私は人だった
雪をテーマにした話を考えていました。あるシンガーソングライターの体験談を盛り込んでいます。
死ぬなら凍死がいいと思った。車にひかれるのは、私をひいた人に迷惑がかかる。首吊りも同じだ。私の死体を処理するお母さんに、迷惑がかかる。雪に埋もれて溶けて死ぬなら、迷惑はかからない。今日こそ死ななければ。怒られる。
真っ白な路地裏。学校帰り、膝の高さほどに降り積もった雪の上に倒れ込む。乾涸びたような私の肌を、雪は穏やかに白く染めた。しばらくしたらすると近くから、男の子の声が聞こえた。同じ小学校の子だろう。私なんかに気がつくはずもなく、その声は遠ざかった。それでいい。このまま陽が沈むころに、門限までに死ねたらいい。その時だった。
トサトサと、小走りの足音が、また近付いてきた。
「なにしてるの?」
男の子の声だった。
「別に、なんでもいいでしょ」
無愛想にそう返す。
「寒くないの?」
無邪気に男の子はそう聞き返す。
「別に」
そう吐き捨てると、足音は遠ざかった。だが、しばらくするとまた近付いてきた。今度はなにかが転がる音も聞こえる。
「見て!」
また彼の声。しぶしぶ雪の中から顔を上げる。雪は頬に張り付いていて、皮膚がはがれおちるんじゃないかと思った。
「なにこれ」
目を開くと、横向きの雪だるまが見えた。私が横になっているのだから当然だけれど。私の膝ほどもなさそうなくらいの大きさだ。
「どう?」
「どうって」
小さな枯れ葉で目と口を表していたその姿は、なんだか滑稽で、じっと見ていると頬がゆるんだ。
「あ! 笑った!」
男の子は言った。そうか。私は笑えたんだ。
それからしばらく学校のことや、ジャーナリストのお父さんのこと、赤いランドセルが好きだということを一方的にしゃべると、男の子は帰って行った。いつの間にかあたりは暗く、電灯照らされた雪だるまは、白く光っていた。このまま帰らないこともできる。だけど、それでは門限を過ぎてしまう。門限を守らなければ、またお母さんに怒られる。
家に帰ると、お母さんはまた私をぶった。なぜ死ななかったと言われた。私はごめんなさいとしか言えなかった。泣くことは許されなかった。
私は人ではないから。屑で、お母さんの排泄物だから。
最近お隣さんが引っ越してきたから、大声は出さなくなったのはいいけれど、罵倒の数は変わらなかった。男の子が作った雪だるまを思い浮かべると、いくらか気持ちは落ち着いた。
次の日も、学校が終わると、路地裏に寝転がる。男の子はまた来た。
「どうしてきてくれるの?」
そうきいてみた。
「雪だるま、見てほしいから」
雪玉を転がしながら彼は言う。なら友達にでも見せればいいのに。今日は赤いランドセルと背負わせてあげた。大満足したようで、しばらくはしゃぎながら、中身をじろじろ見たり、手を突っ込んだり、くるくると回っては笑っていた。
その日、お母さんにはテレビのリモコンを投げつけられた。
次の日も男の子は来た。今度は雪うさぎを作ってくれた。転がっていた石ころと枯れ葉で、耳と目をかたどった。
「かわいい」
心に浮かんだ言葉を、そのまま口から洩れた。だめだと思い、あわてて口をつぐむ。
「ありがとう! 次はもっと大きいの作るんだ!」
「え、聞こえたの?」
「僕ね、耳いいんだ。すごく遠くてもだよ!」
人より優れた能力があるのは、うらやましかった。私にはなにもないから。
明日も来る? と聞こうと思ったが、照れくさくて言葉にはしなかった。私の頬には雪が張り付いているはずなのに、胸に陽だまりのようなぬくもりが宿った気がした。
その日、お母さんに、私が作った料理を投げつけられた。作らなくても、作っても文句を言うから、仕方がないと思った。今日も死ねなかった。ごめんなさい。そう言った。
次の日、男の子は来なかった。
雪の強さは増し、今まで以上に体温を奪っていく。心の中に浮かんでいたのは、あの男の子だった。真っ赤になった手を握り、積った雪をつかみ取って、地面に投げつけようとした。けれども力が入らず、そのまま雪は手からこぼれ、砕けた。
次の日も、その次の日も、男の子は来なかった。雪の量はさらに増し、体がすべて埋まってしまいそうになった。男の子はどうしているのだろう。私のことなんか忘れて、友達とゲームでもしているのか。それでいいはずなのに、胸は張り裂けそうなくらい痛い。いや、もしかしたら、彼は夢か幻だったのかもしれない。寒さと痛みで頭がどうかしてしまったのだ。これでいいんだ。一番納得できる。もともと、私は一人なんだから。気は段々遠くなっていく。これでやっと死ねるんだ。
私は目を閉じ、意識を闇にゆだねた。
どれくらい時間が経ったのだろう。温かい。
闇の底から、意識が覚醒していく。目が覚める。真っ白な天井に、紙のような感触が背中越しにあった。
「起きた?」
男の子の声が聞こえた。体を起こす。男の子は段ボールの上に胡坐をかいた。
「どう? 僕が作ったんだよ、このかまくら」
私はかまくらの中にいた。どうやら雪の中から運んできたらしい。
「もう来ないのかと思った」
「ごめんね、これ作ってたんだ。あったかいでしょ? 雪なのに、不思議だよね」
息を吸う。氷のような空気が肺を満たした。
「ほんと、不思議ね。私ね、あんたのこと、夢かなんかだったのかな、とか。そんなこと考えてた」
「そんなことないよ。僕は僕だよ」
「私を運ぶの、重くなかった?」
「ううん、大丈夫。ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんはね、はいせつぶつじゃないよ」
最近引越してきたお隣さん。そういえば年下の男の子がいた気がする。そういえばこの子は、耳がいいと言っていた。そうか。だから、私のことを知っていて、お母さんの声が聞こえたのか。
私は「そんなことないよ」と言うつもりだった。だけど、声は出なかった。代わりに、目からぽろぽろと、熱い玉のような涙がこぼれ出した。いったいどこにこんな熱を残していたのか。雪の中に顔をうずめる。どうにか涙を止めなければ、泣いたら、ダメなのに。霜焼けのひどい右手を動かし、男の子のジャンパーの裾をつかむ。しがみつくように、なけなしの力を入れて。嗚咽は漏れ、涙は止まらない。顔をうずめている雪は、涙でどんどん溶けていく。それは止まらない。
声をあげた。叫んだ。かまくらの中に反響する声は、耳をつんざくようだった。
トサっと、音がした。なにかと思い、雪から顔を上げ、右を向く。
瞳が二つ、じいっと私を見つめていた。どうやら彼も同じように倒れ込んだらしい。初めて見る彼の瞳は、透き通るような空色だった。
「ぼくの目、変?」
「ううん。変じゃない。とってもきれいよ」
「そんなこと言われたの初めてだ。僕いつもバカにされるんだよ?」
「気にしなくていいよ。私は素敵だと思う」
彼の小さな右手をそっと握る。雪の妖精かと思うくらい冷たかった。
「お姉ちゃんの目も、きれいだよ?」
その時私はようやく思い出せた。
私は人間だったことを。
次の日、目覚めとともにインターホンが鳴り響いた。こんな朝早くに誰だろう。はだしのまま玄関に出る。
「おはようございます。○○警察です。お母さん、いるかな」
玄関先にいたのは、青い服に、青い帽子をかぶり、自らを警察と名乗る、男だった。 私が返事する前に、パジャマ姿の母がリビングから出てきた。 警察官の顔を見た瞬間、顔は血の気が引いたように青ざめ、口はぽかんとあいていた。
「お母さん、こちらにきき覚えはありますか?」
四角い小さなラジオのような機械を取り出し、ボタンを押した。聞き覚えのある声が再生された。 母の声だった。私への日課の罵詈雑言が録音されていた。
私のぶたれる音
床にたたきつけられる音
虐待の証拠と言わんばかりの内容が徹頭徹尾おさめられていた。
……なんで? いつ録音されたの? 寝起きでぼんやりとしていた頭をフル稼働させる。あの男の子しかいない。しかも、私のランドセルをよくいじっていた。最近隣に引っ越してきた人、ここにつながる。
男の子と帰り道がほぼ同じだった。家に入るところを、そういえば見てなかった。
耳がいいなら、私の家の声が聞こえてもおかしくはない。以前から知っていたのだろう。そして、お父さんの仕事はジャーナリスト。ならばレコーダーくらい持ってるだろうな。 いくつものピースがそろい、はまっていく。一つの真実が導き出された後に、なかなかやるな、あの子。そういう感想が頭に浮かんだ。
一通り再生が終わった後、母は何も言わずに俯いていた。私も何も言えなかった。母は観念したように、頼りなく一歩を踏み締める。それはあまりにも弱弱しくて、今までの傲慢な母の面影はどこにも見当たらなかった。そんな母の進路を塞ぐため、一歩前へ出る。
「すいません」
震える声で私は言う。
「それ、違うんです」
空気が凍りつく。母は戸惑うような視線を私に送り、警官は表情を動かすことなく、私の目を見ていた。
「違うって、どういうことかな?」
あくまで柔らかい声色で、警官は言う。
「それ、お芝居のせりふなんです。学芸会の、練習をしていただけなんです。多分そこだけ間違って録られちゃったんだと思います。ご迷惑をおかけして、すいませんでした」
私は頭を下げる。二人のどちらの目も見たくなかったから、ひたすら床の木目だけを見ていた。
「あー、なるほどね」
あくまで軽そうに、男は私の言葉を受け止めた。その雰囲気に呑まれ、私は続ける。
「そうなんです。だから、なんでもないから帰ってください」
「うん、それなら仕方がないね。僕は帰ろうか」
その言葉にほっとし、顔をあげた。警官は帽子を脱ぎ、笑顔で警察手帳の中身を見せてきた。その中身は、白紙だった。
「なんて、普通の警察は言ってくれないだろうね」
私は言葉を失った。男は笑みを崩すことなく続ける。
「お芝居にしては少しばかり無理がある。それにこれは立派な物的証拠だ。本当の警察なら、君を無理やりにもお母さんから引き離すことだろうね」
私も、多分母も理解が追いついてなっただろう。私の母は、警官のコスプレをした男に連れ去られそうになっていたのだから。
「お察しの通り、僕は警察じゃありません。隣の家に最近引越してきたものです」
警官は腰をおろし、茫然としている私の頭に手を置き、やさしくなでた。
「よくがんばったね」
続いて男は母を見た。
「お母さん。これはあくまで僕が個人的に所持しているものではありますが、この僕がいつでも通報できる立場にあるのを忘れないでください。職業柄、事件を面白おかしく報道するのが性分ですので」
男は腰を上げ、玄関へと向き直った。
「それでは、僕はここで失礼させていただきます。お譲ちゃん。困ったらいつでも家に来なさい。隠しても駄目だよ? うちの息子は、耳がいいからね」
唐突な展開に舌を巻きながらも、私は言った。
「はい」
それからあの男の子の父親は帰って行った。母はずっと黙り込んだままだ。気まずい。私がどうしてあんなことを言ったのかとか、何もきいてこなかった。私はパジャマ姿のまま、靴を履いて玄関の外に出る。 氷のように冷たい空気は、混乱している頭を冷やすのにはちょうど良かった。私自身なんであんなことを言ったのか、よく理解していない。だけど、母に言いたいことはあった。
そして、昨日理解したなにかをきちんと形にしておきたかった。
素手で地面に積った雪をつかみ取る。それを握りしめ玉の形を整える。それをそのまま母に向かってぶつけた。
「もう、晩御飯作らないから!」
私は人間だから。そう心の中でつぶやいた。ようやく自分の意思を伝えることができた。そのまま母の顔を見ないまま走る。向かう場所はあの空き地だ。男の子は今日もいるだろうか。会って何をまず言おうか。素直に自分がありがとうなんて言えるわけがない。ぱらぱらと舞い散る粉雪は、頬に張り付いた。心臓は燃えるように熱い。雪の冷たさは気にならなかった。
空き地に男の子はいた。一人で雪玉を転がしている。音をたてないように私はしゃがみこむ。雪をかき集め、球を作る。そのまま男の子の赤いジャンパーに向けて、投げつけた。雪玉が砕けるとともに、男の子は目を見開き、驚きの声をあげた。
「うわっ! なんだ!」
「あははっ!」
大げさに驚く彼に指をさし、笑った。男の子も仕返しと言わんばかりに笑いながら雪玉を投げ返す。雪玉はお互いの体に当たっては砕け散った。降りしきる雪の勢いは増し、周りの建物も、道路も、世界のすべてが白に変わる。それでも勝ち負けのない雪合戦は続く。目に染みるほどの白い世界いるのは、彼と私だけだった。
おしまい
この子は救われました。しかし、救われずに悲劇を迎えた被虐待児がいることを知っておいてください。