#4 限界
佐渡嶋家は基本的に、男三人に子ども一人の人数構成で生活している。
だがたまに男二人の生活に、一瞬だけ戻ることがある。
蓮桜と季楽が月に数回、“家”に帰るのだ。
季楽の誕生日を目前に控えた8月初頭のある日。
「明日、いったん家に帰るよ。」
夕食時に、何の前触れもなく蓮桜が言った。
それは唐突でありながらあまりにも自然で、ちょっと遊びに行ってくるといっているような雰囲気だった。
「はーい。」
今日の夕食のコロッケに箸を伸ばしつつ、雪華は声だけ返事をした。
夏樹に至っては聞いているのかいないのか、夢中で食事をしていてうなずきもせず白米を口いっぱいにほおばってもぐもぐしていた。
翌日の夕方、佐渡嶋家に夏樹が帰宅する前に蓮桜が帰ってきて季楽を連れて“自宅”に帰っていった。
いつ振りだろうか。
帰宅した夏樹を出迎えたのが、季楽でなく雪華だったのは。
「おかえりぃー!」
いつも聞いている、子ども特有の甲高い声に、トントントントンというリズムの良い走る音が玄関のドアを開ても夏樹を出迎えなかった。
「俺で悪かったな。」
玄関先で自分を出迎えたのは、暑さでよろよろになりつつある雪華のみだった。
不機嫌そうな子をしていると思えば何をいきなり言い出すんだと、唐突に毒を吐いた雪華を見る。
「きらじゃないのかって顔に書いとったぞ。」
雪華には大体のことはお見通しというわけなのだ。
「せっかが出迎えで悪いなんか言っとらんよ。」
そう。
ほんの数年前までは、雪華が出迎えに来てくれていたではないか。
「へーへー。」
夏樹の話を聞き流しながら、雪華は台所に戻っていった。
蓮桜とも季楽とも、血のつながりはない。
だが、互いの親族よりもはるかに長い時間を共有している。
他人、なんて今更思っていないのは夏樹も雪華も同じように思っていた。
夕食時、小食を極める雪華は適当に食べられるものを食べてニュースを眺めていた。
夏樹はというと、昨晩と変わらず夕食に夢中である。
-そろそろ話時なんじゃないか。
互いにそうは思っていても、切り出すことができない。
結局夏樹の夕食が終了して、クイズ番組を二人で観ていた。
「きらがおらんとこんな静かなんやな。」
「んー。」
雪華のそれに、夏樹はそっけない返事をする。
「俺な、なつき。」
「んー。」
夏樹は大体話を半分と聞いていない。
何年も一緒に暮らしていると、そんなもんである。
だがそれにいちいち腹を立てていたって、話は前進しないのだ。
雪華はそれをよく心得ている。
「れおの体は限界やと思う。」
脅しなんかじゃない。
本当のことを雪華は言っている。
彼の眼は、うそをついていない。
雪華と目を合われた夏樹にはすぐにわかった。
「考えてみ?朝は6時に仕事に行って、早ければ夕方5時にうちに帰る。夜9時からバイトに行って3時に帰ってきて風呂入って寝て2時間後にはもう起きて仕事。若いとか体力がどうのじゃないやろ。それがもう丸3年になる。いい加減限界がくるさ。」
雪華の言っていることに間違いはない。
蓮桜の妻だった椿が亡くなって以来、蓮桜は季楽を雪華に預けて働き続けている。
『子どもの将来が困らないようにしなきゃ。』
椿が亡くなって、蓮桜はそれを口癖のように言っていた。
働かなければ、何かしていなければ気が済まない。
そんな感じなのだろう。
その心情は、椿が他界した瞬間に立ち会っていた雪華が誰よりわかっている。
まじめな蓮桜は、いまだに椿の死に対して責任を感じているに違いない。
「つばき姉さんが亡くなって、れおはきらのために尽くしてきた。未来を見て、万が一自分に何かあってもきらが不自由しないようにって貯金も作ってる。立派なことや。でも、きらの親は俺らじゃない。俺たちはきらを育ててるけど預かってるにすぎんやろ?」
大事な血のつながった家族は、蓮桜にとっては季楽しかいない。
蓮桜にとって、季楽はすべてと言っても過言ではないのだろう。
「何が言いたい?俺たちは血がつながってないから、きらはもう預からんとでもいう気なんか?」
夏樹にとっても季楽は特別な存在である。
「…あほか。俺がきらを手放すとでも思うんか?れおは何でもできるイケメンスパダリやけど、料理と家事はできんじゃろ。きらをれおに任せたら、二人とも共倒れや。ちったぁ頭つかえ。俺より22年も長く生きとって、その選択肢が浮かぶお前を白状に思うわ。」
白い目で夏樹をみて、雪華の口からは毒と同時にあきれ返ったため息がこぼれた。
「じゃあどうしたいん?このままじゃだめなら、なんか考えがあるんやろ?」
考えがないわけじゃない。
しかし、安易にいっていい内容の提案でもない。
身体的な理由で外で仕事ができず、育児と家事を日中している身である雪華は自らの力で稼げる賃金は夜中から早朝にかけて行っているライター業でのわずかなものでしかない。
一般的な20代男性の収入額の十分の一くらいと言っても、間違いではない程度の金額なのだ。
金銭面で対等ならば、お金が絡むことになるであろう今回の提案だって気負いなくできる。
しかしそうではない。
前年ながら育児も家事も、一円のもうけもないのだ。
一丁前に啖呵を切ったはいいものの、腹の底にあるそれを口に出すのは雪華には勇気が必要なことである。
「言い渋るな。」
雪華と夏樹の付き合いは、決して短いものではない。
しかし幼馴染とかそういった人間に比べれば、それはもう短い方に入る。
だが普通の人間には“読めない”雪華の腹の底を、夏樹は読むのではなく“感じ取る”ことができる。
だませない人間なんていないと思って生きてきた雪華にとって、夏樹は初めて隠し事の通用しないと思った人間なのだ。
何年たってもそこだけは変わらない。
言うしかあるまいと、雪華は重い口を開いた。
「れおときらをこの家に置きたい。れおには夜の仕事を辞めさせて、きらとの時間を取ってもらいたい。」
夏樹は決して高給取りではいない。
夏樹のも過去に病歴があり、今の会社に入って長いわけではないのだ。
正直な話、雪華以外の誰かを養うのは無理がある。
蓮桜と季楽は今もこの家に入り浸り状態ではあるが、一応帰る家を持っているという事実があってそこで一線引いているのは大人の間ではなんとなく心のどこかでわかっていた。
一緒に暮らすということは、そこがなくなる。
蓮桜も決して高給取りではない。
そこで悩んでいるのも、二人は知っていた。
「無茶苦茶なこと言ってんのはわかってる。やから言いたくなかった。俺は稼げんから、家のことしかできんから大口は叩けん。お前にもっと残業しろとか働けとも言えんし言う気もない。ほんとは俺がもっといい仕事をもらって、そこそこ稼げるようになってこの話をするつもりでおった。けどな、れおの眼の下のクマとか疲れてんのに俺に笑いかけてるのを見てんと、もう目の前で誰かが倒れるのは俺が耐えられんかった。」
雪華にはトラウマが多い。
今まで実家の人間が急に倒れて救急車を呼んで看病したことも数回あるし、やはり病院だったとはいえ自分が運んだ蓮桜の妻だった椿が手遅れで目の前で亡くなったことが雪華の脳裏にはしっかりと刻み込まれている。
どんな状況下でもパニック発作を起こさないのは、雪華の強さである。
しかしその強さが、雪華の中に多くの傷を残す生き方をさせてしまっているのも夏樹はよく知っている。
出会った当初は、本心で笑うことも泣くことも怒ることもなかった。
意思を持っているようで持っていないような、何とも言えない人間だった雪華。
彼がこうして感情を露わにして、自らの意見をぶつけてくる。
夏樹は基本的にポーカーフェイスでいることが多いが、雪華を見ているとどうしても表情が緩む。
「お前の言わんとしてることはわかる。ただ俺たちだけじゃこの話は進められんやろ?れおを説得せんと。れおときらがこのままじゃよくないのも、うちに置くことも、俺の頭の中にはあった話さ。言い出せんかっただけ。」
親子ほど年下の雪華。
苦労続きで生き抜いてきた彼は、外見の幼さからは想像がつかないくらいにしっかりしている。
年上のはずの自分が、いつの間にやら雪華に頼りきりになっているなんてことは日常でかなり多い。
思い詰めていたのだろう、夏樹の話を聞くうちに雪華の顔が心なしか幼くなっていく。
「金銭面のことは、まぁ何とかなるさ。あいつだって今うちにそれなりの食費を入れてくれてるし、アパート代とかも払いながら生活してるんやから。れおが今もろもろ払ってる光熱費が浮けば、それをきらの貯金に回せばいい。細かい話はれおを丸めこんでからすればいい。れおの説得はせっかがほとんどすることになると思う。俺は口下手やから。」
本来は息子と思ってもいいはずの年齢の雪華。
夏樹が離婚した元妻との間にも、子どもはいるし、雪華と年齢なんて変わらない。
だが雪華に対しては、親子のような感情は湧かない。
親子ではなく、友人とも言い難い。
とても不思議な関係だなと、今になって改めて夏樹は感じた。
「…うん。」
普段は座布団並みに尻に敷いているが、やはり夏樹にはかなわないと雪華は思う。
「ごめんとか言い出すなよ?俺は外で労働してるから賃金が発生してるけど、お前は家の中で働いてんやから。お金が発生せん上に休みない育児をこなしてんやから、トントンって思ってくれな。」
「トントン?労働時間は俺の方が長いし休みの一日もないわ。」
雪華の憎まれ口が復活してきたタイミグで、夏樹も雪華も顔を合わせて笑った。
-さぁ、忙しくなるな。
蓮桜の説得という大きな山崩しがこれから待っている。
佐渡嶋家でこんな話が進んでいるとは、今の蓮桜は知る由もないことである。