世界は広いけれど、世間は思ったより狭い
某大物アーティストから詞、曲共に提供を受けた彼。他人から与えられた楽曲に最大級のリスペクトを贈りつつ、独自の「最先端」を貫くスタンスにインタビュアーが迫る!
「――という訳で、あの大物アーティストから楽曲提供を受けたわけですが、やはり楽曲に生の楽器は使用されないのですね?」
「まぁね。……だって時代にあってないでしょ。コンピュータで作らない音楽ってのは結局、手書きと印刷の差みたいなもんだしさ。どっちが見やすい、って聞かれた断然後者だよねー。手作りロック、なんて鼻で笑ってしまいそうな文化はオジサン達にやらしときゃいいんだよ」
「……なるほど。なら、楽器の音色に関しても生の楽器はあり得ないと?」
「そうだね」
「では、例えば――ギターなどは生ではいけない理由、何かあるのでしょうか?」
「ギター? あぁ、あの誰よりも速く弾く事を目的としたり、正確さを自慢したりする大前提の事で盛り上がってる奴らの好む楽器だね。さっきの比喩を用いればさ、どれだけ綺麗に字が書けたって活字には適わないよね。それに色んな音が出せるのをウリにしてる感があるけど、それもエフェクター頼りでシンセの二番煎じ。色ペン使わなくっても、色彩豊かな活字が印刷できるって話じゃない?」
「なら、ギターの音はどうしているんですか?」
「勿論――コンピュータでしょ」
「なるほど。では、そうですねぇ……ベースなんかは生ではいけないのですか?」
「ベース、かぁ。あの楽器って基本的には主張の弱い低音域をカバーしているじゃない。目立たないんだから尚の事、人間がわざわざ演奏する意味はないと思うけどね。あと、スラップとかいうテクニックで奇を衒っているように思うんだけど、アレもシンセで再現出来る所まで来てるもんね。さっきの比喩を用いれば手書き風、みたいな感じで印刷する事も出来るって事だね」
「なら、ベースの音はどうしているんですか?」
「勿論――コンピュータでしょ」
「なるほど。ならば、ドラム。これも生は使用しないのですか?」
「ドラムはねぇ……やっぱり正確さだからね。機械に勝るものはないよ。独特のノリを出したりってのも生の利点で挙げられるけど、正確さを削いでまで追求する部分じゃないと思うし。まずは安定感でしょ? さっきの比喩を用いれば味のある字を書いたって、読めなきゃ意味ないんだからまずはきちんとした活字だよね」
「なら、ドラムの音はどうしてるんですか?」
「勿論――コンピュータでしょ」
「――でも、今回の楽曲……ボーカルは生ですよね?」
「ははは。面白い冗談を言うねぇ……そりゃそうでしょ。味っていうのかなぁ……個性やら、自分の特色を乗せて歌うことが出来るボーカル。それを自分でやらなくっちゃ意味ないでしょ」
「――でも、正確さを削いでまで生でやる事ですかね?」
「は、はは。そう来たか。でも、実はグロウルやガテラルみたいなデスヴォイスも使えたり、シャウトを用いた歌唱法も体得してるしね。技も多種多様なんだよ?」
「――でも、奇を衒っているその技術もエフェクトで再現できますよ」
「はは、は。……他の歌手よりハイトーンが出たり、滑舌が良かったり。他にも声色使い分けたりとかもあるし。それに、安定感にも定評あるから……音程外さないってさ」
「――でも、それって大前提の事でしょう? 盛り上がるような事ではないですよ」
「あ、あのね……君、さっきから僕の言う事にいちいち屁理屈を返してくるけどさ、機械みたいに正確で、エフェクト掛けられる電子楽器みたいな存在でかつ、大前提がしっかり出来て揺るぎない化け物みたいなボーカリストがいると思ってるの? 一体、君はボーカルに何を据えろって言ってるのさ?」
「勿論――コンピュータでしょ」
インタビュアーは某有名ロック雑誌の編集者。創刊から四十周年を迎え、数々のロックバンドの情報を届けてきた歴史あるファンたちの愛読誌。社の趣向に合わないミュージシャンと徹底的に批判を交わすスタンスに定評がある。
○
あの、えーっと……誘拐された。
下校途中、一人で歩いていた私。人通りもなく、花も恥じらう高校生な私としては不安を抱くべき、犯罪ウェルカムな場所だった。突如、背後から走ってきたワゴン車は私を追い越し、数メートル先で停車する。
……何となく「あー、これ。目出し帽被った男が出てきて、誘拐していくベタなシチュエーションっぽいなぁ」とか思っていたら、本当に目出し帽に作業服の男が車から降りてきて、私の方へと駆け寄って来る。
自分の身が危ない――そんな感覚より、「何、こいつ。ここまでセオリーに忠実にならなくていいだろう。あったまおかしいんじゃねー」とか思うと噴き出しそうになって、そんな油断が功を奏しまくって誘拐された。頭おかしいのは私だった。
後悔する権利はきっと、私には無い。
そういう訳で、犯人の自宅と思われるアパート内に居る私。グループによる犯行だったが、他のメンバーは外出しており主犯の男一人だけが電気も点けられていない室内に残っていた。淡い色のカーテンで遮られた窓から陽の光が透けていたため、時間帯的にはまだ夜ではないと思われ、同時にそれが唯一の室内にもたらされる光源だった。
主犯の男は目出し帽に作業服のスタイルを維持して、露出を極力避けた顔からも読み取れるくらいの苦悶の表情と共に携帯電話を操作している。俗に言うガラケーと呼ばれる折り畳み式のものを用いている辺り、中年男性だなとか勝手に決めつけていた。あながち間違いではないと思っている。
……それにしても何故、目出し帽? もう、人目は無いではないか。
……と思ったが、その理由は、少し思考すれば分かる事だった。
この犯人はきっと身代金目的の犯行に及んだのであって、か弱く比較的可愛い容姿をしている私をどうにかしようとか、逆に殺す事を目的とした快楽殺人犯ではないという表れだろう。
無事に私を家に帰す気がある――だから、人目がなかろうと、私自身に顔を覚えられるわけにはいかないのだ。
周囲を見渡せば納得。アパートの室内にはコンビニの袋が散乱しており、その中にはカップ麺の陽気が薄っすらと目視できる。
あぁ、冴えない独身男性の儚い主張がこんな所に……。
そう思いながらも綺麗とは微塵も言えない部屋の中、携帯を操作していた主犯の男が急にこちらを向いて口元を切り取られた目出し帽から、嫌みったらしい笑みを浮かべる。その手に握られた携帯の画面をこちらに向け、その表示で電話を掛ける所であるのが分かった。そして、その呼び出し音が私の鼓膜をも揺らす大きな音で響いた瞬間、彼の苦悶の表情の由縁を把握した。
……ハンズフリーの仕方が分からなかったんだな、おっさん。
数回の呼び出しで応対した女性――それは母の声だった。
なるほど。私にハンズフリーを用いて母の悲痛な声を聞かせる精神攻撃だな。そして、それを聞いて同様に寂しさで泣き叫ぶ私の声を届けようという寸法か。そのためにこちらに携帯を向け、気味の悪い笑みを浮かべている。なるほど、精神的なダメージを母と娘両方に与えるとはやるじゃないか。
でも、私が泣き叫ばせるなら、この口を塞いでいるガムテープを剥がしてほしいんだが……気付いていないのだろうか?
どこまで残念なんだ、お前は。
「身代金、一千万円……用意出来たか?」
男は声を意図的に変え……というか、変声機を使った声まねを、宴会の添え物にもならない低クオリティで披露した。
……だから、そこまでセオリー通りにせんでいい。
というか犯人は皆、自分でその声出してるって思ってたのか、あんたは。
声のイメージにピンと来ない人には、この男の真似ている声は「ブローカーの声」と表現すると伝わりやすいだろうか。ぐ●さんが物まねしてたし。
「い、いえ……ちょっと足りなくてですね。それで」
母はクスリとも笑わずに、物怖じしたように犯人に応対した。
緊迫した場面ではあるが犯人の声、明らかにおかしくないか……母さん?
「それで?」
「少し足りなくて……ね、値引きをして頂けないかな、と……」
――ね、値引きぃ?
私に一千万円の価値があるのも驚き……いや、身代金相場のレート的にこの身が高いのや安いのかは分からないが――値引くかね? 自分の娘を!
「出来るか! 調子に乗るな!」
男の声で「調子に乗るな」は説得力がない気もしたが、しかし母の言動を鑑みれば妙に彼の発言の方を支持してしまう心が私にはあった。
「す、すみません! ……でも預金残高が九六二万円でして。……あれ? これ語呂合わせで苦労人になってますね! あはは」
「……ああ、本当だ。上手い事を言う! はははは」
男は声質を維持したまま愉快そうに笑う。
こいつ、相当練習してる。この日のために?
――いや、そこじゃない。落ち着け……いや、この状況であり得ないくらいに落ち着いている私だが、まず着目すべきは男の声の練度じゃない。
娘が誘拐されていて、その犯人との会話で語呂合わせに気付いたとして……それを、口に出すかね。そして、その程度の事で笑うかね?
……お前ら、笑いの沸点低すぎだろう。
あーあ、何でこんな母親から生まれたんだろー。
「……とはいえ、腹を痛めて生んだ実の娘の身代金を無様にも値切ろうとするな!」
咳払いして閑話休題とした男は、強い口調で言った。
お、正論ですよ。これは。
「でも、バツイチの父親が連れてきた赤ん坊でしたから……」
――こんな母親から生まれてすらなかった!
知りたくなかったよ!
安堵すべき?
悲観すべき?
いやいや、実の子じゃなかったら値切っていいのか?
そうなのか?
「そうか……それなら、九六二万で苦労人、ぷふふ。……おっと失礼。それで妥協してやるよ」
男は渋々、母の要求を了承する。
いやいや。それなら、って何だ。
あと、尾を引くくらいにその語呂合わせはお前の中でツボだったのか。
「本当ですか! ありがとうございます。……それで提案なんですけど、そこまで値切れるならば、もう少し減額出来るんじゃないかと……?」
目出し帽越しでも男の眉間に皺が寄るのが漠然と分かる。
「あ? てめぇ、娘の命がどうなってもいいのか!」
怒鳴りつけるように言った男は、それでも声質を崩さない。
あとは完成度が追いつけば……!
一方、母親は電話越しですすり泣く声を漏らし始める。
「だって、だって……私もあの人が子持ちだなんて知らなくて。実の娘のためなら惜しまず出せるお金も、腹を痛めてなければ渋りますよ!」
母の熱弁は、向けられるベクトルを大きく間違えていたように思う。
結局、母は犯人に何を要求しているのだろうか……?
そう思っていた最中――不意に、犯人と目が合う私。
男は私から目視できるパーツである目と口を驚愕に突き動かされたようにぱちっと開き、その表情に私は懐疑的な心情になる。
……何を驚く事が?
その思考はあっという間に氷解する。
――この犯人、今更ながら母の無神経な言葉が私に聞かれている事。つまり、ハンズフリーになっているこの状況が、如何に私を複雑な心境にしたかに気付いたのだ。
男は複雑そうな、同情に満ちた視線をこちらに送る。
……あれ? 精神攻撃は奇しくも成功してるのだから、あんたは喜べよ!
しかし、犯人はその表情を崩さない。
「……まぁ、あんたの言ってる事も分かる。だけどな……」
「――なら、なら! 値切らなくっていいですから、主人の給料日の十五日まで待ってください。今、預金を全額使うのは困るんです!」
「十五日って……その間、娘はどうするんだ!」
「……預かってて下さい」
母は渋々言ったが、私にはその「預かってて下さい」発言に踏み切るまでの間が意図的であるような気がしてならなかった。
精神攻撃、効果覿面だよコノヤロー。
「預かってる間、飯とか食わさなきゃなんねーだろ。何で身代金要求してる側が金使う事になるんだよ!」
犯罪を犯している事に目を瞑れば、この人の言ってる事は正しい!
「で、でも……十五日は待ってください。そうすれば、領収書等を確認した上で身代金に食事代を含めてお支払いしますから!」
「会社の経費みたいに言うなぁ!」
男が怒鳴ると、母は「ひぃぃ」と悲痛な叫び声を漏らす。
いや、恐怖を招くような声ではないのだけど……。
「……んで、一応聞くけどどうして待たなきゃならないんだ?」
面倒くさそうに男は問う。
地味に優しい。
「貯金を切り崩して超音波美顔器を買おうと思ってまして……」
「そんな理由で娘をわけのわからん男に半月も預ける親がどこにいんだよ!」
「す、すいません。でも、今回限りの特別ご奉仕で……お高いんでしょうっておもったんですけど、案外お高くなくて。それで、それで――今買うと、もう一つ同じ商品がついてくるんですっ!」
まるで、一世一代の告白でもしたかのように言い切った母はきっと、目をぎゅっと閉じて受話器に向かって叫んでいる……そんな光景が容易に想像出来た。
そうか……私、美顔器以下かぁ。
そんな真っ白な灰にでもなってしまったような私の殺伐とした心は他所に、男はゆっくりと深い嘆息をする。
「あんたには負けたよ……だったら、利子を一割。一千飛んで五十八万二千円、払ってもらうぞ?」
男は熱意に折られた改心した物語の敵役か何かのように、微笑みと共にゆっくりと言った。
ってか、あんた計算早いな!
「――利子? 困ったわねぇ。増額するのなら、いっそ返してもらわないのも手かしら。そうすれば預金は減らない。というか、あの子を売って九六二万円を手に入れたって考えれられるわね……」
母は本気で思案しているのか、深刻そうなトーンでそう語った。
いや母さん、その勘定は間違っています。
……私があなたから失われるだけです。
一方、呆気に取られたような表情を浮かべる男は言う。
「……お前、一応言っとくけどこの会話――娘に丸聞こえだからな?」
その一言で、電話の向こう側は瞬間――静寂に支配された。母は言葉を失い、その寡黙さはこちらにも伝わったのか男も口を噤んだ。そして、行うまでもなく口を塞がれている私を含めて、暗黙のルールのように静寂に三人とも準じていた。
「…………」
「…………」
「…………」
ちょっとした物音さえも鳴らす事が躊躇われるような緊迫した空気。
うるさいくらいの、静寂。
――。
しかし――、不意に静寂は破られる。
「――私の大事な娘を返してっ!」
遅せぇよ!
電話を切った後、男は深い嘆息を漏らして私に問う。
「お前……帰るか?」
男の声がまだ元に戻っていない事が気になりつつも、私は塞がれた口で使えない言葉の代わりにすべきはずの首肯を選べなかった。
帰るくらいならここで暫く、暮らす方がマシかも知れない。
こんなに面白い男の犯罪者の汚名を拭えるのは、被害者の私だけだから――。
○
「斜に見る感じってあるよねー」
つい最近、二年生になったばかりの女子中学生、西野は共に登校する二人の女子生徒に対して唐突に――問題を提起するかのようにそう言った。
西野と一年の頃から仲の良かった加柴は、つい最近交流を持ち始めた和田を挟んで横一列になって学校へと向かう。
歩道とはいえ、自転車で通行する際に女子中学生三人の横並びは十分に妨げとなっているのだが――彼女らにそんなモラルを守る感覚は育まれていなかった。
「斜に見る、ってどんな感じー?」
懐疑的な表情と共に、加柴が首を傾げて問う。
それに対して、よい「例え」を予め用意していなかった不手際を露呈させるかのように問題を提起した西野も「うーん」と唸り始める。
「音楽で言えば、『J-POP? そんなの聞くんだー。あたし、洋楽やクラシックしか聞かないから分かんなーい』――みたいな、外国産ってだけでブランド扱いなのを土台にして斜に見てくる感じ」
「あぁ、そういう事かぁー」
晴れたような笑顔と共に西野の発言に対する疑問を氷解させた加柴。
そして、二人の非生産的な会話を淡々と見つめるだけの和田は不機嫌そうな表情を湛えている。
「それはつまり『君って漫画読むんだー。ごめんね。私、小説しか読まないから』――みたいな事でしょ? どこか文字だけの本が優位に立っているように語ってくる感じでしょ?」
「そうそう。――っていうか、その小説内においても『ラノベ? ごめん。あたし、純文学しか嗜まないから。読む本、軽くないからー』……みたいな続きがあるよね」
「あぁ! あるねー! そして、純文学の中でも『夏目漱石? ベタなのを読んでるんだねー』みたいな揶揄があって、上には上が!」
「常に斜に見る存在があって、上には上があるってマトリョーシカみたいだね」
共感した西野と加柴は甲高い声で会話のキャッチボールを繰り返す度に、盛り上がりのボルテージを上げていく。
一方、明るい声が両方から飛んでくる状況に対して、相変わらず不機嫌そうな表情を崩さない和田。打ち解けきっていない彼女らとの投稿において、二人の間を歩かされる事が少々不服そうである。
「飲み物においてもさー『ジュース? ごめんね、珈琲か紅茶しか舌に合わなくてね』……とか、白いティーカップが正義みたいな発想あるでしょ!」
「あぁ、あるねー。きっと、そういう人は『甘いの苦手なんだー』とか言って子供じゃないアピールを跳弾みたいに打ち込んでくるよね!」
「そうそう、見え見えな意図してない感が腹立つー」
「あとねー、飲み物で言えばお酒でも『ビール? ごめんね、今日はカクテルの気分なんだ。マスター、ブラックルシアンを頼む』みたいな!」
「あー、ありそうありそう。アルコール度数高いのに無理しちゃって……っていうか、ブラックルシアンって名前で選んでるよね。絶対、俄かだー」
「この手の斜に見るアピールってきっと、俄かの専売特許なんだよ。それが普通になってる人はわざわざ誇示したりしないってー」
弾む会話が楽しくて仕方がないのか、語り終えてもくすくすと笑っている西野と加柴。そんな両者を交互に見つめ、首を傾げる和田。不機嫌そうな表情はそのままに、理解の及ばぬ彼女らの会話に嘆息してしまう。
そんな和田の様子に今度は西野と加柴が首を傾げる。
「どーしたの? 全然、喋ってないじゃん」
「そーだよ。和田さんにもあるでしょ? あ、これは斜に見ているな、って瞬間」
西田と加柴が彼女を気遣って、会話の輪に加えようとする。
しかし――和田は咎めるような視線を二人に向け、そして言う。
「いや、そんな他愛もない会話で私は盛り上がれない。生産性のない会話を惰性のように続けるのがこの年頃の女子の嗜みだというのなら、私はそういうのとはきっと縁遠いんだ。大体、群れるのも好きじゃないし。あなた達がどうしても、っていうから今日も一緒に登校してきたけど……さっきまでの会話の何が面白いの? そうやって会話を無理にでも維持して仲の良さを確認して、今日も無事に仲睦まじかったねって確証を家に持ち帰らないと寝られないとか……そういう事? 馬鹿じゃないの? そんな軟弱な人間の発想にはついていけない。そして理解も出来ないから、分からない。だから共感出来ないのよ。話題を振られたって答えられない。大体、さっきから盛り上がってるその感覚っていうのかしら――斜に見る、って何?」
「――いや、それ」
西田と加柴は呆気に取られながら、和田を指さして言った。
○
夕陽が地平線に絞りつくされると地上は一気に暗闇に飲まれる。人類の文明が街灯やネオンで対抗した所で、街の中には蔓延る暗闇がわんさかと昼間、明るみに出ていたものを隠す。都内の公園は雰囲気づくりのためかあまり光源を設けられておらず、薄暗い敷地内を横切れば彼女――中学一年生の少女の胸中は不安を注ぎ込まれて、溢れんばかりである。
冬の凍てついた大気を白く染め、小走りで敷地内を帰路に向かって歩む少女。三学期も終了間近であり、友人と春休みの予定などで談笑していたのだが冬の太陽は思いの外その権力をあっさりと夜空に奪取される。
そんな訳で、置かれた環境下が生み出した不安に煽れらるように門限のない彼女も、焦り気味で自宅へと向かう。
一歩、一歩と歩を進めて自宅との距離を縮める少女。歩み連ねて、公園の出口が見えてくる。その境界の向こう側は車道を挟んで照明の眩しい商店街に続いているため、今の彼女には目指すべき安全圏のように映っていた。
だが――少女と公園の出口、その間にぽつんと設けられたベンチ。その上に座っている人物は、彼女のびくついた心理が望む「平穏」をぶち壊す様相だった。
目出し帽に、作業着姿でベンチの背もたれに腰を預けている男性。
見るからに怪しく――そして、怯えて心を有していた彼女にとって、その邂逅は心臓を喉から吐き出してしまいそうほどの驚愕。
ただ、単純に――怖い。
体をびくつかせて、急停止。
少女は身を微動させながら、その場に佇んで男性を注視する。
しかし――、この立ち止まるという行動が良くなかった。勢いで過ぎ去ってしまう以上に、恐怖で体が硬直してしまったのだから彼女の行動は仕方なかったとはいえ――男性から見て、自分の姿を目視して立ち止まった存在を、注視しないはずがない。
あからさまに自分に対しての反動で、立ち尽くしている少女に気付いた男性はゆっくりと彼女の方を向く。その表情は目出し帽で読み取れないものの――というより、把握できないからこそ、少女にとっての畏怖は加速する。
怖い――怖い。
そう、胸中で浮かべた言葉に彼女を勇気づける要素も何もない。
ただ、自分の戦慄を把握しているに過ぎない。
ど、どうしよう――と、困惑する少女に対して、徐に男性は声を掛けてくる。
「お嬢ちゃん、アイスクリーム買ってあげるから……おじさんと喋らない?」
その言葉に少女は、さらに恐怖を――抱く事もなく、その心情は寧ろ懐疑的かつ拍子抜けな肩透かしを食らったような感覚に変わる。
とはいえ、彼女の中での認識で揺るがない部分はある。
あぁ、この人は危険人物だ、と――。
その理由はまず第一に、今時の小学生でも釣れないような誘拐文句を述べて少女を誘った事。少女は誘い文句選びのセンスの悪さの方に、寧ろ恐怖した。
こいつ、どこまで本気なんだ、と。
そして、もう一つの理由――これが、決定的だった。
――この男、自分で変声機使った声を真似してる。
怪しげな眼前の男性が発した声――それは、少女の抱いていた恐怖が「肩透かしだった」と言わせるには十分なほど、間抜けなものだった。
分かりにくい人には「ブローカーの声」と言えば伝わりやすいだろうか。
ぐっ●んが真似してたなぁ……と、少女は得られた余裕を用いて想起した。
――とはいえ。
「いえ、アイスクリームなんか食べませんし、おじさんとも喋りません」
少女はきっぱりと言った。
もう、恐怖などなかった。
しかし――、
「……なら、アイスクリーム食べなくていいから、おじさんと喋らない?」
「何で妥協した感じになってるんですか。アイスは買わなくていいし、私と喋るし、一番の理想形じゃないですか」
そもそも、冬にアイスクリームを用いては、釣れる子供も釣れないのでは?
そう、引き攣った表情を浮かべて少女は思う。
「……どうしても喋らない?」
安定した低クオリティの声質を用いて、問いかける男性。
「だって……正直に言いますけど、見るからに怪しいですもん」
「何もしないよ?」
「何かする人はそう言うんですよ!」
「何かしてやる!」
「何もしない人の言う事じゃない!」
立ち上がって男性は襲い掛かるかのようなポーズを取ったが、少女にとってそれさえも畏怖の対象ではなくなっていた。
寧ろ……ここまでベタな怪しい格好をしている人間が、少女にはギャグのように思えてきていたのだった。
そう思えてきたならば――と、少女は思う。
嘆息し、呆れたような表情で目出し帽の男を見つめる少女。
「分かりましたよ。恐怖心もなくなってしまえば急いで帰る理由もありません。見るからに怪しいですし、見るだけでなく中身も怪しいですけど――喋るだけなら」
「そうこなくてはね」
少女の許諾を得られた事によるものか、男性は明るい声で言った。
男性と少女は並んでベンチに腰掛ける。少女はあまり密着したくなかったので、ベンチの端の方へと少し移動したが、男性が詰めてきたので無意味となった。流石に立ち尽くして話を聞くくらいなら、現状を我慢するという判断が少女の中にあり、今の形に落ち着く。
「……で、何を喋るんですか?」
「おじさん、無職になっちゃったんだ」
「重っ!」
事もなさげに言った男性の言葉は、中学生の日々の会話にもたらされるような重量ではなかったため、素直に少女はその異物感を言葉にした。
今から自分は中年男性……とは言っても推測だが。そんなおじさんの失職について、言葉を交わすのだろうか?
そんな先の思いやられる不安が少女の胸中に圧し掛かる。
一方で男性は、語った「無職」で今一度自分の立場を認識したのか、嘆息する。吐息が白く大気を汚して、すぐに霧散した。
「……ど、どうして無職に?」
少女は渋々、会話の舵を取る気遣いを口にした。
「おじさんね、音楽雑誌の編集者だったんだ。それはもう、歴史と名のある雑誌でさ……特徴として、社の気に入らないアーティストに喧嘩を売っていくんだよ」
「批判って事ですか?」
男性は「そう」と言い、首肯して続ける。
「――で、ある日おじさんはあるアーティストにいつもと同じように喧嘩というか……そう、皮肉を言ったんだよ。『お前のバンドにおける存在意義って何だ!』……みたいなね」
「どういう流れで、そんな言葉を投げかける事になるんですか……」
「まぁ、紆余曲折あったんだよ。それで、今日もいい仕事をしたって思ってんだけど……ファンの圧力っていうの? 恐ろしくてさ」
「ネットで炎上したとか、そういう感じですか?」
「そう。信者、とか揶揄されるようなファンを作り出しているアーティストでさ。それを叩いちゃったから、社の方にとんでもない量のクレームがきちゃてね。結局――けじめをつけるために、社は記事に関係した僕を含む人間を皆、解雇って事さ」
「それで無職に……」
少女は男性の話を聞き、唇に人差し指を添えて「うーん」と考え始める。
「――失職理由は分かりましたけど、それでどうして目出し帽やその声になるんですか?」
「ちょっとは可哀想に、とか同情はないのかい……」
男性は呟くようにそう言ったが、少女は意に介さなかった。
「中年男性は皆、失職すると目出し帽を被り、そんな意味の分からない声を出すんですか?」
「……いや、そうじゃないよ。これは素性がばれたら困るから。そして、声も同様にね。君みたいな子にはしないけど、普段は声も荒げて口調も野蛮に振舞ってるんだよ」
男性の言葉に少女は何故、素性がばれてはいけないのかと聞こうとした。
しかし――考えれば分かる事だった。
ネット上で炎上すればすぐに彼の写真なども流出して、あらゆる人の目に晒される事となる。そうなった時、自分の印象を変える事でその被害から免れようとする意図なのだろう。
……だからといって、目出し帽という選択はおかしい気もするが。
そう、少女は思いながらも納得した。
「だからさ、これからどうしようかと思って。家の住所も突き止められて、嫌がらせされるから疫病神、出ていけ――って妻に言われて、仕方なく狭いアパートで暮らす羽目にもなるし。こんな歳から新しい仕事なんて無理だから、お金は減る一方。妻に愛想尽かされて離婚とか言われるかも知れないし、娘もこんな父親だってばれたらいじめられるかも知れない。……あぁ、丁度君くらいの歳かな。無口な子なんだけどね。だから、やむを得ないと思って取った『最後の手段』もとんでもない展開になったし……本当、どうすればいいんだろう」
呟くように語る男性。
無論、あの性質はキープされている。
そんな様子に、呆れた少女は嘆息しつつ語る。
「悲観する必要はないですよ。中学一年生の私が言うのも変ですが人生、生きているだけで良い事がありますし。悪い事も捉え方によっては、逆転します。ネットで炎上したのだって、好意的に捉えれば宣伝されたって事ですから――まだ、音楽雑誌の編集者の道は閉ざされてないんじゃないですか?」
少女の言葉に男性は目を見開いて、感銘を受けたとばかりに目元を潤ませる。
「そ、そうかな?」
「そうですよ」
首肯しつつ少女が肯定すると、男性は口元を綻ばせた。
「ありがとう。元気が出た気がするよ。……そうだ、折角だし名前を教えてよ。といってもまずは自分が名乗るべきだね。おじさんは和田っていうんだ」
名案とばかりに明るい声で言った男性。
そんな提案に、少女は表情を引き攣らせる。
「いや、名乗るわけないじゃないですか」
「……何だよ。おじさんの名乗り損かよ」
不貞腐れてような声で言う男性。
そんな態度に嘆息し、肩を竦める少女。
「名乗り損って……分かりましたよ、苗字だけ。私は加柴です」
「――加柴?」
男性は明かされた少女の名を反芻するように口にして、表情をしかめた。
そんな彼の態度に、少女も懐疑的に首を傾げる。
「多分だけど、君――お姉ちゃんいるでしょ、高校生の。というか、妹の存在を聞いていたからね……間違いないと思うんだけど」
「ええ、確かにぼーっとしてて変わり者の姉が居ますが……」
歯切れ悪く少女は答えた。
……どうしてこの男性がそれを?
そう考えると忘れかけていた恐怖が沸々と心の中で再燃するような、嫌な感覚を感じた。
「それって――加柴真奈さん?」
「――え? どうしてそれを?」
目を見開き、驚愕を訴えながら問い返す少女。
首元もで水に使っているようなぎりぎりの恐怖が胸中を制圧する。それは、あと一手で瓦解する絶妙なバランスで成立している理性だった。
どうして……どうしてこの人は?
そう思うのは当然である――彼の語った「最後の手段」が行使されたのが今日で、学校帰りに遊んでいた彼女にとってそれはまだ知らない事実。
姉が今、どうしているのか――など。
「ごめん。今日――君のお姉ちゃんを誘拐したんだ」
「ぎゃあああああああああああああああああああ!」
少女――加柴菜奈の精神は瞬時に本能に制圧された。
逃げろ――。
その行動理念一つで、途轍もないスピードを有した彼女は公園の敷居を踏み越えて商店街の雑踏の中へと――その悲鳴を撒き散らしながら去っていった。