一:墜落、崩壊、悲嘆
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
「遙か砂漠を越えてやってきた麗しき妖術師・嶺娜の公演、最終日最終回だよ!」
「お代は銅五十から! さあこの一世一代の好機、お見逃しなく!」
古くから西方との貿易で栄えてきた玄国の古都、平陽。
国中から、そして砂漠を越え遙か西方からも人と物が一堂に集まるこの大商都の歓楽街は、常に大賑わいである。
その目抜き通り―――星火大路の喧噪でも一際目立つ威勢のいい呼び込みの声に釣られ、老いも若きも男も女も、次々に立ち止まっては吸い込まれるように瓦葺きの立派な白塗り門をくぐり、建物の中に入っていく。多くの別棟や庭で屋敷が構成される玄国の建築様式とは全く異なる、大きな大きな、風変わりな建物だ。
門の額は『雁翔館』。
この平陽でも五指に入る大店の勾欄―――劇場であった。
ただの勾欄ではない。とある大貴族が経営する、奇術、楽奏、舞踊、漫談、軽業、演劇など、芸の道を極める者の中で、館頭の目に適った一流の芸達者だけが舞台に立つことが許される、格式高い勾欄なのである。
ところが価格は実に良心的で、更に振る舞われる酒肴も質が高いとくれば、庶民から商人、官僚に武官、貴人、果ては異邦人に至るまでありとあらゆる人間が出入りし、方々からの旅芸人や一座も出演しにやって来る――情報の宝庫でもあった。
その勾欄『雁翔館』の正門脇にある、私用出入り口が静かに開いた。目敏く気付いた呼び込みの少女の一人が出てきた人影を認めて、ぱあっと顔を輝かせる。
「葟杞!」
振り向いたのは――背の高い少女だ。
簡素に結い上げた黒髪と切れ長の黒瞳、しゅっとした淡泊な面立ちはこの玄国の民の大多数を占める汎族のものだったが、上背があり、がっしりした骨格としなやかな体つきは異国人のもの。不均衡な外見だ。
少女は名を、葟杞、という。これもまた滅多にない、風変わりな名前だ。
その容姿と名前が示す通り、少女は元は西方騎馬蛮族であった、驪族の出だった。驪族はとうの昔に玄国南部に定住しており、汎族との婚姻も繰り返されたためどちらの特徴も併せ持っている。普通の都市では目立つ外見だが、玄国の民も異国人もひしめくこの平陽では誰もわざわざ気に留めないので、人混みの中にいれば簡単に紛れた。その程度の、平陽では並の容姿だ。
だが――葟杞の佇まいにはどこか他と違う独特の雰囲気があり、自然と目が惹きつけられるような不思議な存在感を持っていた。
以上のように葟杞は人と少し違っていたが、彼女をよく知る者、特に雁翔館の佣人、つまり奉公人達は誰もそんなことを気にしない。その理由はただ一つ。彼女が真面目で謙虚で有能で努力家でたまにものすごく可愛い、愛すべき存在だからだ。
「お疲れさま! もう上がりだっけ?」
「この文を蔡家酒楼に届けてきたらね」
少女の問いに葟杞は軽く笑って、手に持った塗りの文箱を持ち上げた。少女の隣で客引きをしていた葟杞より三つ年上の青年が、興味津々に尋ねる。
「蔡家酒楼? こないだの件?」
「そう。向こうに弁償してもらう金額が決まったから、その報を届けに。いつもお世話になってるから、かなり心遣いしたけどね」
「まあ確かにあそこはよくうち紹介してくれるもんね。こないだの客はひどかったけど」
「でもなんで葟杞がわざわざ? 伙計が出向くほどの用件でもないだろ?」
「届けるついでにあちらの様子を見てこようと思って。最近お客の質が落ちてるみたいだから。お館さんも気にしてたし」
「うわぁ、さすが葟杞だな。抜かりない」
苦笑する青年の言葉には毒はない。むしろ尊敬に近いものがあった。
葟杞は雁翔館の客入れや観覧代の支払い、そして館の金銭の管理全般を担う『勘定処』の四人いる上役『伙計』の一人だった。他が二十後半と三十半ばであり、彼らですら年若いと言われることを鑑みれば、まだ弱冠十七歳の葟杞が伙計となっているのがどれほど異例か知れる。
「あ、葟杞! よかった、まだいたんだね」
先程葟杞が出てきた私用口から顔を覗かせたのは、三十路半ばの女だ。
「楊さん。どうしたんですか?」
「悪いけどこれ、夙貞酒楼に持ってってくれないかい? 今、中がちょっと手一杯でね。あんたなら頼めるから」
この楊は葟杞と同じ勘定処の最年長の伙計で、事実上の長といえる存在だった。太り肉ながら元々舞をやっていただけある身軽な所作で門を跳び越え、葟杞に桐の文箱を渡しながら言う。
「こないだ話したろ、新しくうちの中に屋台を出したいって申し出があったって」
「ああ、あれですか。結局どうされるんですか?」
「あんたと相談した通りの場所に入れることにしたよ。だけど狭いんでたぶん文句が出るし、出せる菜肴も限られるから、話をつけてきてくれると有り難いんだけど…」
「火が使えないですしね。わかりました、行ってきます」
「助かる、頼んだよ」
楊さーん、と呼ばわる声に今行くよと苛立った声を返し、「ほんとありがとね」と楊は葟杞の肩を叩いて忙しく戻っていく。その背中を見送りながら、葟杞の頬が我知らず緩んでいき、見ている方もなんだかほんわかしてしまう微笑みが零れる。
「あーもう! 葟杞ったら可愛いんだから!」
どん、とぶつかるように抱きついてきた呼び込みの少女に、葟杞は目を瞬いて慌てた。
「えっ? 鈴鈴、なに?」
「いや、楊さんに頼られて嬉しくてたまらない、ってにじみ出てるのが可愛すぎて」
「葟杞は楊さん大好きだもんなー」
青年にも畳みかけられて、「そっ……そうだけど…」と葟杞が頬を真っ赤に染めてうつむくので、二人はにやにやしながら目を見交わす。
的確な判断力と計算能力、面倒見の良い濃やかな質、不正など一切しない真面目さ、常に努力と節制と謙虚さを忘れず、どんな相手でも敬意を払って接する姿勢を買った館頭と館の主である大貴族に抜擢され、勘定処伙計の役に葟杞が就いたのが、一年前。
他の伙計、特に敬愛してやまない楊に比べればまだまだだと葟杞本人は思っている。だが実際は楊らとまったく変らない仕事ぶりで、彼らの対等な相談相手となり、また先程のように重要な交渉事の代理を任されるなど、頼りにされている。
だがそれ以上に彼女を頼りにして可愛がっているのが、彼女の下で働く少女や青年達である。怜悧沈着でデキる女の葟杞の、こうしてたまに見せる年相応の反応の落差がたまらなく可愛い。しかも誰の意見も無碍にせず、必要とあらば舘頭や雁翔館の主の大貴族が相手であってもきっちり主張してくれる、上役としてもこれ以上ない存在なのだ。
「ほら葟杞、早く行かないと日が暮れるぜ」
「あっそうだ! 終わったら一緒にご飯食べよう。ね?」
からかわれつつ可愛がられてまだ固まっている葟杞に青年が苦笑しながら声をかけ、少女が話を変える。その提案に葟杞はぱっと顔を綻ばせ、本当にいいの?と確認するように目を窺ってから、嬉しそうに頷いた。
「…ありがとう。遅くならないようにするね」
「うん、寮の食堂で待ってる。がんばってね!」
「行ってらっしゃーい。気をつけてなー」
呼び込みの二人に見送られ、葟杞は星火大路を歩き始めた。
平陽の商いと娯楽の中心は、この星火大路だ。北には大店の商家の舗が建ち並び、南へ下っていくと酒楼や茶館、屋台、射的や牌席、勾欄などの娯楽処が軒を連ねる。人々が通りにひしめき、色とりどりの提灯と人いきれ、菜肴の湯気で、まだ初春というのに汗ばむほどの熱に溢れている。
特に今のような夕暮れ時は酒楼や露店の掻き入れ時の始まりで、方々から国中の料理の香りが漂い出し、そこかしこで呼び込みの声が飛び交う。
(いい匂い。…お腹すいてくるな…)
いやでも帰って鈴鈴とご飯食べるから、と食欲をそそる匂いを振り切りながら雑踏を通り抜ける。そのとき酒楼の一つから、聞き覚えのある旋律が流れてきた。
(『竜刀杏妮』だ…!)
開いた窓からちらりと中を窺うと、風変わりな衣装を着た初老の男が、龍から宝刀を授かったとある民族の女性の冒険譚の弾き語っていた。葟杞の目が輝く。
葟杞は神話やお伽話が好きだった。母や祖母からはもちろん、読み書き算術を教えてくれた僧侶や村の爺婆達からも暇があれば物語をせがんでいたし、今でも旅芸人と見るや異国の神々の冒険譚を聞きたくてうずうずする。神の偉業を称え、英雄の冒険に喝采を送り、仙人や精霊、幻獣の活躍に胸を躍らせる。性格は至って現実的なので、意外な趣味だ。
玄国の民はみな神話や不思議語りのような、いわゆる『語り物』が好きで、勾欄が流行る一因もこの気質にある。だが葟杞が語り物が好きなのには、誰にも言ったことがない特別な理由があった。
子どもの頃に一度だけ、出会ったことがあるのだ。―――神仙と。
言葉を交わし、手を触れ、彼が文字通り宙を飛んだり風を操るのを目の当たりにした。だから葟杞にとって語り物は作り話ではなく、現実の出来事なのだ。彼のような神仙が玄国中だけでなく世界中にいると思うと、なんだか楽しくなってくる。
ゆえに休みの度に古今東西を問わず語り物を聞き集めに行くのだが、すると必然的にそれらを演じる芸人にも詳しくなる。それは勾欄の仕事にも大いに役立っていた。
(今の演奏者が誰だったのか、明日聞いとこう。いい声だった)
ほくほく顔でそう決め、件の二つの酒楼で主人と話をつけに行った。そして雁翔館の佣人宿舎に戻り、約束通り少女と楽しい夕餉を頂いた後には流行の学問の書を読み耽り、不寝番の者に「また夜更かししてるな。早く寝ろよ」と注意され。
ようやく葟杞はいつも通り、寮で一番遅くに眠りに就いた。
じき墜落する、と彼は悟った。
どっどっどっと傷口が脈打っている。まだ制御しきれていない風の力で体を支えるのは、もう限界だった。
真下の都市に奴が潜り込んだのは確認した。大怪我を負いながら仇敵を必死に追いかけてきた彼は、とにかくこの都市に入らなければ、と目下の街を睨みつける。
(あの野郎…、今度こそ逃がさねぇぞ)
無駄に強力な結界があるがゆえに奴がこの都市のどこにいるかはわからないのは、腹立たしいことこの上ない。だが今重要なのは、この結界が網となって、地面に叩きつけられることは避けられることだった。通り抜けるときにかなり痛むだろうが、この身体の状態では、墜落にて虫の息――という最悪の事態を避けることが最優先だった。
最後の力を振り絞り、彼は上空から、人間の都市にしてはマシそうな池がある場所に狙いをつけた。下手なところに落ちれば傷を癒すどころではなくなるからだ。
(……しかし妙な形の都市だ)
なんとか目標地点を定め、小さな感想を抱いた直後―――彼は真っ逆さまに地上へと落下していった。
明け方の白く細い月だけが、彼の史上最悪に情けない姿を見ていた。
はっ、と葟杞は目を覚した。
(……今の音は…?)
硬質の何かが割れるような音が――確かに、した。
だが陶器や硝子などではない。そんなものとは比べものにならないほど高く澄みきった、聞いたことのない音だった。
かなりの音量だったと感じたのだが、誰も起き出している気配はない。それに、音の聞こえ方も妙だった。遥か遠くから聞こえてきたのに、耳の奥で弾けるように反響した。
(……もしかして…)
葟杞は窓を開けて、ちょうど東雲刻の空を見上げた。
玄国以前にこの中原地域一帯を支配した数々の王朝の国都であった平陽には、代々、王家ではなくこの平陽を護るために存在する方士の一族がいて、様々な呪術的防衛を施しているという。普通の人間にはそれはただのお伽噺だが、葟杞にとってはもちろん違った。
幼い頃に神仙と出会った後、故郷の山ではふとした瞬間に、人も動物でもない何かの気配を感じることがあった。ただ、元々そういう才能があったわけではなかったので、姿を視ることは叶わず、どんなものだったのかはわからない。おそらく神使や聖獣、背筋がぞっとするような場合は妖怪か何かそういった類のものだったのだろう。
ところが、齢十二で平陽へやって来てから五年も経つというのに、葟杞は一度たりとも人外のもの気配を感じたことがなかった。当初は都市ではそういった存在が少ないだけかと考えていたが、平陽のほとんどの場所に足を運んだことのある今の葟杞が未だに一切遭遇したことがないのは、さすがにおかしい。
だから葟杞は方士一族の存在や平陽が呪術で護られているという話を信じていたし、今の聞いたことのない不可思議な音がその関連だとすれば、筋は通る。
(………何か、あった…?)
だが気配に敏い以外は凡人と変わりない葟杞にできることは、現状何もない。気にはなるが、どうにもできないことをずっと案じていられるほど葟杞は暇ではない。
雄鳥が伸びやかな声で、暁を告げる。もう起きる頃合いだ。
今日は新しい演目が始まる最初の回から担当だから、客引きの皆に説明をしたり、きっと細々起こるであろう問題を順次処理できるよう、早めに行って準備を整えなければならない。
先程の何かは方士の皆様が万事解決してくださいますように、と祈ることで思考を切り替え、葟杞は寝間着を替えるるべく衣櫃へ向かった。
夕刻、雁翔館の勘定処での仕事がちょうど終わろうという頃、葟杞宛に文が届いた。
「奥方様から!?」
「そう、奥方様から。急ぎみたいよ?」
思わず聞き返すと急ぎと言われ、葟杞は慌てて封を開きながら、葟杞は身体中が熱くなっていくのを感じた。
ここでいう奥方様とは、雁翔館の主――呂璋蓉に他ならない。
生粋の平陽貴族、つまり貿易商人である大貴族・呂氏の一人娘である璋蓉は、男顔負けの抜群の外交感覚と商売勘を持ち、平陽の役府の最高官である夫と婚姻した後も生家呂氏の事業を取り仕切る女傑である。
玄国に王朝が代替わりしてからというもの、都市部では女の当主や家長、商いなどの重要な役に就く女が増えつつあるとはいえ、国全体では男尊女卑、女は男のために子を育て家を守るの務めだという風潮が圧倒的に強い。
だがこの女傑は「わたくしのように能力がある者が上に立つのが当然」と言い切り、性別・年齢を無視して有能な者を登用・重用して呂氏の収益を倍増させることに成功し、国一番の商都で最も尊敬され、最も恐れられる平陽一の大貴族であり大商人なのだ。
楊や葟杞が平陽ではさほど卑下されないのは、この女傑の影響も非常に大きい。特に葟杞は「あの呂家の奥方が直々に役を与えたほどの才媛らしい」と人々の口の端に上ったために、女かつ若輩であるにもかかわらず、下手な揶揄ややっかみを直接受けたことはほとんどない。ときに『平陽の陰の女王』と謳われる璋蓉の力はそれほどに大きい。
瀟洒で貴族然とした美女でありながら気っ風が良く、男になりきるのではなく、あくまで女としての誇りに満ちて堂々と商いを切り盛りする璋蓉は、葟杞にとって尊敬してやまない憧れの存在であり―――生涯の忠誠を誓う、いくら尽くしても返しきれないほどの大恩ある主だった。
その璋蓉からの急ぎだという文には、見覚えのある流麗な女文字で『頼みたいことがある。説明のために人を遣るので、必ず食事をしてから、茶館の裏門に来るように』と記されてあった。
(…見抜かれてるなぁ)
璋蓉から急ぎと言われれば食事を抜いて飛んで行くとバレている。常々「腹が減っては良い仕事はできぬ」と、どんな末端の者に至るまできちんと食事を取らせる璋蓉らしい気遣いに苦笑し、雁翔館の裏手にある佣人用の食堂へ向かった。
(今度は何だろう…)
葟杞はこうして時々璋蓉から直々に呼び出されることがあった。この女傑がどこぞの貴族の道楽のように茶飲み相手を求めて風変わりな佣人を呼ぶ、などということは有り得ない。その理由は、ただ一つ。
密やかに解決したい何かが起こったのだ。
璋蓉とその夫の元には、官民、公私、表裏を問わず、平陽中のありとあらゆる情報と――様々な問題事が集まる。
その解決のために貴族や大店商家の手の者を動かすと厄介な事情があるときには、いつも葟杞が指名された。たとえば三月前には都の某高官が昔愛した女の忘れ形見の息子が貴族の奴婢となっているらしく本当なら救いたい、探してほしいという人捜しを引き受け、またあるときは、とある酒屋の商売敵が流した悪意ある偽の噂を鎮火させるのを手伝った。
庶民から芸人から貴人まで日々数多の人間が出入りする人気勾欄・雁翔館の勘定処の伙計で、情報にも人脈にもに通じている。そして黙っていれば平陽のどこを歩こうと目立たない地味さがありながら、怜悧沈着で問題対処能力が高い。葟杞はその二つ条件を兼ね備えた、表ではないが裏でもない、隙間の諸事を片付けるのにうってつけの人材だった。
穿った見方をすれば、都合良く使われているだけだ。だが葟杞にとって大恩ある主・璋蓉の直々の指名を受けて動くのはこの上ない幸福であり―――こうして呼び出される度に喜びで胸がはち切れそうになる。
「おや珍しい、あんたがこんな時間にいるなんて」
食堂の入り口でばったり出くわしたのは、楊だった。ふくよかな顔を綻ばせ、「昨日は本当助かったよ、ありがとね」と葟杞を拝む。敬愛する楊にそんなことをされ、葟杞は慌てて首を振った。
「いえ全然です、お役に立てたなら良かったです」
「役に立ったどころじゃないさ! 昨日は散々だったけど、あんたのお陰で予定通り仕事を片付けられてこっちは大助かりだよ。まったくあの爺ったら!」
何やら昨日のことで未だにご立腹らしい。「あたしが女だからって舐めてんのが見え見えなのよ。その古くさい頭、いっぺん敖古山のお池で洗って清めておいで!」やら「奥方様に同じ態度取ってみな、あんたなんかこの平陽で生きちゃいけなくなるよ」やらと膳を受け取りながらぶつくさ愚痴をぶちまける楊に、葟杞は苦笑で応じる。
今年三十四になる楊は雁翔館が開業したときから佣人として働く最古株の一人で、有能さは折り紙付なのだがこの感情の激しさだけが玉に瑕だ。しかし沸騰するのも早いが冷めるのも早い。
「そういえば何か嬉しそうだけど、何かあったの?」
席に着きながら、さっきまでぷりぷり怒っていたのをころっと忘れて楊が尋ねる。葟杞は少し息を詰まらせ、伏し目がちに頷いた。
「はい。奥方様が…」
「あら、じゃあまたあんたしばらくいないの?」
相変わらず話が早い。麦と米を混ぜたご飯をごくりと飲み込み、葟杞は俯いた。
「そうなると思います。…すみません、また穴を開けてしまって…」
璋蓉の依頼を受けて動いているとき、本来雁翔館勘定処伙計として葟杞が働くはずだった分を他の伙計が埋めることになる。璋蓉のために動くのが幸福であるが、自分のために楊達の負担が増えてしまうのは、本当に申し訳ないことだった。
「まったまた!」
楊は隣に座った葟杞の肩をばしんと叩いた。痛い。衝撃でうっかり芋の煮物を吹き出しそうになり、葟杞は咄嗟に口を押さえる。「ごめんごめん」と楊が軽く謝りながら、からりと笑った。
「そんなこと気にしなくていいって毎回言ってんじゃない。あたしも他の伙計もみんな、奥方様に救われてんだ。あんたが奥方様直々の頼み事を片付けるってのに、文句つけるやつなんていやしないよ」
いたとしてもあたしが殴り飛ばしてやるから安心しな、と腕まくりする楊に葟杞は目を細め、「……ありがとうございます」と礼を述べた。心苦しさは消えないが、少し気が楽になる。
「じゃ、ちゃっちゃと食べて行ってきな。善は急げだ。あんたが明日からでも動けるようにあたしらの勤めの時間を調整しとくから、そっちは心配無用だからね」
「…はい。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、「任せときな!」と楊がどんと胸を叩く。
いつも明るく葟杞を励ましてくれる楊のように、雁翔館の皆は葟杞に優しい。こんな環境で働けて、しかもきちんとまともな給金もいただけるなんで、故郷から売られてきたときには考えもしなかった。それだけでも璋蓉には感謝してもしきれない。
璋蓉は葟杞だけでなく、たくさんの人々を救ってきた。だがその大勢の中で、時折とはいえ名指しで葟杞に頼み事をしてくれるのは、本当に嬉しい。何だってできると思える。
「では行ってきます」
「行ってらっしゃい! 気張りなよ」
手早く夕餉を食べ終えて楊に見送られ、葟杞は雁翔館から星火大路に出た。斜向かいの巨大な紅の提灯が点る建物の角から細い小路に入り、左手に延々と続く白塗りの塀に沿って進んでいく。何度も来ているが、いつもここは驚くほど人がいない。ごった返す星火大路から入ると、別世界のように静かだ。
所々に立つ用心棒に挨拶しながらようやく小さな門が見えて来た。「周おじさん、こんばんは。お疲れ様です」と声をかけると、壮年の門番は素朴な笑顔を見せた。
「おう葟杞ちゃんかい。久々だな。さっ、入んな」
質素だが頑強な門をくぐって中へ入る。
するとすぐそばの佣人用の四阿で――身なりの良い初老の男が一人、茶を飲んでいた。
(うそ、あの方が来るなんて…!)
葟杞は息を詰めた。無意識に背筋が引き締まる。
「おお、葟杞。久しぶりだね、元気だったかい?」
こちらが声をかける前に男が気さくに声をかけてきた。葟杞は慌てて膝をつき手を組み合わせて、貴人に対する拝礼をした。
「ご無沙汰しております、韓様。私は変わりございません。お気遣い痛み入ります。韓様におかれまして、前にも増してお健やかそうで何よりでございます」
「ははっ、この年になれば日ごと不具合は増えるが、そう見えるなら嬉しいことだな。元気でおらんと奥方様の雷が落ちるゆえ、それも怖いしな」
冗談口を叩いてにこやかに白い顎髭を撫でるこの男は、韓柏懿という。
呂氏に代々仕える歴とした貴族で――かの女傑が最も信頼する直属の部下である。貴族の略式礼装を空気のように自然に着こなしながら、いつも飄々として掴み所のないお人だ。
「また雁翔館とは関わりのないことで突然呼び立てて、済まないね」
「とんでもございません。奥方様よりお声掛けいただけるのは、この上ない栄誉にございますので」
璋蓉が問題処理を依頼するとはいえ、平陽一多忙を極めるといわれる本人が出てくることはまずなく、実際に葟杞を使うのはいつもこの韓だった。しかし璋蓉直属の韓も当然忙しく、ほとんどの場合は韓の部下が葟杞に事態の説明や指示をするため、最終報告のときに葟杞が訪う以外、韓に会うことはない。
つまりこの男が最初から出てくるということで――今回の事の重大さが知れるというものだ。葟杞が韓にこうして相対するのは、実に九ヶ月ぶりだった。
「韓様、今回はどのようなご用件なのでしょうか?」
訝しみながら尋ねる葟杞に、韓は「うーむ」と唸りながら顎髭をまた撫でて口ごもった。いつも歯切れのよいこの初老の貴族にしては珍しい。
「なんというか…正直、儂も奥方様もどうすべきかわからなくてな……。未だかつて遭遇したことのない事態ゆえ、はっきり申して困惑しておる」
葟杞の目が点になった。
(……な、何事?)
世の表も裏も粋も甘いも知り尽くした平陽一の女傑・呂璋蓉と腹心の韓をして、対処の仕方がわからない事態。何だそれは。しかも韓の表情に憤りや軽蔑、また焦りの色もなく、ただただ困惑しているように見える。となると、人生経験の浅い葟杞では何が起こっているのかまったく見当もつかない。一体全体何があったのだ。
そして、そんなところに葟杞が呼び出されるとは、どういうことだ。
「…まあ、説明するより見てもらった方が早いな。こちらへ」
明かりを忘れるな、と自分も卓の上の手燭を掴みながら韓はさっと立ち上がり、きびきびと奥の庭院へと向かう。頭の中が疑問だらけの葟杞も続いて手燭を取り、後を追う。
この庭院は繁華街の中心部にあるととは思えないほど広大で、かつ入り組んだ造りになっており、部外者は道案内がなければ確実に迷う。韓は軽快な迷いのない足取りでいくつもの離れや四阿の脇を過ぎ、石畳や渡り廊下を通っていき、とある池と池亭が見えてきたところで足を止めた。庭院の中でも外れたところにぽつんと在るらしく、辺りに人気も建物もない。
だが――奇妙な空気が漂っていた。
たとえるなら、そう、神聖な廟に入ったときのような。
ここには祠か何かあるのだろうか。……いや、違う。
「見てみろ」
韓が囁き声で促すより早く、葟杞は惹きつけられるように、池亭の中を凝視していた。
宵闇に包まれた庭院は、手燭二つでは足下を照らすのが精一杯だ。しかし山深い村に生まれ育った葟杞は夜目も鼻も勘も利く。神経を澄ませる。
視線を感じてか、池亭の陰の中で――何かが蠢いた。
(…―――!)
大きさは馬か牛ほどか。闇にぼんやり浮かび上がるので、恐らくは白色系統の色。かすかに鉄くさい臭気が漂ってくる。体には斑が散っているように見えるが、あれは血か。動きが妙なところを見ると、怪我をしている可能性が高そうだ。
だがそうすると、なおさら奇妙だ。
高い塀にぐるりと囲まれ、門には常に見張りがいるこの庭院の最奥の場所に手負いの動物が迷い込むことなど、まず不可能だ。
空でも飛ばない限りは。
それに何より、この気配。
五年も遠ざかっていたからその感覚を思い出すのに時間がかかったが――これは。
逸る自分を抑えながら、葟杞は口を開いた。
「韓様。あれは…あの方は…――ただの動物では、ありませんね?」
第一声が質問ではなく確認であったことに、韓は満足げに頷いた。
「そうだ。今朝方見回りがあそこにおられることに気付いたのだが、手負いだからか、えらくこちらを警戒されていてな。誰も傍に行かせていただけんのだ」
今朝方――その単語に、目覚めたときのことが脳裏に蘇った。硬質の何かが、割れるような音。方士一族と、平陽を外からの進入から護る呪術のこと。
(……やっぱりあれは術が破れた音…?)
ということはここにいるのは、平陽に無理矢理進入したものということになる。ならば悪しきものなのだろうか。…だが、それにしては気配があまりにも清冽すぎる。これはどう考えても、昔出逢った神仙と同じ類ものだ。
朝の見回りがすぐに気付いたように、昼間ならあの池亭の中に何かがいればすぐにわかる。これでは、見つかりたがっているとしか思えない。
神仙が先方から姿を顕すときは必ず理由がある。たとえば、幼い葟杞が出会った彼の神仙のように――治療に人の手を借りたいとき。
「あそこにおられるということは、我らに求めるものがあるのだろうが……そもそも近寄らせてもらえん、言葉も頂けんのでは、どうにもできん。儂らも色々と試してはみたのだが、男も娘も子どもも、方士も、奥方様までもが駄目でな。傷の手当てもさせてもらえんまま、朝からずっと、ああして蹲っておられるのを見ているしかできん」
奥方様さえも近づけさせないとは。相当気位が高いのか、はたまた何か特殊な事情があるのか。しかしこれほど血の匂いがするのなら、相当深手のはずだ。まずは一刻も早く手当が欲しいだろうに、と葟杞は訝しげに眉を顰めた。
人の庭院に堂々と居座りながら誰も近づけず喋りもしないとは、何がしたいのかまったくわからない。確かにこれは奥方様も韓でさえも困惑する事態だ、と遅ればせながら葟杞はようやく納得した。
「ただ一つ明らかなのは、あの方がここに」
と、韓は自分の額を指さした。
「長い角を一本、お持ちだということだ。かの有名な西方の幻獣――― 一角獣のようにな」
一角獣!
悲鳴を上げそうになり、葟杞は慌てて口を押さえる。
何を隠そう、古今東西の語り物を愛する葟杞が最も好きな神獣、それがユニコーンだった。全ての毒を消し去る聖なる癒し手である、誇り高く麗雅な神獣。
(そんな…ユニコーンがあそこにいるなんて!)
この期に及んで韓が嘘をつくはずもないが、なんということだ。あの神仙以来の人外のものとの遭遇はどこぞの無名の精霊などではなく、砂漠を越えた遥か西方の神獣であるユニコーンが目の前に現れるなぞ、まさに夢にも思ってもみなかった。どうしようもなく胸の鼓動が激しさを増す。
珍しく高揚する葟杞にわずかに驚きつつ、韓がにっこりと笑って言った。
「一角獣と言えば乙女。それも深い山で育ったおぬしが適任だろうて、と奥方様の仰せだ。とりあえず、まずは怪我の具合を確かめて来てくれるかの」
ほとんど真っ白な頭で、葟杞は「さあ」と背中を押されるままに足を踏み出した。興奮と不安と一抹の恐怖とがない交ぜになって、うまく呼吸ができない。庭木の間から、月と星に照らされた池亭へと、ゆっくりと近づいていく。
(……私で、大丈夫なのかな…?)
脳裏にするりと、暗い疑問が滑り込んだ。
ユニコーンは純潔の乙女しか許さぬ、という。なれば――葟杞は駄目なのではないか?…もし駄目だったら、どうなるのか。崖から落ちても折れないという長く硬い角でぶすりと刺されるのだろうか。恐怖に全身が粟立つ。カチカチと手燭が震える。吹き出す冷や汗で指から滑り落ちそうだ。――だが。
(……進むって、決めたの)
葟杞は歩みを止めはしなかった。自ら人の底辺に転がり落ちた自分を救い上げ、こうして今も重用してくれる璋蓉のためにも、ここで後ろへ退がるわけにもいかない。
心臓が耳元でばくばくと音を立てる中、一つ、また一つと池亭へ続く飛石を進んでいく。
あと、二つで、辿り着く。
唐突に、影が身じろぎした。反射で葟杞が足を止めた――次の瞬間。ひゅっという風切り音と共に。
心臓の真ん前に、槍のようなものが突きつけられた。
(……角)
手燭の光を弾いて輝く、白金色の長い長い角だった。
一歩でも動けば身体が貫かれるというのに、葟杞は妙に静かな心地で、その角を目で辿った。人の腕の長さほどもある、ゆるくねじれた細長い角の先に、純白の鬣と頭が見え。
ユニコーンの双眸が、まっすぐに葟杞を見つめるのが、見えた。
全てを曝くように。心の内を探り出すように。
葟杞も目を逸らすことはしなかった。ただ視線を受け止め、返していく。
澄んだ深い湖の、紺青の瞳。
(…――綺麗)
何も考えられない頭の片隅で、そんなことを思った。
どのくらいの時間がたったのだろう。
ふい、と目も角が葟杞から外れた。白い体躯が池亭の中へ消えてゆく。からん、と手燭が葟杞の手から落ちた。
その音で葟杞は我に返った。どくり、一気に血の流れが戻ってくる。星月夜に浮かび上がる優美な亭、肌を撫でるやわらかい春の夜風、全身を滑り落ちる冷や汗、さやけく木の葉の音色、後ろで待つ韓の溜め息。五感ががいっぺんに戻って来て、ごくりと唾を飲み込むと――今どこにいて、何をしていたのかをやっと思い出した。
そうして改めて池亭を眺め、この中に本当にユニコーンが…!と葟杞が感動しかけたとき、確かにその中から聞こえてきた。
地を這うように低い、声が。
「―――ようやくちったぁマシな奴が来やがったか。遅すぎるわ、この虚けどもめが」
葟杞は第三の誰かが突然近くに現れてしゃべったのだと本気で思った。次いで、幻聴なのではと自分の耳を疑った。
だが、それは全くの現実であった。葟杞にとって、救いがたいことに。
池亭の中でむっくりと何かが―――いや、誰かが起き上がった。
年の頃は二十あたりの人間の青年のように見えた。その額には短くはなったが、先程と同じ、白金色の直のねじれ一角。
ユニコーンを含む神獣達は、時に人形をとるという。なれば、先程の馬のような姿と今の人形の額にあるものから鑑みて、彼はまさしくユニコーンに間違いないと思われた。そして、彼のもの達の人形は、神々しいほどに美しいのだという。
その相貌は確かに、とてつもない美形では、あった。
だが、頬がこけ、ぼろぼろの衣を纏い、全身傷だらけの血だらけで、薄い色のざんばら髪を振り乱して天を衝くほどの憤怒を剥き出しにした彼は―――凄絶というより「見るも無惨な…」とこちらが顔を覆いたくなるような酷い有様であった。
彼は、何が起こったのか理解できずに呆然と立ち尽くす葟杞を、ぎらぎら燃えたぎる双眸でギッと睨みつけた。
「朝から散っ々待たせやがって! お前みたいにまともなのがいるんならさっさと寄越しやがれ! この間抜けどもめ!」
人間の基準でいえばこれは紛う事なき八つ当たりであったが、この神獣様にとっては正当な怒りであった。溜まりに溜った鬱憤をぶちまけるべく、彼はようやくやって来たまともなの――つまり葟杞を、全力で怒鳴りつけた。
「臭え野郎と汚ねぇ雌豚どもばっか寄越しやがって、この国の下衆どもは何を考えてやがる! おかげで半日も無駄にしただろうが! 神獣たるこのバサン様に何たる不敬の数々! このクソ時間のないときにふざけんな! ――おい! 何ぼけっとしてやがる! さっさとまともな飯の準備と傷の手当をしやがれ、この下郎!」
確かにこの言い分は、彼にとっては正当であった。だが人間にとっては――特に葟杞にとってはまったく以て理不尽かつ、ただの侮辱でしかなかった。
(……………雌豚?)
韓は、璋蓉すら近寄らせてもらえなかった、と言っていた。ということはどう考えてもその雌豚どもと一括りにされた中に――葟杞の敬愛してやまない大恩ある主、璋蓉が入っているではないか。璋蓉を、雌豚、…だと?
後に葟杞は、遠い目をしながらこう語る。
『いやぁ……あんなにぷっつーんといったのは、生まれて初めてです。私、基本的に怒らない人間なんですが…。なにせ今まで抱いてきた妄想……失礼、幻想をあっけなく崩壊させられた挙句、私に対しても、私の尊敬する方々に対しても、この上ない侮辱の言葉を吐かれまして。…そりゃあ誰だって、キレますよね?』
腹の中で何かが盛大に切れる音を聞いた葟杞は、すぅと息を吸い込んで―――カッと怒号した。
「―――あんたこそ何様のつもりだこのボケ神獣がっっっ!」
かの高名な神獣殿もさすがに『ボケ』などと言われたことはなかったららしく、数拍の間、文字通り目を点にした。そしてぷるぷると震え、拳を握りしめると、負けじと怒声を叩き返す。
「ボケ神獣だと!? 冗談も大概にしろ貴様!」
「あんたこそふざけんじゃないわよ! こんな下品なユニコーンなんて有り得ないっ!」
「はあ!? お前が勝手に抱いてた妄想なんざ知るか! だいたいユニコーンが清らかなんて嘘っぱちだ! 俺以外はほとんど女好きの好色家で、毎日お気に入りの娘を侍らせてるようなのばっかだ! 俺が一番清らかだしまともだ!」
容赦なく突きつけられた内容に視界が真っ暗になって、葟杞はふらりと後ろへよろけた。
なんだこれは。なんの嫌がらせだ。――ここまで幻想を木っ端微塵に打ち砕くなんてあまりにも酷すぎます神様。
「……有り得ない! こんなのありえないっ! ……私の憧れ返してーッ!」
普段は年不相応に落ち着いた葟杞の、娘子らしい、しかし取り乱した悲痛な叫びを目の当たりにした韓は、目頭を押さえてううむと唸った。
「……不憫な…」
こうして葟杞が最も憧れ、色々と夢見てきたユニコーンとの感動のご対面の日は残念ながら――かの神獣の大変悲惨な真相を知って打ちのめされた日と成り果てたのであった。