕にぐっと力を込めて、葟杞の右腕をゆっくりと持ち上げていく。

「いやッ…! 放して、放してよ水仙さん!」

 全身全霊の力を込めているのに、女の腕はびくともしない。葟杞は動けない。為されるがままにしか動けない。

 バサンが――微笑むように、瞳を細めた。

 かっと頭に血が昇った。

「やめてよ!」

 こんなときに微笑(わら)わないで。――許さないでよ。

 あなたは、私のせいで死ぬのに。

 振りかぶった手が、頭の後ろで止まる。

 弓弦に引き絞られた矢が放たれるその時を待つような、束の間の静けさ。

 短刀が、夕陽を受けて紅く煌めく。

「…誰か…!」

 声が、零れた。幼い頃から誰かを(たの)むことも()ることも神頼みすらせず、自分の力で全てを切り抜けてきた葟杞の口から初めて――宛のない、心からの願いが零れ落ちた。

 イサクでも舜龍でも誰でもいい。どうかお願いだから、今ここに来て。

「…助けて…!」

 子どものように呼んだ、刹那。

 音がした。頭の中で。

 甲高い、硝子か何かが割れる音。バサンが結界を通り抜けるときに聞いた音に、限りなく似た音。そして。

 葟杞の脳裏に一つの光景が蘇る。




『あっけない、あっけないな小僧!』

 五角塔の前で、相柳は喜悦の雄叫びを上げた。

 背骨も肋骨も折れてだらりと伸びきった舜龍の体を眺めながら、相柳はおぞましい嗤声を響かせる。

『弱い、弱いぞ! 我を瞬殺するだと? 自分があっさりと殺されよって! この程度の子どもに我等を止められると思うなぞ……敖古も楚一族も愚かになったものよ!』

 ひゃっひゃっひゃっと相柳は蛇身をくねらせて笑い転げ。

 しばらくして、ようやっと、気が付いた。

『……うんぬ…?』

 自らの心地よい毒沼に浸かっているはずの部分が、まったく動かないことに。

 何気なく下に視線をやり――相柳は我が目を疑った。

『なっ…!』

 何者もどうにもできぬはずの、自らの毒沼が。

 ―――硬く固く、凍りついている。

『何だこれは!?』

 相柳は焦って抜け出そうともがくが、いまや毒沼は氷よりも遙かに硬く、まるで岩のように重く固い。沼に浸かっていた部分は完全に冷凍され、もはや感覚すらない。

「………ったく」

 不意に呆れたような声が、聞こえてきた。

 誰もいない幽梅廟の、扉の前から。

 その、声は。

「酷いことしてくれるなぁ」

 呟きの漏れたところから―――やわやわと染み出るように、人影が、現れる。

 その影を認めた相柳は驚愕と混乱で血走るほどに双眸を見開き。

『…お……お前は…!』

 あえぐように一言漏らすことしか、できなかった。




 故郷の緑深き山。

 裏の森の奥の更に奥。細い川のほとりの小さな小さな空き地。

 大好きな鳥の住み処。

 子育ての真っ最中の鳥達を見るために訪ねた空き地に、ある日忽然と、巨大な動物の死体のようなものが横たわっていた。

 まだ五つだった葟杞は不慮の事態に動揺し、その場にかちんと固まった。

「……おや…これは……お嬢さん…」

「…っ?!」

「…いい…ところに……」

 あまりにも喫驚(びっっくり)すると声も出なくなると知ったのは、あのときだった。

 人間の言葉を話す動物のようなものは、真っ黒な巨大な猿の姿をした―――神仙だった。

「君の手当に、心からの感謝を。この礼に、一度だけ、君を助けてあげよう」

 彼が去ったあの日。

 別れを察して涙を浮かべる幼い葟杞の瞼に、大きな手を押し当てて視界を遮ってから、黒い神仙はそう切り出した。

「ただし――君が今の心根のままである限り、だ」

「……………?」

「天界の官吏たる俺は、命の恩人といえど、気軽に人間に手を貸せない誓約があってね。だが…君が人間の醜悪さに染まらず、このままの美しい心根を保っていたなら、君が助けを求めたときに一度だけ、天界の掟に従って君を助けることができる。だから今のままの君でいてほしい。…わかったかい?」

 幼い葟杞にはほとんど意味が理解できなかった。だが、誰にでも優しくあることが必要なんだ、ということは伝わった。だから葟杞はしっかりと頷いた。

「……わかった」

「いい子だ。じゃあ、俺の助けが必要なときは、大きな声で名前を呼びなさい。今からかける仙術で、どこにいても俺の耳に君の声が届くようにするから」

 何度尋ねても教えてくれなかった名を、最後に、聞けるなんて。驚きながらも胸を高鳴らせ、葟杞は大きく首肯する。

 手のひらの向こうで、神仙が小さく笑った。

「いいかい、俺の名は…――」

 彼が厳かに名を告げ。

 ふわりと――唇に温かいものが、触れた。

 ざぁああ…と木がたわむほどのつむじ風が吹き荒れ、葟杞は反射で身を竦める。

 やがて風が収まり、瞼を覆う手のひらがなくなったことに気付いて慌てて双眸を開いたとき、神仙の姿は、もうどこにもなかった。思わず瞬きをする。

 その瞬間、葟杞は彼と交わした約束のことなど、すっかり忘れてしまっていた。




 全てを思い出したと同時に、葟杞は悟った。神仙の助けが必要だと葟杞が確信したときにはじめてこの記憶が蘇るよう、彼が口吻(くちづけ)のときに術をかけたことを。

(……あんのクソ野郎!)

 バサンの口の悪さが移ったかのように心の中で罵る。

 もう少し早く解ける術にしておいてくれればいいものを!

『さあ…』

 だが葟杞が声を張り上げる間もなく――魔物の中央の頭が、厳かに命じる。

『贄を――捧げよ!』

 葟杞の右腕を、女が力ずくで振り下ろす。

 力なく半目を開き、横たわるユニコーンの喉笛に向かって。その命をたち切るために。

「…っやめてぇええええええええええッ!」

 ―――ずぶ。

 肉を絶つ音が、響いた。




 短刀が突き刺さる音が、思いの外、遠くから聞こえてきた。

 全身の力を振り絞り、バサンはなんとか音の方に焦点を合わせる。

 そして何が起こったか気付いた瞬間、息が詰まった。

「…っ……」

 短刀は、葟杞の脚の脇に突き立っていた。

 葟杞は短刀を握る自分の手を、渾身の力を込めて自分の方へ引き寄せた。

 刃はヒュドラの思い描いた軌道を逸れ――葟杞の左大腿の外側を、ざっくりと切り裂いた。ぱっくりと開いた傷口から止めどなく血が溢れ出す。

(……葟杞…っ!)

 声にならない声でバサンは呻いた。なぜこんな馬鹿な真似を。

 天軍がこの事態を知って、手をこまねいて見ているだけのはずがない。この中原の担当なら敖古のことも共工のことも知っているはず。すぐに結界を壊せるくらいの上の者が飛んできて、必ず手を打ってくれる。だから。

 葟杞だけは無傷で帰したかったのに。

『…おのれ小娘』

 瞋恚の滲む唸りが、沈黙を破った。

 ぼた、ぼた、と中州にかかる結界に、毒沼の雫が落ちる。高見の見物を決め込んでいた魔物の身体が小刻みに震えている。先程まで興奮で緩んでいた顔が、憎悪に歪む。

『小癪な真似を…!』

『人間の分際で…!』

『……まあいい』

『女、もう一度やれ!』

 魔物が水仙に向かって苛立ちを露に命じる。

 だが女が動くよりも早く、葟杞はすうと息を吸い込んで。

「―――さっさと助けにきなさいよ!」

 空まで届くほどの大音声で、怒号した。

「イサク―――――――ッ!!!」

 天が。

 天と呼応するように、葟杞の体が。

 閃いた。




 北の空から、巨大な霹靂が落ちた。

 耳を(つんざ)抜く衝撃音が轟き、山が揺れる。

 山だけではない。相当の距離がある平陽までもが、地震のように揺れ動く。

「…おや」

 敖古山を見霽(みはる)かしながら、五角塔の扉の前に手妻のように何の前触れもなく現れた人影が、声を漏らした。

「あちらの方もどうやら大丈夫そうだな。やれやれ」

 肩を竦めた人影は呆れたように腰に手を当て、気絶してしまったかのように動かない人面蛇身の化け物を睥睨する。

「まったく、こんな美少年を捻り殺すとは、なんて趣味の悪い。国中探しても僕ほどの顔はいないんだ。世の宝なんだよ。わかる? だから丁重に扱ってほしいね」

 なんとも場違いな文句をぬけぬけと言い放つその少年の(かんばせ)は、大仰な口上の通り、人間には二人といない涼やかな美貌を誇っている。

 ―――相柳自身が先程殺したはずの、舜龍そのものの顔。

 相柳は慌てて自らの尾で捕えているはずの者を見やる。

 だが、蛇身に潰されたままぐらぐらと揺れるその人間は、憎い憎い彼の楚一族の申し子に間違いはない。双眸に光はなく、確かに、死んでいる。

 では―――これは誰だ?

『…なぜ同じ顔が二人いる!?』

 惑乱し喚くように問う相柳に、あっさりと少年は――本物の舜龍は、答えた。

「それはただの傀儡さ」

 冷酷で美しい、勝者の微笑みを浮かべながら。




 とてつもない雷霆に、喚んだ張本人の葟杞も呆然とするしかなかった。これが本物の神の力か。

 幾重にも折り重なった稲妻が、天と――なぜか葟杞の体から迸り、轟音と共に魔物に降り注いだ。どういう仕組みかはわからないが、葟杞の体を通して彼が神力を放ったらしい。

 凄まじい轟音に、完全に耳がおかしくなっている。音が何一つ聞こえない。

 毒の海の至るところから濛々と煙が噴き上がり、周囲がどうなっているのか全くわからない。雷電は確かに魔物を直撃した。これほどの攻撃を受けてなお生きているとは思えないが……。

 ふと気付くと、葟杞を拘束していた女の姿が消えていた。

 慌てて視線を巡らすと、女は葟杞のすぐ後ろに、糸が切れたように倒れていた。虚ろな、死者の顔をさらしながら。

 美しい月琴弾きのあまりにも憐れな最期に胸が痛むが――今はそれどころではない。

「バサン…!」

 裂けた左脚をかばって這うように身を寄せ、葟杞は横たわったままのバサンの首と口元に、震える両の手をそれぞれ添える。

「………っ!」

 とく、とく、とく…と、弱々しくも確かな鼓動が葟杞の手のひらを打ち、かすかな息遣いが肌を撫でた。――生きている。

 確かに、バサンは、生きている。

 全身の力が抜けた。安堵の涙が目尻に滲む。

 ばさり。

 すぐ上空から、羽音が聞こえてきた。

「おーおーおー」

 咄嗟に構えながら葟杞が振り仰ぐと。

「えっらい派手にやられたなぁ、バサン坊よ」

 もう落ちかかった夕陽を背にした不思議な形の影が、こちらを見下ろしていた。

 馬のような体躯は磨き上げた宝玉のように黒々と輝き、鷲に似た翼がその背に優雅に翻る。色は言い伝えとは異なるが、姿形は西方の神話に出てくるかの神獣そのもの。

 この姿は初見だったが――彼が誰なのか、葟杞はとうにわかっていた。

 満身創痍のバサンにからかい声を投げる彼を、ほとんど殺意といえる憤激に満ちた眼光で葟杞はぎっと睨めつけた。彼がわずかにたじろぐ。

 ぎりぎりで怒りを抑えている声で、低く非難する。

「―――ふざけないでください、イサク様」

 この黒い天馬(ペガサス)こそ、バサンの監視役で天界の将軍であるイサクであり――幼き日の葟杞と交わした誓約の通り助けに現れた、彼の神仙だった。

 



『…傀儡、だと…!?』

 愕然と絶句していた相柳が、ようやく口を開いた。

『ふざけるな! 入れ替わる隙など、我は与えてはおらんぞ!』

「残念だったね。僕には瞬き分の時間さえあれば、十分だったんだよ」

 色鮮やかな数珠を懐から取り出しながら、折角なので、舜龍は解説してやることにした。

 冥土の土産に。

「韋檀様の最期のお声を聞いていたのは、確かに僕だった。お前がその姿に転じるのを眺めていたのも。入れ替わったのはな、相柳。――お前が最初に尾で攻撃してきた時さ」

『…な、ん、だと…?』

「自らの躯に視界を遮られて、見逃したんだよ。僕が傀儡と入れ替わるのを』

『……そんな…馬鹿な…』

「ちなみにその舜龍は特別製の傀儡でね。触れば触るほどお前の妖力を吸い上げて、ご自慢の毒沼を凍らせていくんだ。――お前の毒沼は、お前の力でなら相殺できるからね」

 ようやく事態を理解し、相柳は喉の奥で、馬鹿な、ともう一度呻いた。こんなものを用意する時間などなかったはずだ、と。

 この傀儡を作ったのは、舜龍ではない。封印に完璧を求めながら、万が一、共工の魔物の軍勢と対決することがあったときの準備を怠ることのなかった敖古と楚氏初代だ。

 そして初代以降の先祖達がそれらをきちんと受け継いできたがいたからこそ、舜龍はぎりぎりで、楚氏と――生まれながらに背負う使命を果たすことができた。舜龍の愚かさを尻ぬぐいしてくれたのは祖神(おやがみ)達には、本当に頭が上がらない。

「僕はきちんとココを使ってるんでね」

 だが、そんな心情はおくびにも出さず、舜龍は自分のこめかみをとんとんと指で叩いた。そして無様に言葉を失ったままの相柳をせせら笑う。

「絞め殺したことといい、ほんの僅かとはいえ自ら隙を作ったことといい――お前は本当に間抜けもいいところだな。無能な配下を持った共工も気の毒に」

『………おぉんのれぇええエエエええッ!』

 あからさまな侮蔑に相柳がいきり立ち、全身に妖力を漲らせる。だがそれすらも舜龍の狙い通り。

「無駄無駄。力を使えば使うほど、自分が凍り付いていってるの、わからない?」

 にこやかな舜龍の指摘通り、相柳の妖力は放たれることなく、尾に掴んだままの傀儡に吸収されていく。つい今の今まで動いていた尾までが、毒の沼と同じように凍りつく。

 尾だけではない。沼より上に出ていた腹から胸にかけて、じわり、じわりと石のように固く凝っていく。

『…何故だ…!』

 現実を受け入れられず、相柳が気が狂ったように絶叫する。

『お前は! 我より! 弱い! …こんな! ことが! できるはずがないぃイイいイいッ!』

「そう判断した時点でお前の負けさ。僕はね――」

 舜龍は仇敵の無様な姿をせせら笑いながら、襟の合わせを緩めた。

 胸元からのぞいた、鎖もないのに肌にぴたりと吸いついている金色の五芒星に舜龍が手を押し当て――口の中で何かを唱える。

 と、その五芒星が燐光を放って消え。

『…なっ…!』

 突如として溢れ出したとてつもない力の奔流に、相柳は我知らず震え出した。

「―――力が強すぎて、何もしていないのに平陽の結界に影響を与えてしまうから、いつもはこうして封じの術をかけてるんだよ。だから弱く見えただけさ。ご愁傷様」

 その台詞は、もはや相柳には届いてはいなかった。

 舜龍はただ佇んでいるだけだ。なのに相柳は本能的な恐怖に呑まれ、妖魔を目の前にした人間のように、ガタガタと震えることしかできない。分身とはいえ、共工第一の家臣である相柳にさえ敗北を悟らせるほどの圧倒的な力が、勝手に身体から溢れ出すのだ。

 これが敖古と楚氏が命運をかけて創り出した、舜龍の本当の力。

「さあ、相柳」

 相柳は彼をまだ幼子と侮った。それが全ての誤りだった。 

「我が父なる神龍・敖古を苦しめた罪―――死して償ってもらおう」

 完璧に整った涼しげな顔に凄絶な笑みを浮かべ、舜龍は目の前の妖魔を地獄の底へ葬送(おく)咒詞(しゅし)を低く詠唱し始めた。




「……い…く…?」

 小さく呻くような声を捉えて、葟杞ははっとバサンに顔を寄せた。

「バサン! 大丈夫? しっかりして!」

「………ぅ…」

 ぴくりと瞼を震わせたバサンが何か答えようとしたが、その前にうざいほど能天気な声が割り込む。

「大丈夫だいじょーぶ、神獣がこの程度で死んだらとんだお笑い草だぜ」

「――黙れこの馬鹿ペガサス!」

 既に限界を越えていた葟杞の堪忍袋が、ついに爆発した。

「何なんですかその態度! あなた様がさっさと応援に来てくれてればこんな…バサンがここまで傷つくことにはならかったんですよ! 遅れに遅れてきた挙句バサンをからかう資格なんかありません! ふざけんじゃないですよ! しかも!」

 武官であるイサクが思わず怯むほどの剣幕で、葟杞は怒鳴り続ける。

「たった五つの子どもの唇を奪っといて勝手に記憶消してくとか、何様のつもりですか! だいたいあの封印必要あったんですか!? もし百万が一、必要があったとしても、絶対絶命のもっと手前で解けるようにしといてくださいよ! そうしたら!」

 怒り心頭で声を張り上げていた葟杞が、唐突に、止まった。

 その目から――ぽろりと、雫が零れ落ちる。

 璋蓉についていくと決めたあの日から一度たりとも流すことのなかった涙が、堰が壊れたかのように、次から次へと溢れ出す。

 ――怖かった。

 本当に、怖かった。

 涙と共に感情を溢れ出す。今更、体中が震え出す。

「………私のせいで……バサンが…死ぬかと…っ!」

 葟杞は両手で自分をかき抱きながら、小さく、吐き出した。

 度肝を抜かれて葟杞を見つめていたイサクが、ここでようやく我に返った。滞空していた斜め上から降りてきて、葟杞とバサンのすぐそばに着地する。そして小さな稲光と共に人形(じんけい)に転じ、決まり悪そうに地面に膝をついた。

「…いや、本当に色々、申し訳ない。……えっと、はい、これ」

 神妙な様子でイサクが懐から何かを取り出し、差し出してきた。小さな珠だ。青い空を凝縮したような、見事な色合いの珠。

「これ、天界特製の治癒玉。作るの大変で滅多に支給されないんだけど、今回は特別。ちょっと失礼」

 言いながらイサクは、微妙に開いている葟杞の口にひょいとその珠を放り込んだ。

 急に入ってきた異物を反射でごくりと飲み込み、葟杞は泡を食った。

「ちょっと何するんですか!」

「まあまあ落ち着いて。ほら、脚、見てみな」

 イサクの指先につられて葟杞は自分の左の大腿を見て――目を丸く見開いた。

 あれほどぱっくりと裂けて出血していた傷が、見事に癒着している。傷があった跡すらうっすらとしか見えない。…なんだこれは。これが天界の治癒の術か。とんでもない。まさに人智を越えた力だ。

「これ、バサンにも飲ませてやって。俺はまだお仕事が残ってるから、行ってくるな」

 呆気にとられる葟杞の手のひらにもう二つ空色の珠を落とし、イサクはその頭をくしゃりと撫でた。また電光に包まれてくるりと本来の姿に戻ると、ばさりと宙に舞い上がり、煙の中へと突っ込んでいく。――まだ終わっていないのだ。

 それでも、葟杞とバサンの役目は、もう終わった。

「バサン、飲める…?」

 葟杞は小さな青い珠を摘んで、口に近づけた。だが自力では飲み込めそうになかったので、一言断ってから口腔に手を入れて喉の方へそっと珠を置き、顎を閉じさせる。何度かやり直した末に、バサンはようやく、何とか治癒玉を嚥下した。

 と、ふわりとバサンの体が仄白く輝いた。

 燐光の下で血が止まり、みるみるうちに傷が修復されていく。――命の灯が、戻っていく。

 葟杞の全身から、一気に力が抜けた。止まったばかりの涙がまた溢れそうになり、ぎゅっと瞼を閉じる。

「…どうした?」

 澄んだ湖のような深い紺青色の瞳が、不思議そうに葟杞を見つめてくる。…どうした、だと? 言いたいことが胸の中でいくつもいくつも沸騰するように浮かんできたが――言葉にできたのは、ただ、一言だけだった。

「……よかった」

 助けが来て。

 自分が助けを呼ぶことができて。

 必死で戦うバサンを助けることができて。

 魔物達を復活させずに済んで。

 そして―――バサンを死なせずに助けられて。本当に、良かった。

 たくさんの意味を込めたその言葉を聞いて、バサンはゆるく笑った。




 煙が、ゆっくりと晴れていく。

 雷電でほとんど干上がった毒の沼の真ん中に、多頭竜(ヒュドラ)が横たわっていた。ほとんどの頭が焼け焦げて千切れ、残った頭も何とか繋がっているような状態で。瀕死といっても過言ではなかった。

「よーうヒュドラ。いや、相柳だっけか?」

 イサクがひらりと宙を舞いながら、気楽な調子で呼びかける。

「まあどっちでもいいか。えらい醜態だな。いい眺めだ」

『…貴様…っ!』

 先の攻撃がイサクの仕業だとようやく理解した魔物が、残った力を振り絞り、黒い天馬を憎々しげに睨み上げる。

『…お前、なぜここへ来れた…!』

『もう死んでいる刻限のはず…!』

「うん、ほんとペガサスたる俺様も今回ばかりは死ぬかと思ったわ。まさか妓楼の酒にお前の体液が入ってるとは夢にも思わねぇだろ。そんで悶絶してるうちにどっかの神殿か何かに運ばれちまって、孤独に意識不明の重体に陥ったし」

 神獣が妓楼で毒酒を呑まされて死にかける。神獣としてあまりにも情けない事態である。ようやく判明した今朝のイサクの不在の理由に、そのせいで命の危機に瀕したバサンは、後で一発殴る、と正当なる制裁を下す決意を固めた。

 だがバサンは同時に、イサクの軽い声から滲み出す本気の殺意を痛いほど感じていた。口調はごくごく軽いが――これは本気で腑が煮えくりかえっている。イサクが笑いながら続けた。

「あの舜龍とかいうガキんちょがバサンの角の欠片持ってなかったら、流石の俺様でも死んでたな」

『何、だと…!?』

 そういえば舜龍に、韋檀の治療のために角の欠片を渡したことをバサンは思い出した。彼のために使わなかったのなら――結論は明らかだったので、その先を考えるのをやめた。

 その欠片がイサクを助けた。今はその事実が重要だった。

「俺が転がされてた『幽梅廟』ってとこは、平陽の方の封印の要だったらしいな。あそこで俺を、山でバサンを生け贄にして、どっちの扉も開けちまう寸法だったんだろうが、残念だったな。お前達の企みはここで終いだ。……さて、この俺様と、そこの坊主と可愛いお嬢さんと、あとその他諸々の落とし前」

 イサクの全身から、神力が迸る。

「―――キッチリ付けさせてもらおうか」

 バサンの持ち得ない――圧倒的な攻撃のための力。

 天馬は天神の雷を運ぶ神獣だが、イサクはその中でもまた特異。

 雷と暴風を自由自在に操ることのできる能力を以て、たとえ敵が大群であろうともいとも容易く殲滅する。天界の一軍を任されるということは、それほどの力を持っている証。

 はっきり言って憎たらしいことこの上ないしムカつく男ではある。が。

(………今回は、本当に、助かった)

 自分一人ならいい。だが、葟杞がいた。彼女を助けることができたのは、この男のおかげだ。調子に乗るので絶対に口では言ってやらないが。

 魔物がイサクに斃されていく様を眺めながら、バサンは心の中で密やかに感謝した。




「…本当に、大丈夫なの?」

「大丈夫だ」

「…本当の本当の本当に?」

「……お前もたいがい疑り深いな。大丈夫だと言っているだろう」

 二つの治癒玉のおかげで人形を取れるほどに回復したバサンが、しつこく確認してくる葟杞に眉根を寄せて苛立ち混じりに嘆息した。その呆れ顔には思いっきり、さっきまで俺のことなんぞ忘れて目を輝かせまくってたくせに、と嫌味が書いてある。

 魔物をイサクが片付けた後、待ち構えていた天界の官吏達が押し寄せ、敖古山の山頂は一転して、葟杞にとっては天国のような空間になった。

 なにせ語り物に出てくる神獣や幻獣、妖精達があちらにもこちらにもいるのだ。興奮するなという方が無理な話で、うっかり葟杞はもう大分回復していたバサンそっちのけで食い入るように幻獣達をを見つめまくってしまった。

 それでも葟杞は一通り堪能すると、持ち前の冷静さを発揮し、「できることもないし帰るわ」と言った。いつまでも見ていたいのはやまやまだったのでかなり後ろ髪が引かれたが、葟杞がいても邪魔なだけであることは明白だったからだ。

 するとバサンも「俺も今日はもう存分に働いたから帰って休む」と共に平陽に戻ることになった。ここまでは良かったのだが、帰る方法で対立した。

 バサンは葟杞を乗せて飛んでも大丈夫だと主張し、葟杞は誰かに送ってもらおう、と提案した。先程まで瀕死だったひとに無理をさせたくない、と考えるのは人間としては当然の思考だったが、バサンがあまりにも頑強に言い張るので、仕方なく葟杞は折れた。

「………じゃあ、お願いします」

「最初から素直にそう言えばいいんだ」

 ふてくされながら憎まれ口を叩くバサンに、葟杞はただ眉を下げた。いつもなら怒っていたが――彼が生きて、元気でいる、それだけでもう何もかも許せた。

 二拍を数える間に、バサンは人形から本来の馬のような姿に立ち返った。確かにもう傷はまったく見当たらず、もうすっかり暗くなった夜空から落ちる星明かりで、純白の体躯と直のねじれ一角が美しく浮かび上がる。

 本当に大丈夫なのかという思いはちっとも薄れないが、それでも葟杞はどうしようもなく、胸が高鳴るのを感じた。

(…ユニコーンの背に乗れるなんて…!)

 最も憧れていた神獣、ユニコーンが、葟杞が乗りやすいように膝を突いて身を屈める。あの誇り高い彼の神獣がここまでしてくれることが、未だに、信じられない。おそるおそる足をかけ、なだらかな背に腰を下ろす。「ちゃんと掴まれ」と注意され、どきどきしながら大きな首に腕を回した。―――あたたかい。

 生きている。

 また少し泣きそうになる。

「よし、行くぞ」

 バサンが軽く声をかけ――地面を蹴った。

 ぐうんと下に引っ張られるような感覚に、思わず葟杞は目を瞑った。バサンの軀が地を走るかのように動くのを感じる。風圧でまとめていた髪がほどけて後ろで好き勝手に舞い遊ぶ。向かい風が頬を切る。

 なんとか生まれて初めての感覚に慣れてきた頃、葟杞は、そろりと瞼を押し上げた。

 同じくらいの高さに見える山の稜線が、ぐんぐん後ろへ追いやられて、遠ざかる。

 ―――空を、駆けている。

 飛ぶというよりも、駆けるという表現が相応しい。空を駆けるユニコーンの背に、今、葟杞は確かにいる。…信じられない、夢のような現実。

「…下を見てみろ」

 バサンに促されて、葟杞は何気なく下を眺めた。

 見事な五角の街が、そこにはあった。

 都市を守る外壁、そして城を守る城壁の二重の五角が、街の至る所にともる明るい暮らしの灯で、夜の平原に美しく浮かび上がる―――葟杞が何よりも大切に想う人達が住む場所。麗しきまほろば。

 その名は、平陽。

「……守れたな」

 バサンが静かに囁いた。胸に言い知れぬ感情の塊が沸き上がる。

 たまらず、葟杞は首筋にしがみついた。

 何も言わないバサンに甘えて、水晶のような鬣に瞼を押し当て、葟杞はしばらくそのぬくもりだけを感じていた。


 ゆるりと空を駆けながら、バサンもまた葟杞の温かさを、噛みしめた。


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