表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

幼なじみ

作者: たかみりん

 これはこれは、詩人さま。


 本日は愉しい語りを聞かせてくださって、どうもありがとうございました。本来ならば饗宴はここでおひらきにするところでございますが、どうか老いて愉しみも少ないわたくしをあわれとおぼしめすのであれば、いま少しの間だけわたくしの話も聞きとどけてはくださいませんでしょうか。

 よろしゅうございますか。ああ、良かった。あなたさまのような聞き手を得て、これでわたくしの胸のつかえもとれるというものです。


 わたくしのお話するのは、あるひとつの家族の物語。

 高貴な神話や胸躍る英雄譚にはおよびもつきませぬが、数奇なことでは勝るとも劣らないわたくし自身の物語でございます。






 さて、わたくしがかような仕儀に至ったわけを語るには、わたくしたちのことの起こりからお話するのがよいように思われます。


 わたくしとユルス、そして兄のマルクスといとこのユリアは、もともと仲のよい幼なじみでした。

 あなたさまも周知のとおり、かつてわたくしの母は自分の夫となった人の子を、たとえ血が繋がっていようがいまいが、すべて手元に引きとって育てておりましたので、そのころのわたくしの家はたいへんな大所帯でございました。

 兄とわたくしは母の連れ子、ユルスは義父の連れ子でして、お互い血の繋がらない兄妹として幼い頃から同じ家に暮らし、ユリアもまたかわいそうなことに、両親が早くに離婚したためになかば放っておかれたようになっていたところを、わたくしの母が何かと世話をしておりまして、やはり兄妹同然の仲として育ったのでした。その他にも小さな妹たちが三人もいて、わたくしたちみなで面倒を見たものです。


 わたくしたちは、朝もやの中に輝かしい日が昇る前から、燃えさかる夕陽が空をあかあかと焦がすまで、常にみな一緒に過ごしておりました。近所の街路で走りまわったり、ティベリス川のほとりで水あそびをしたり、家の中で遊戯に興じたり、ときには大人にひどいいたずらをしたり。屈託なく笑っていられたあのころは、ほんとうにたのしかった。

 一方でそのころの世間はひどく騒がしく、暗いできごとばかりであふれていました。

 わたくしたち家族はまさにその渦中にあって、いくどとなくつらい目にあったものです。とりわけ義父に捨て置かれたやさし母の心労は、おさなごころにも見ていて大変つらいものがありました。

 わたくしたちはそのような母や父の姿や、世間のありさまを見て、こう誓ったものです。


――どんなことがあってもわたくしたちは、ずっと一緒にいよう。たのしいこともかなしいことも分かち合って生きていこう、と。


 ええ、それはおさない時分の、ほんとうに他愛もない約束です。けれども、明日をもしれない不安な日々を過ごしていたわたくしたちにとって、それがどんなに大きななぐさめになったことか、余人には決してお分かりになりますまい。




 それからしばらくして、義父がいくさに敗れて遠い異国の地で命を落としたと聞きました。


 ユルスにとっては実の父が亡くなったのです。既に実母も亡くしているからには、この世に直接に血のつながりがある人がだれ一人いなくなってしまい、彼は天涯孤独の身になってしまったことになります。母はそんなユルスをほんとうにかわいそうに思って、より一層目をかけてかわいがるようになりました。


 同じころ一緒に暮らしていたユリアもまた、戦が終わってローマに戻ってきた叔父のもとへと泣く泣く引き取られていきまして、わたくしたちのまわりはすっかり火が消えたように寂しくなったものです。


 そうそう。でもその一方で、その穴を埋めるようにといいますか、これはおかしなことですが、母は義父がよそでもうけていた三人の小さな子らを引き取ってわたくしたち兄弟姉妹の輪に加えたので、家は次第に以前とはちがう賑やかさを取り戻していったのでした。




 そうして一、二年ほど経ったころでしょうか。

 そのころまだほんの十三だったわたくしは、叔父のはからいでその無二の親友である方と結婚することになりました。


 恋のなんたるかも知らぬ年ごろながら、すでにユルスに対して淡い想いを抱いていたわたくしは、内心この結婚をひどく嫌がりました。それにお相手の方だって、わたくしより二十以上も歳の離れた方です。

 けれども、おさない身であの叔父に逆らうことなどとてもできるはずもなく、また母の熱心な勧めもあって、しまいには渋々と家を出ることを承諾したのでした。


 こうしてわたくしの最初の夫となった方は、その実ほんとうに心根のご立派な方で、頑是ないわたくしにたいしてもたいそうやさしく誠実に尽くしてくださいました。

 初めのころこそ、あの誓いを交わした親しい兄弟姉妹たち、特にユルスと離ればなれになって泣き暮らしていたわたくしでしたが、いつしかこの夫が注いでくださる愛情になぐさめられ、やがて心の底から夫のことを愛するようになったのです。歳を経てあの方がわたくしをほんとうの妻にしてくださったとき、わたくしがどんなに喜びにうちふるえたか、とても言葉では言いあらわせませぬ。

 そうした愛の証に、わたくしは初めての娘を授かるに至ったのでした。


 わたくしが娘を身ごもりましたのと同じころ、十四になったユリアもまた最初の結婚をいたしました。そのお相手になったのは、わたくしの兄マルクスです。

 兄もそのころはまだ十七になったばかりでしたから、それはもうずいぶんと若々しい夫婦でございました。はたから見ましたら、この結婚はまるでままごとのようにさえ感じられたかもしれません。けれどもかつての幼なじみであり、また日ごろから仲睦まじくしていた二人は、お互いに結ばれたことをたいそうよろこび、それはそれは幸せそうにしておりました。


 叔父は、お務めをはたすためでしたら身内のものを犠牲にしてもかまわないという、少々人の心の機微にうといところがある方ですけれども、そうしたしがらみから為されたうちで、この結婚だけはほんとうにユリアにとって素晴らしい贈りものと思えたことでしょう。いつもどこか陰鬱な影がさしているユリアが、心の底から幸福そうな顔をして輝いておりましたのは、この時をおいてほかになかったのですから。




 ああ、ユノー!神聖なる結婚の神よ。

 もし、この時がとこしえに続いていたのなら、のちの全ての不幸はなかったものを!

 あなたさまの嫉妬は、人の子になんと残酷な仕打ちをもたらすのでしょう。




 それから三年も経たないうちに、なんとそのユリアの夫であり、わたくしの実の兄であったマルクスが、病を得て急死してしまったのです。まだ二十歳にも満たない身でしたから、こんなひどいことを一体だれが想像できたというのでしょう。

 わたくしたち身内のものは、ユリアはもちろん、わたくしも夫も、母もユルスたち兄弟姉妹も、それから叔父も――とりわけ叔父の取り乱しようはひどいものだったのですが――だれもかれもがその死を深く悼みました。


 のちに聞いたことですが、男の子に恵まれなかった叔父は実の甥にあたる兄をことのほかかわいがっておりまして、いつかご自分の後を継がせようと考えていらしたようなのです。娘のユリアを嫁がせたのも、きっとそのためだったのでしょう。

 後継ぎを喪ってしまった叔父は、急ぎ次の後継ぎを探さねばなりませんでした。そこで白羽の矢が立てられたのが、ご自身のもっとも信頼に足る右腕であり友人でもあったわたくしの夫だったのです。


 ある日、叔父はわたくしの母のもとへ自ら足をはこび、このようにおっしゃったのだそうです。


「そなたの婿をわたしに譲ってくれ」


 その話を聞いたわたくしは、激しくいやいやをして拒絶しました。

 そのころのわたくしは、もう夫から離れては生きていけないと思うほどに夫のことを深く愛しておりましたし、なによりわたくしに何の落ち度もないのにそのような理不尽がまかり通っていいはずがありませぬ。

 けれどもわたくしの必死の抵抗もむなしく、わたくしは力ずくで母のもとへ連れ戻され、あげくの果てに無理矢理に離婚されてしまったのでした。

 そして夫は、あの素晴らしい方は、ああ。


 このことを思い出す時、くやしさとかなしさとで未だにわたくしの胸は千々に乱れます。


 しばらくして、あの方は叔父の取り決めたとおりにユリアと再婚なさいました。そのことは世のみなさまもご存知のとおりです。兄を喪ったユリアがどのような気持ちでそれに応じたのか、そのころのわたくしには全くあずかり知らぬことでした。




 とにかくそれからというもの、わたくしはすっかり気を落としてしまいました。表に出れば二人の名を聞かない日はなく、また道を歩けば皆が離縁されたわたくしをわらっているように思えて、外にでることもめっきりとなくなりました。涙も枯れ果てたまま、家の中でただただうつろな日々を過ごしていたのです。

 かわりに嘆きかなしんだのは母です。


――こんなことになると知っていたら、おさないあなたを手放したりするのではなかった。弟の言うことなど聞かず、嫌がるあなたの望むとおりに家に置いておけばよかった。


 そう言って、母はわたくしに泣いてあやまったのです。

 母をそんな風にかなしませるのはわたくしの本意ではありませんでした。最後の仕打ちを除けば、わたくしたちの結婚生活はおおむね平和であり、幸福だったのですから。わたくしは気を取りなおして、次第に愛する娘やまだ家に残っていた弟妹たちと努めて明るく過ごそうと心がけるようになりました。


 そんな折です。すでに家を出て独り立ちしていたユルスが、たびたび母のもとをたずねてくるようになったのは。


 久々に会ったユルスは、すっかりたくましく立派な姿になっておりました。おさないころの記憶にある義父のおもかげに似てたいそう凛々しく成長していて、おさないわたくしに淡い想いを抱かせた、それ以上の頼もしさで再び鮮やかに目の前に現れたのです。

 その時の、息をのむような驚きを、何と言ったらよいのでしょうか。


 彼は母へのあいさつをするかたわら、なにかとふさぎがちなわたくしの話相手も快く務めてくださいました。離ればなれになってからは縁遠くしておりましたものの、そこはやはり幼なじみというもの。わたくしたちはたちまちのうちに打ち解けて、再び親しく付きあうようになったのです。

 このような日かげものの身によくしてくださるのを申し訳なくまた恥ずかしく思い、消え入りたい気持ちでいたわたくしに、ユルスはこう言ったものです。


「どんなことがあっても、私たちは共にいようと誓ったはずだ。このようなことは何というほどのことでもない」


 あなたさまはきっと、わたくしのことを節操のない女とお思いになられることでしょうね。けれどもわたくしには、他にどのような生き方が許されていたというのでしょう。




 やがて、母の懸命なはたらきかけのおかげもあって、わたくしたちはとうとう結婚いたしました。

 それは世間や叔父の思惑とは関係のない、ほんとうに純粋な愛情からでたものです。わたくしは、ユルスとの生活にようやく凪いだ安らぎを見いだすことができたのです。


 けれども。

 わたくしと結婚したことは、あの人にとってほんとうに幸せなことだったのでしょうか。

 わたくしの存在こそが、あの人を狂わせてしまったのでは?わたくしさえいなければ、あの人があのようなふるまいに及ぶことはなかったのではないでしょうか。

 でも、一体、どこで留め金をかけちがえてしまったのでしょう。


 今となってはもう、ユルス本人からそれを聞くことはできませぬ。

 わたくしにできることは、あの日までのことを淡々とお話することのみでございます。




 さて、わたくしがユルスと結婚してから約十年の間は、穏やかで平凡な日々が過ぎていきました。


 ユルスは、あらためて一緒にすごしてみますと、少し感受性が強くものごとに動じやすいところはありましたけれども、その分ほんとうにやさしく良い夫でありました。由緒あるお家柄の方として元老院にも議席を持ち、立派にお務めをはたしておられたと思います。

 わたくしたちの間には三人の子がうまれ、前の夫との子と合わせて四人の子供に囲まれて、再び幸せな日々を取り戻したのです。


 幸せが頂点にあったのは、あの夏の式典のときではなかったかしら。


 あなたさまもきっとご覧になられたことでしょう。

 あの、平和を祝う壮麗な式典。ローマ中の市民が歓呼を挙げて迎える中、叔父が祭司を務め、わたくしたち一族のものが粛々とそれに連なり、平和の女神へ祈りを捧げた、あの。


 耳をつんざくように鳴り響く人々の唱和の声。

 高らかに歌い上げられる平和の歌、歌!

 洪水のように繰り返される熱狂。

 犠牲の獣が焼かれる煙が細くたなびいて天に立ち昇ってゆくさま。


 わたくしたち家族も、母も、弟妹たちの家族も、叔父や叔母、そしてもちろん叔父の娘であるユリアやその家族の姿もそこにありました。

 久々に会ったユリアは、叔父によく似てどこか冷めた美貌を持つ艶めかしい女性にすっかり変わっていましたけれども、わたくしはもう、婉然とほほえむ彼女やその夫となった前夫を見ても動じることはありませんでした。


 わたくしは子供たちの手を引き、皆で平和の祈りを捧げました。ほんとうに心の底から、すべてのものに対する平和を祈りました。

 わたくしたち家族や幼なじみの皆を不幸な離散に追いやった戦争を、親しい人をこの世から連れ去った死を、心の平穏をかき乱す不和を、どうかどうかとこしえに遠ざけてくださいますように。

 平凡で退屈であってもかまわない。

 ただただこの穏やかな日々がいつまでも続きますようにと、心をこめて祈ったのです。


 それなのに。ああ、それなのに!

 なんと業の深い一族なのでしょう、わたくしたちは!




 不幸の始まりは、それからすぐに訪れました。


 わたくしの前夫、つまりユリアの夫である人が任地へ赴く旅の途上で病に倒れ、そのまま還らぬ人となったのです。あの方とはお若いころからずっと親しく友情を分かち合ったという叔父は、それこそ半狂乱になって取るもの取らずの状態で急ぎその場に駆けつけましたけれども、あの方の魂はすでに冥府へと連れ去られた後だったということでした。


 絶望に嘆きかなしむ叔父は、それでもお務めのことを決して忘れませんでした。次の後継ぎのことを考えねばなりませんでした。

 人はそんな叔父のことをたいそう立派に思い、そのおこないをたたえて励ましたのです。


 けれども叔父は、わたくしがこう申すのもはばかられますが、あまりにも情のない方です。ほんとうに何というひどいことを…。


 二度目の夫を亡くしたユリアは、その喪があけやらぬうちに、叔父が後継ぎと決めた次のお相手の方と妻あわされることになりました。ユリアのお相手となった方は、わたくしのときとおなじく、すでに愛する妻がいらしたにもかかわらず、無理矢理に離婚させられた上での結婚を強いられたのです。


 実はその方の妻だった方とわたくしは仲のよい友人のようなお付き合いをしていたのですが、しばらくの後に彼女はわたくしにこんな話をしてくださいました。


 あるとき彼女は街を歩いていて、そこで前の夫を偶然見かけたのだそうです。

 きっとその方も、彼女に未練があったのでしょう。

 彼が食い入るような、あまりにも熱い視線で自分のことを見つめるので、彼女は気づかないふりをして急ぎ立ち去るしかなかったと。からくもその視線からのがれた後、壁に手をついて泣き崩れるしかなかったと、わたくしにすがって号泣したのです。


 そのお姿に以前の自分をかさねたわたくしは、彼女のことがほんとうにあわれで、あまりにもかわいそうでなりませんでした。


 そのような状況で、どうしてその結婚がうまくいくでしょうか。

 ユリアとその夫となった方の不仲は、間もなく人の口の端にも上るようになりました。




 不幸はまだまだ続きます。


 ちょうどユリアが再婚したのと時を同じくして、わたくし、そしてユルスにとって最も敬愛してやまない母が、病気で亡くなりました。


 あのくるしくてつらい時代から、わたくしたちを懸命に守り育ててくださった母。父が違う、あるいは母が違うわたくしたち兄弟姉妹を、そのあたたかい縁で結んで家族としてくれた偉大な母が、この世を去ったのです。どんなときでも心の支えとし続けてきた母をうしない、わたくしの心の中に冷たい風が吹くような心地がいたしました。


 母が亡くなった日、ユルスは母のかたわらにひざまずき、やすらかに眠る母のほっそりとやせた顔を、いつまでもいつまでもじいっと見つめておりました。でも、そうしているうちにこらえきれなくなったのか、ユルスは肩をふるわすと、みぞおちの辺りでゆるく組み合わされた母の手を取り、冷たい手の甲にそっと敬愛のキスをささげたのです。

 そこには、だれも立ち入ることができないような静謐な空気がただよっていて、わたくしは声をかけるのも忘れてその一部始終に見入っていたのでした。


 母の葬儀は、国葬をもってなされました。

 母の弟である叔父がその葬儀を取りしきり、追悼の演説をおこないました。思えば叔父もかわいそうな人です。一体、こうして何人の親しい人を見送り、追悼の辞をささげてきたのでしょうか。

 火葬に付されて小さな骨壺におさまった母を、墓所へと運んだのはユルスでした。大事そうに抱えたそれを墓所の壁龕におさめたときの彼の顔が、わたくしには忘れられません。深い哀惜の念の中に、どこか重荷がとれてほっとしたような清らかさと、依るべきものをなくした不安とおそれとがないまぜになった、複雑なあやをなすその表情を。


 ユルスは、そのとき、いったいどんな思いを抱いていたのでしょうか。


 


 そのころからでしょうか。夫ユルスの様子がだんだん変わってきたと思うようになったのは。

 いいえ、いいえ。ほんとうはもっと以前からだったかもしれません。わたくしが気づきたくないと思っていただけだったのかも。


 叔父に目をかけられるようになって徐々に要職につくようになったユルスは、お務めから帰ってくるとひどく疲れたような沈鬱な表情を見せるようになりました。

 以前よりもお酒を召し上がるようになり、ときには度を越して酔われることもたびたびありました。

 どうにもならなくなってわたくしがお諌めもうしあげますと、ユルスはほんとうにひどい形相をしてわたくしをにらみつけるのです。


「うるさい!頼むからもう、私を自由にしてくれ!」


 そう言って正気を失ったように暴れるのです。

 ほんとうに一体どうしたことでしょう。わたくしはユルスになにかを強要したり、束縛したりした覚えは一度たりともございませぬ。それでも、ユルスを苦しめているのはこのわたくしなのだということは、目をみれば痛いほどによく分かりました。


 かといって、どうすればユルスの気が済むようにできるのか、わたくしには分かりませんでした。兄に続いて母も亡くしたわたくしにとって、もう頼りにできるのは夫しかおりません。離れることなど、とうてい考えられないことでした。

 わたくしはもう、ただ途方にくれて、おろおろするばかりだったのです。

 わたくしがそんな風でしたからでしょうか。次第にユルスは外でお仕事のお仲間と夜ごとの宴会に興じるようになり、心も身体もますます荒んでいったのでした。




 いつ、どうやってユリアがわたくしの夫に近づいてきたのかは分かりません。

 彼女はそのころになると、自分の夫に出ていかれたせいもあってか、自由奔放な振る舞いを隠そうともしなくなりました。

 そんな中で、夜ごとに遊びあるくユルスと再び交流を持ったのかもしれません。


 そんな噂を聞いて少しもしないうちに、わたくしはとうとう家の中で決定的な瞬間に出会ってしまったのでした。ペリスティリウムの柱の陰で、白昼堂々と不埒な行為に及んでいた彼らの姿を、わたくしは見てしまったのです。

 あまりの驚愕に息を飲んで立ち尽くすわたくしは、なんと間の抜けた姿をしていたことでしょう。

 ユリアはそんなわたくしの姿にすぐに気づいたようでしたが、その行為をやめようとはしませんでした。立ったまま足をたかだかと差し上げて、深くユルスを受け入れながら、欲情に濡れた目元を婉然と歪ませてこちらを見ているのです。


 こわかった。

 こわくてこわくてこわくて。ただ、ひたすらこわくてしかたがなかった。


 お酒に酔ったユルスにののしられたときも、乱暴につかみかかられたときも、ここまでの恐怖は感じなかった。なにか途方もない空虚な穴に落ちていくような気がして、どうにかなってしまいそうだった。破廉恥に絡みあった肢体に胸がわるくなり、ぐにゃりと視界がゆがんで思わずめまいがいたしました。


 く、くるっているのだと。

 頭がおかしいのだと。

 叫びたい衝動にかられながら、わたくしは声を上げることすらできませんでした。わけのわからない恐怖にふるえる足をがくがくとさせながら、そのまましずかに後ずさろうとしました。


「逃げなくても、いいじゃない」


 そのとき、ユリアがわたくしをはっきりと見て、しめった吐息混じりに言いました。

 その一瞬一瞬の仕草が、あまりにも目にあざやかに焼きつくので。

 時間が、ゆっくりと進んで、まるで止まっては流れるのを繰り返しているようで。

 それまで一心不乱にユリアに欲望を打ちつけていた夫は、その声にびくりと身をふるわせると恐る恐るこちらを振り返りました。


 そのほんとうにひどい顔と言ったら。

 激しい情事をものがたるように額に汗をうかべて、口元はだらしなく開き、いつものようにお酒に酔っているらしい目はどろりと濁ったまま、驚愕に見開いてこちらを見ているのです。


 わたくしはこわさのあまりがちがちと歯の根をかみ合わせながら、無言でゆっくりと首を横に振り。

 夫がなにかを言おうとくちびるを動かそうとしたのを見て。


――ききたくない!


 わたくしははじかれたように身体を動かし、さっと踵を返して、その場から文字どおり逃げたのです。正確に言えば、逃げようとしました。

 しかしそのとき、後ろからユリアの鋭い声が飛んで、ものかげから別の男たちが飛び出してきました。ユリアの連れている奴隷たちにちがいありません。

 わたくしは今度こそ危害を加えられる恐怖に心底おびえて、懸命に脱兎のごとく駆け出しました。しかし女の身であるわたくしの足で、訓練された男たちから逃げきることなどとうてい無理な話です。わたくしはアトリウムの中ほどですぐに追いつかれ、飛びつかれて引きずり倒されました。


「何をするの!離しなさい」


 膝を泥ですりむきながら、わたくしは悲鳴をあげて無茶苦茶に抵抗しましたが、すべてむなしいものでした。あっというまに腕をひねりあげられてその場に押さえつけられ、ひざまずかされてしまったのです。

 苦痛でうめきながらうなだれる目のはしに、奥の方から悠然と歩いてくるユリアの姿が映りました。しどけなくくつろげた衣装を申し訳程度にかきあわせた姿で、ゆっくりと一歩一歩近づいてくるのです。わたくしに対してなにも思うところがないというように、堂々と、胸を張って。


「ユリア!一体どういうつもりなの?こんな、ひどいことをして」


 ユリアは笑っていました。

 最初は微笑む程度に。そして忍び笑いを。最後に私の目の前に立った時には口を開けて高らかに声をあげて。


「ほんとうにお久しぶりね、クラウディア。あなたとこうしてゆっくりお話するのは、何年ぶりかしら」

「ふざけるのはよしてちょうだい。これをはなして」


 わたくしは抗議すると同時に精いっぱいもがきました。けれど、わたくしをつかんでいる男は無慈悲に立っているだけで、かえって腕がきつくなり痛みが増しただけでした。


「さあ、せっかくだから聞かせてちょうだい。今のご気分はどう?わたくしに夫を二回も取られたご気分は」


 わたくしの顔にさっと朱が走りました。もちろん言いようもない怒りのためです。彼女は、ユリアはわざとわたくしに分かるように、このような場所でいかがわしい真似をはたらいたのだと分かったからです。

 怒りと恐怖のあまりに声がつまって、ただ唇をふるわせているわたくしをユリアはうっすらとほほえみながら、つめたい目つきで見おろしていました。


「わたくし、あなたのことずっと見てたわ。そして、あなたがうらやましくてしかたなかったの」

「どうして」

「あなたはいつもやさしい日のあたるところにいた。あなたになりたかったわ。あかるくてあたたかくて、どんなときでもおしあわせそうで。だから、あなたのそのしあわせをわたしくしは分けていただくことにしたの」

「そんな…」


 わたくしは愕然として、弱々しく声をふるわせました。

 どうしてこんな目にあわなければいけないのか、わたくしには分かりませんでした。

 だって、いつもずっと日のあたるところを歩いていたのは、ユリアです。彼女は、叔父のただひとりの娘として、いつだって好きなようにふるまうことができた。いつだって、わたくしよりも彼女。ユリアの方が重んじられる。

 その彼女が、どうしてわたくしなんかのことを、うらやましいなどと言うのでしょう。

 わたくしがそのように問いかけると、彼女は笑っただけでなにも言いませんでした。笑ってはいたけれど、その目だけはなにかをひどく渇望しているように真剣で。わたくしは胸がつまってしまい、それ以上の反論をすることができませんでした。

 こんな風なこと、とても歪んでいるとしか思えません。


 わたくしたち、いつからこんな風になってしまったのでしょう。

 もう昔のようなわたくしたちではない。昔のようなわたくしたちにはなれないのだという思いが、わたくしの力を萎えさせました。気力を失ったまま、ただすすり泣くしかないわたくしに、ユリアは声だけはやさしく言いました。


「ユルスだってわたくしと同じように思っているわ。きっと、似たものどうしなのね、わたくしたち。あなたは知らないかもしれないけれど、彼は…」


 その時です。


「ユリア」


 ユリアがなにかを言おうとした瞬間に、とがめるように割ってはいった声がありました。

 ユリアが肩越しにゆっくりと振り返った視線を追うと、その先にのろのろした動きでアトリウムの中に入ってきたユルスの姿がありました。


「お願い、ユルス。ねえ、助けて…!」


 親しい人がそこに立っているのを見て、わたくしはすぐさま身をよじるようにして助けをもとめたのです。

 ユルスは地面に膝まずかされているわたくしを見て、ぎょっとした様子で足を止めました。けれども、彼はそこに立ち止まったままそれ以上動こうとしませんでした。やめるようにと、助けに入ることもありませんでした。

 男たちに両脇を抱えられてみじめたらしくくずおれているわたくしを、ただ黙ってみつめているのです。

 泣きながら夫の名前をわたくしの声に、再びユリアの高らかな哄笑がかさなりました。そしてぼろぼろと涙を流しているわたくしのほおにそっと手をあてて、猫なで声でやさしくさとすように言ったのです。


「かわいそうに。そんなに泣かなくてもいいのよ。彼とちがってわたくしは親切ですもの。あなただって、一緒に楽しむといいわ」


 それがどういうことなのか、まもなくすぐに分かりました。

 ユリアが無言で顎をしゃくると、わたくしの手をひねりあげていた男たちがわたくしを突き飛ばし、はいつくばった背からわたくしの服を力任せに引き裂いたのです。


 やめて、やめて…!とわたくしは半狂乱になって泣き叫びました。でも、でも、わたくしが抵抗すればするほど、彼らは強い力でわたくしを押さえつけて、きたならしいわらいをあげながら、わたくしを。


 地面に組みしかれているわたくしの横で、ユリアは夫のかたわらに立ち、その顎をとって深い口づけをかわしていました。最初はためらいがちに応えていたユルスも次第に息を荒くして、彼女の腰を抱き寄せては、服の中に手をさしいれてその豊満な胸をまさぐっているのです。


 それを見て、わたくしは心の底から絶望しました。


 何度も、なんどもなんども、なんども名前をよんだのに。助けをもとめてさけんだのに。

 なぜたすけてくれないの。どうしてこちらを見ようとしないの。

 なぜ。どうして?

 わたくしが、あなたのなにを知らないというのですか。わたくしの分からないあなたの、そのくるしい胸のうちでしょうか。それならどうして、妻であるわたくしにはなにも言ってくれないのですか。

 どうして、ただ黙って、こんな仕打ちを。


 そこから先の記憶に残っているのは、引き裂かれる痛みに泣き叫ぶ自分の声と、ユリアの甘ったるい嬌声。

 それから、ああ――夫がときおりこちらを横目で見やる熱っぽい視線と。


 ただ、それだけ。


 すべてがおわって、力なく地面になげだされているわたくしを、いつの間にかユルスが上からぼんやりと見つめてました。乱暴されたこのわたくしの、ひどい姿を。

 ユリアはすでにどこかへ行ってしまったようで、わたくしたち二人だけが、そこに残されていました。


「…君とはもういられない。ここから出ていってくれ…」


 ユルスは、苦いものを吐きだすようにそう言いました。

 わたくしはその言葉にぴくりと反応し、反射的にゆるゆると首を振りました。

 このような仕打ちを受けてもなお、ユルスから離れて生きていくことなど考えられませんでした。わたくしも歪んでいるというのなら、きっとそうなのでしょう。でも、その夫のかなしそうな目を見ていると、このようなことをしてまでわたくしを追い出そうとするのは、どうしてもユリアに誘惑されたからだけだとは信じられませんでした。


「お願いです。あなたがどんなことをしていても、かまいません。どうか、わたくしをお側に置いたままにしてくださいまし」


 いやでした。もう一人になるのだけは、どうしてもいやでした。

 このことは忘れよう。わたくしさえ目をつむり、耳をふさいでしまえば、うわべだけはまた元のような生活に戻れる。わたくしは浅はかにもそう思いました。

 家を追いだされて一人になってしまうくらいなら、わたくしはもうそれでもいいと思ったのです。

 嗚咽まじりに訴えるわたくしに、ユルスは怒ったような困ったような顔をして、深いため息をつきました。それから、ずいぶんと逡巡したあとでしたが、かたわらに落ちていたわたくしのはおりものを拾い上げて、むき出しになってすっかり冷たくなってしまったわたくしの肩に、そっとかけてくださったのでした。

 わたくしはされるがままにまかせながら起き上がることもなく、声を枯らして静かにすすり泣いておりました。




 それからというもの、夫はユリアと逢うことを隠そうともしなくなりました。家の中に彼女を堂々と引き入れ、日の高いうちからたわむれにふけっていることも珍しくなくなりました。

 わたくしはそのたびに自分の部屋に逃げ、文字どおり目をつむり耳をふさいで――ときおり悩ましい声が部屋まで聞こえてくることもありましたから――それが終わるのを息をひそめてじっと耐えたのです。


 けれどもそのうちユリアはなぜか、しばしばわたくしにそのたわむれに交じることを強いるようになりました。部屋にこもるわたくしを引きずり出し、嫌がって泣くわたくしを夫の前につれてきては、二人してわたくしを凌辱するのです。

 もちろん、そのようなことは気のふれた狂気の沙汰としか思えませんでした。わたくしも初めのうちはそのつど抵抗して逃げようとしたのです。でも、そうすればそうするほどまたひどい仕打ちにあうので、結局しまいにはおとなしく従うしかありませんでした。


 わたくしがそのように虐げられることにある種の快楽を覚えたらしい夫は、すすり泣くわたくしの肌に指をすべらせながら、あの熱っぽい目でわたくしを見るようになりました。これまでの交わりでは考えられなかったような、激しい欲望をむき出しにしたようなその視線がわたくしにはおそろしく、おびえて泣いては、またさらに乱暴にされるということもしばしばありました。


 また、ときにはユリアが主体になってわたくしを抱くこともありました。どこで覚えたのかは存じませぬが、ユリアはそのような道にもひどく長けておりました。女の快楽のアルスを知りつくした彼女の指はいともたやすくわたくしを翻弄し、これ以上ないくらいにわたくしを乱れさせたのです。わたくしが何度も気をやって、ああ、もうだめ、などとさけぶと、彼女は決まってわたくしのかわいいクラウディオラ、と呼んでほおに口づけをし、それを見ていたユルスがこらえきれなくなって、私たちの間に入ってくることもありました。


 頭のどこか片隅では常に、これはおかしなことだという自覚はありました。

 ですが、わたくしは次第に、もうなにもかもどうでもいいと思うようになっていったのです。


 だってそうでございましょう?

 どうあがいて普通の暮らしを望んだとしても、わたしたちは、もうとっくにどうにかなってしまっているのですから。

 もしかしたら逆にそうすることで、どうしても満たすことができない、埋められない穴を、必死で埋めようとしていたのかもしれません。


 わたくしたちはそのように三人ですることもありましたし、人を呼んで大勢で――たとえばユルスのお仲間であったり、ユリアの秘密の恋人であったりと――交わることもありました。親しい人たちとのなごやかな饗宴をよそおって、実際には夜の更けるまでこのような嬌態に興じたりしたものです。

 そのころになるとわたくしは、このすさんだ生活の中でみるみるうちにやつれはててしまっておりました。

 きだちはっかやら何やらの媚薬を濫用したせいか顔色はつねに悪く、手足はやせほそり、ほおはこけて、落ちくぼんだ目だけがらんらんと輝いているようなありさま。

 髪をすこうとして、そのおそろしい顔におどろいて鏡をとり落としてしまうこともしばしばでした。

 そして、そのような生活を送るようになってから表に出ることもめっきり少なくなりましたが、わたくしの様子がどこかおかしいということは、それとなくひろまっていったのでしょう。心配して訪ねてくださる方もおりましたが、そのたびにわたくしは、病で伏せっているからと答えては追い返してしまったものでした。




 そんなあるときのことです。

 久々に叔父の主催により、ローマから少し離れたところにある叔母のヴィラでわたくしたち一族を集めての饗宴がもよおされました。叔父の招きとあってはさすがに断ることもできず、わたくしとユルスはそろって出かけていきました。

 このようにわたくしたち全員が一同に会したのは、ほんとうに久しぶりのことです。叔父の意向による一族の政略結婚の繰り返しによって、わたくしたちはローマ中の有力者となにかしら縁戚があるようなものでしたから、集まった顔ぶれだけ見てもそれはもう壮観なものでございました。もちろん母や兄、それから前の夫のように、すでに鬼籍に入ったものも多くおりましたけれども、無事でいるものは皆お互いに息災をよろこびあったものです。


 叔父はこのような宴席の場には遅れてくるのが常でしたが、この時も後からやってきては先に臥台に横になっていたわたくしたち一人一人をまわって、精力的に声をかけておりました。

 それはほんとうに他愛もないことばかりで、たとえば元気そうでなによりだとか、務めのほうは順調かねとか、今度誰それをどこへ嫁がせようと思っているのだとか、そんなお話をされていたかと思います。叔父に声をかけられた方々も、楽しそうに話題に応じておりました。


 けれども、あの方がとうとうわたくしの前に立った時、わたくしだけはとたんに背筋がこおるような思いをしたのです。叔父は、それまで刷いていたおだやかな微笑を消し、ただただ冷たくおそろしい顔でわたくしのことを見下ろしていました。

 まるで、わたくしの厚い化粧の下に隠した荒廃をすかし見ているかのように。


「クラウディア、そなたは少しやつれたようだ」

「え、ええ。…しばらく具合を悪くして、伏せっておりましたので」


 声が、震えないようにするので精一杯でした。

 この方にだけは、わたくしの様子がおかしいことを知られてはいけないのに。

 わたくしは緊張を押し殺すように、手にした杯をきつくきつく握りしめました。血の気が失せて、手が白くなるほどに。


「それはいけない」


 叔父は、痩せて骨ばったその手をわたくしのもとへのばすと、わたくしの肩にそっと触れました。

 ああ、驚いて肩がふるえたわたくしを、叔父は変に思いはしなかったでしょうか。燭台のあかりしかない暗い食堂の中で、わたくしの顔色が真っ青になっていたことを、気づきはしなかったでしょうか。

 わたくしの怯えを知ってか知らずか、叔父はそれまでと同じ、淡々とした様子でわたくしに言いました。


「困ったことがあったらいつでも言いなさい。どんなことがあっても、そなたは私の、血のつながった直系の姪なのだから」


 それははたから聞いたら、親族を気づかうごく普通のやさしい言葉に聞こえたにちがいありません。けれども、ほっとしたのもつかの間、叔父と目が合ったわたくしはみるみるうちに気が遠くなる心地がいたしました。そのときの叔父の目が語るこめられた別の意味が、わたくしにははっきりとわかったのです。


――自分は何もかも知っているのだと。親族である以上、勝手で恥知らずなまねは許さないと。


 叔父が去ったあと、とうとうふるえが抑えられなくなったわたくしを見て、すぐ横にいた妹の一人がそっといたわるように背中をささえてくれました。


「姉上。なにごとがあったのか私には分かりませぬが…。叔父上はあなたをユルス兄上と離婚させて、また別の方と再婚させるおつもりだと小耳にはさみました。どうか息をひそめてご自愛なされて」


 わたくしは、とどめを刺されたかのように息をのんで絶句いたしました。


 そんな、まさか。そんなことが。あの悪夢のようなことが、また起こるというのでしょうか?

 またしても親しい人から引き離されて、なげきかなしみながら生きていかなければならないというのでしょうか。わたくしの意思とは、まったく関係のないところで。


 それからのことは、もうほとんど記憶にございません。

 とにかく放心していて、自分がどうやって家に帰りついたかも覚えていないほどなのです。

 わたくしの頭の中ではただ、さきほどの叔父と妹の言葉だけが、がんがんと鐘を打ち鳴らされているかのようにくりかえしくりかえし響きつづけていたのでした。




 それから何日かして、わたくしはふらりと思い立ちまして一人である場所をおとずれました。

 街中から離れたフラミニア街道沿いのうらさびれた野原の中に、場ちがいなほどまあたらしい祭壇だけがぽつりと寂しげに建っているのを、あなたさまはごらんになられたことがありますでしょうか。

 今はもう遠い日のことになってしまったあの、壮麗な式典に際に奉納されることになった祭壇を。


 あの祭壇を守る大理石の壁はうつくしいアカンサスの意匠でかざられており、それから目の上の高さよりもずっと高いところには祖国の栄光と繁栄をたたえる女神ローマやテルスのお姿、そしてなにより、あのまぶしいほど幸福なひとときのわたくしたち一族の姿が、そのままの様子でありありと浮きぼりにされているのです。

 ユルスや子どもたちといったわたくしの家族も、今は亡き母も、弟妹たちとその家族も、そして叔父や叔母、叔父の娘であるユリアやその家族の姿も、そこに――。


 わたくしはそれらの姿にさそわれてすぐ近くまで歩いていき、周囲を威圧するようにそびえ立つその壁にそっと触れてみました。

 大理石でできた壁は、やはり無情なほどにかたく、ひどく冷たかった。

 その冷たさに触れていると、在りし日のあのうつくしい思い出までもが、みるみるうちに冷たくこおっていくような気がいたしました。それに、わたくしが白いアカンサスの蔦をたどりながらどんなに手をのばしても、あの日のわたくしたちの姿にはとうてい手が届かないのです。


 とんだ皮肉でした。


 平和の祭壇(アラ・パキス)と呼ばれるそれは、その祈りとは裏腹に、わたくしの願う平和には全く手が届かないものなのでした。

 いいえ、そのようなものはほんとうはただのまぼろしで、もしかしたら最初から存在しなかったのかもしれない。


 そんな思いが押し寄せたとたんわたくしはいても立ってもいられなくなって、堰があふれたかのように泣き崩れて、こぶしを握りしめて狂ったように壁をたたきました。手が鬱血し、しまいには皮膚が破れて血が出るまで、何度も、何度も何度も、何度も。


 わたくしは、ただ。ただこころ安らかな日々だけを望んでいたのに。

 同じ願いをいだき、祭壇に立つわたくしたちに歓呼をあびせたローマに住まう皆と同じ、ただ穏やかな普通の暮らしを送りたかっただけだったのに。

 子どものころのように、日がのぼっては暮れるまでのあいだずっと仲良しのみなと屈託なく笑って過ごせれば、それだけでよかったのに。


 わたくしたちがこんな境遇にひきずりこまれたのは、いったいどんな因果があってのことでしょう。


 こんなもの、めちゃくちゃに打ちこわしてしまいたかった。

 わたくしたち一族を逃れられないしがらみに閉じ込める檻。この白い牢獄を――。




 その夜暗くなってから、両手を自分の血で血だらけにして帰ったわたくしを、夫のユルスはおどろいた目で出むかえました。

 その日のユルスは、珍しくお酒に酔ってはいないようでした。

 わたくしの事情は一切聞かず、涙や吹きすさぶ風でぼろぼろに崩れた顔をしたわたくしに駆けより、傷ついた手をそっと取りあげて、やさしく手当をしてくれたのです。

 ごめん、すまない、ごめんと何度もあやまりながら。

 でも、それでもやはり夫は肝心なことは何ひとつ、わたくしに言ってはくれないのです。

 なにが「ごめん」で。なにが「すまない」のか。

 わたくしにはもう、わかりませんでした。

 ユルスがわたくしの手をなでてくれるのを見ながら、わたくしもただ黙ったまま再びぽろぽろと涙をこぼすしかありませんでした。




 そして、それからしばらくして、ようやくあの運命の日がおとずれたのです。

 その日、いつものように輿に乗ってやってきたユリアは、わたくしたちの家の門をくぐろうとしたところで、駆けつけた近衛兵たちに取り押さえられました。

 家の前の騒ぎにおどろいて外に出たわたくしのちょうど目の前を、屈強な兵士に引き立てられていくユリアが通りすぎていきました。


「ユリア…!」


 わたくしが彼女の名前をさけぶと、ユリアはこれまで見せたことがないようなかよわい表情をしてこちらを振り向き、いまにも泣きそうな顔でさけびました。


「いやよ。助けて、クラウディア!わたくし、おとうさまのところへなんか、行きたくない…!」


 その時のわたくしの脳裏に、いなずまのようにひらめいて重なる光景がありました。

 それは、幼いころに母のもとにいたユリアが、泣きながら叔父のもとに引き取られていった時と同じ姿なのです。なすすべもなく引きずられるように連れていかれた、あの姿と同じなのです。


 とっさに、とめなくては、と思いました。彼女を助けなくては、と。

 でも、わたくしの足はメデューサの目に射すくめられたように動かず、舌は上顎にぴったりと張りついて制止の言葉さえあげることができませんでした。


 助けるべきなのか。

 それとも。

 いい気味と思って見守っていればいいのか。

 ちらりとよぎったその考えに、わたくしはぞっとしました。


 ためらっているわたくしの後ろから、同じくユルスが飛びだしてきて同じようにユリアの名前をさけびました。

 すると彼を見とめたユリアが何かを言うより先に、近衛兵の一人が無表情にふりかえりました。


「ユルス・アントニウス殿。プリンケプスは貴方に対しても、その御自らの権威において、国家反逆罪で譴責なされます。沙汰があるまでご自宅にて神妙に待機なされますよう」

「…え…っ」


 わたくしは息をのんで口もとをおさえました。

 今度こそ、全身が石でかためられてしまったかのようでした。

 叫びだしたい気持ちはありましたが、あまりの光景、あまりの衝撃に声を出すのを忘れてしまい、ただ口をふるわせたのみでした。


 国家反逆罪。こっかはんぎゃくざい…?それは、いったいどういう…。

 どういう…意味?


 わたくしが固まったまま傍らのユルスの顔をうかがうと、彼はその表情を青ざめさせてはいたものの、ただ黙って静かにそれを受けとめているようでした。そのことにも、わたくしは衝撃をうけました。


 あなたは。それを。みとめるというのでしょうか。

 いったいどうして。どうしてこんな大それたことをなさったのですか。


 動けないままでいるわたくしの視線の先で、必死にあらがうユリアがとうとう馬車に押し込められるのが見えました。

 最後までユルスと、わたくしの名前を叫びながら。




 ユリアが連れていかれ、さらにはユルスが罪に問われたとあって、家が騒然となっている中、わたくし自身もひそかにある決意を固めました。それは、あの叔父の主催の宴会のあと、もしなにごとかがあった時には必ずそうしようと思って準備をしていたことでした。これ以上、わたくしたちの暮らしが続けられなくなるようなことがあった、その時には。


 わたくしたちはその晩、いつもと同じように夕食をとり、それからお酒をご相伴いたしました。

 わたくしは普段お酒などたしなみませぬが、この日はめずらしく夫がすすめてくださったので、わたくしも一緒に杯をとることにしたのです。


 先にユルスが葡萄酒に口をつけると、彼はすぐに怪訝な顔をいたしました。

 当然のことでしょう。

 わたくしが葡萄酒の壺にひそかに入れておいた毒人参は、ひどいくさみがあり、口を近づけさえすればその存在が分かってしまう。だから、これは賭けのようなものでした。

 はたしてユルスは、それですべてを察したようでした。


 次の瞬間。


 ユルスは半ば口をつけた杯を一気に傾けて、毒が入っていることを知りながらその中身をすべて飲み干したのです。効果はまたたくまにあらわれました。

 彼はすぐに息がつまったように喉をおさえ、苦しそうに荒い呼吸をくりかえしました。


「ユルス…ごめんなさい…。もう、わたくしにはこうするしかできないの……」


 わたくしはユルスが苦しむ様子を見ながら、のどの奥からしぼり出すように言いました。泣き声まじりのその声は引きつっていて、よく聞こえなかったかもしれません。

 追い詰められたゆえの、これが、最後の選択でした。

 わたくしは彼に毒がきいているのをしかとこの目で確かめると、同じ毒の入った杯を持つ自分の手をふるえさせながら、夫と同じようにいきおいよく杯をあおろうとしました。


「やめるんだ」


 わたくしが一口二口ほどそれに口をつけたところでユルスが突然立ち上がり、わたくしの手から杯をはたき落としたのです。杯は床に転がって、中身はすべてこぼれてしまいました。夫は、それで力尽きたようにその場に倒れました。


「…どうして…」


 わたくしは呆然としながら、倒れたユルスに折り重なるように泣き崩れました。

 もとよりわたくしは黙って夫を死なせたあと、すぐにあとを追うつもりだったのです。ユルスがわたくしにお酒をすすめなければ、そのようにするつもりでした。ともに酒を飲むように、とすすめられたとき、わたくしはむしろよろこんだのです。これでほんとうに夫と一緒に死ねるのだと、そう思ったのに。


 それを思いがけず拒絶され、わたくしはどうしたらよいのかわからなくなってしまったのです。


「これでいい。ことここに至るまで生きていたこと自体が、私の罪だったんだ。もっと早く…、自分でこうすればよかった。そのためにこんなにも君を苦しめた。私の人生は、地べたを這いずり回るような恥と屈辱にまみれたものだったが、それでもやはり義母上や君の存在が、どんなに救いになったことか。…だから、どうか君には生きていて欲しい」


 ユルスは、荒い呼吸で切れぎれに言いながら、取りすがる私の手を力強く握りしめました。

 わたくしは愕然といたしました。わたくしは夫の死に瀕して、彼の抱える苦悩が人生すべてを塗りつぶすほどに暗く重たいものであることを、はじめて知ったのです。わたくしにぶつけていたどうしようもない苛立ちの先にあるそれが、ユルスをずっと苦しめていたのだということが、ようやくに分かったのです。


 もっと知りたかった。こうするほかなくなる前に、もっと彼のことを知りたかった。わたくしたち、くるしみやかなしみはすべて分かちあおうと、あれほどに誓ったのに。


 わたくしはおいていかれる恐怖にかられて必死にユルスの名を呼びましたが、自身も口をつけた毒で舌がもつれてしまい、それはうまく声になりませんでした。

 ユルスは息のできない様子で少し困ったような顔を浮かべて、それから、それから――。




 後のことは、あなたさまも存じあげるとおりです。

 夫は国家反逆罪に服して自殺という名誉ある死を遂げたということになり、夫のお仲間も大勢が逮捕されて追放刑に処されたということでした。

 一方、叔父に連れていかれたユリアは、しばらくしてやはりローマを追放され、人知れず絶海の孤島へと流されたと聞きました。

 多少なりとも毒を服用して昏倒していたわたくしは、ことのすべてが終わってしまったあとに、運びこまれていた妹の家でようやく目を覚ましたのでした。


 ぼんやりと目を開いたわたくしの前で、妹はみるみるうちに顔をくずして泣きじゃくり、生きていて良かった、本当に良かったと、何度も言ってくれました。普段冷静沈着なこの妹にしてはとてもめずらしいことで、わたくしはきょとんとしながら驚いたものです。

 でも、そうやって泣きながら胸に抱きつかれているうちに、鈍いだるさの残るからだに妹のじんわりとしたあたたかさが伝わってきて、わたくしにもしだいに生きている実感というものがわいてきました。

 それはとりもなおさず、いとこを見捨て、夫をこの手で殺し、ただ一人だけ生き残ってしまったという、うちのされれるような現実でもありました。


 ほんとうに。


 ほんとうになんという。


 堕ちに堕ちたすえに最後にすがったゆがんだ絆さえも、わたくしは自らの手で断ち切ってしまったのです。

 あとにのこっているのは、孤独という、果てない恐怖。


 わたくしはその恐怖にふるえる手で顔をおおい、ありったけの絶望をこめて絶叫したのです。

 妹はそんなわたくしの肩をだいて、わたくしの気が済むまで寄り添っていてくれたのでした。




 しばらくして、わたくしの混乱がおさまったと見て取れたころでしょうか。妹もまた普段の落ち着きを取り戻して、先のような、わたくしが寝ている間に起きたことを淡々と話してくれました。


「家の者から、ユリアがあなたの家で拘束され、ユルス兄上もまた罪に問われているという話を聞いて、私はあなたが心配ですぐに家に行ったのです。そうしたら食堂で倒れているあなたとユルス兄上がいて…。においで、すぐに毒を飲んだのだと分かりました。兄上は既にこと切れておりましたが、あなたはまだ息があったので家の者に手伝ってもらって私の家に運ばせたのです。兄上の部屋で見つけた危険な手紙やらなにやらは、私の責任ですべて処分しておきました」

「きけんな…てがみ…?」

「ええ。ユルス兄上が国家反逆罪に問われたのは、何もユリアとの不義密通だけが理由ではありません。兄上とそのお仲間たちは、もうだいぶ前から叔父上を弑そうと画策していたようです。あなたが死なさなくても、いずれは罪に問われ断罪されることになったでしょう」


 わたくしは、そう、と言ったきり口をつぐみました。何を聞いても、もう驚くことはありませんでした。あまりにもいろいろなことがありすぎて、どこか感覚が麻痺してしまったのでしょう。

 ただ、これまでも問い続けてきた「なぜ」という単語だけが、ぽつんと胸に落ちてきただけでした。


 それを知ってか知らずか、妹はどこかさびしそうにほほえんで、わたくしにこう言いました。


「…私がこんなことを言うのは、姉上には酷かもしれませんが…。私には、ユルス兄上のお気持ちが、少しだけ分かるような気がするのです」

「それは、どういう」


 あれほど求めていたこたえを、彼女が知っているというのでしょうか。


 気が急いてつかみかからんばかりになったわたくしを押しとどめ、妹はかたわらに置いてあった葡萄水(パッスム)の杯をすすめてくれました。わたくしは杯を受け取りながら、その言葉とほほえみの意味を分かりかねて彼女にけげんな顔を向けました。

 すると、妹も少し緊張しているのでしょうか。自分の手にある杯を軽くあおってくちびるをしめらしてから、先をつづけたのです。


「私達の父上のこと、もちろん姉上もご存じですね?」


 わたくしはうなずきました。幼い頃には戦乱で命を落としたとだけ聞いておりましたが、この歳になればとうに真相を存じております。そう、妹やユルスの父、すなわちわたくしの義父はその昔、やはりあの叔父によって国家の敵と断罪され、追いつめられて自死したのです。


「私は、いつも矛盾に引き裂かれていました。もうおぼろにしか覚えてはおりませんが、私を抱き上げる大きかった父の手の力強い感触と、その父が亡くなったという事実。ましてや、祖国に弓引く反逆者としての死だということ。そして、幼かった私から父を奪った人が、自らの叔父であるということ。その人こそが、今この国で最も重んじられているという現実…。でも、何にもましてそのことに苦しんだのは母上で…その母上が全てを受け入れて口をつぐむ以上、私には何も言うことができなかった。それはきっと、兄上も同じだったはず。いえ、もしかしたら私よりもずっと…」


 こみあげてくる思いにのどがつかえたのでしょうか。妹はそこで言葉を切りました。重い沈黙がわたくしたちの間に横たわっていました。


 妹の言葉を聞いてふとわたくしの脳裏によぎったのは、母が亡くなった時のユルスの後ろ姿です。

 微動だにせず、冷たくなった母の死に顔をいつまでも飽くことなく見つめていたユルスの。


 その母は、ユルスにとっては本当の母ではありません。

 ユルスの実母はとても苛烈な方で、わたくしが生まれる前に、やはり叔父に戦を挑んだあげくに亡くなったと聞いております。その上、父もまた妹が語ったように反逆者として死んだのです。ユルス自身、肩身が狭いどころか、死の危険さえもあったにちがいありません。それでもなお実の子同然としてかばい育ててくれた母に、彼はきっと深く感謝し、そして愛してもいたのでしょう。しかし一方でその母こそは、彼の両親を殺した人の姉に他ならないのです。

 その矛盾は、どれほど彼の心を引き裂いたことでしょう。女の身であれば、まだ比較的世間の目から隠れていられます。しかしユルスは、自ら好むと好まざるとにかかわらず、表舞台に立って生きていかなければならなかったのです。憎むべき、ただ一人の人の治めるこのローマで。

 事情は分かっていました。いえ、分かっているつもりでした。でも、妹の口から改めてそのことを聞いてみると、わたくしはやはり何も分かっていなかったのだという思いに打ちのめされたのです。


 わたくしは、怖かった。ずっと、その矛盾に触れることが、怖くて。

 ユルスとはその話はするまいと、無意識のうちにずっと避けてきたのでした。

 わたくしが最後までユルスのことを理解できなかったのは、わたくし自身の臆病さのためだったに違いありません。


「ユリアが…前に言っていたことがあるの。彼女もそれにユルスも、わたくしのことをうらやましく思っているって…」


 妹はかなしそうに眉をひそめると、深く嘆息しました。


「そうですね…二人から見たら、そうしたしがらみに縛られないあなたは、ひどくまぶしく見えたのかもしれません。でも、あなたもきっと別のしがらみに縛られていたのでしょう?」


 わたくしはうなずく代わりに妹から視線をはずし、ゆっくりと部屋の入り口のその向こうに目を向けました。

 そこにはあふれるような陽光に満たされた緑の生い茂るペリスティリウムが、切り取られた絵のように遠くに見てとれました。その絵の中にふと、ちいさな子が四人、歓声をあげながらとおりすぎていく光景がよぎった気がしたのです。


 二人の兄に、年下だけど勝気でませた女の子に、おいていかれそうになるもう一人の女の子がいて。


――まってよう。おいていかないで!

――はやく、はやくここまでおいでよ。

――まってるから大丈夫だよ。僕たち、ずっと一緒にいるって約束したんだから!


 それはとてもはかなくて、今にも光に溶けて消えてしまいそうなほど。


「まぶしく思っていたのは、わたくしの方だったのに…」


 ため息とともにもれた言葉は、そのまぼろしを追うかのように甘やかな風に運ばれて溶けていきました。




 結局、わたくしはそのまま妹の家で静養し、しばらくののちに叔父が用意していた嫁ぎ先へとひっそりと送られました。

 ええ、そう。それがこの家ですわ。

 わたくしにとっては三度目の結婚になりましたが、この見知らぬ方との結婚はわたくしになんの望みもよろこびももたらしはしませんでした。

 あら、いいえ、そんなこともないかしら。どんな夢も、恐れもいだきようがないこの平坦な生活こそが、もしかしたらわたくしが一番の望んだものだったのかもしれませんもの。

 あの、白い祭壇にきざまれた似すがたのように、つめたく色のないこの世界こそが、わたくしの――。






 わたくしのお話はこれでおしまいでございます。

 いかがでございましたか、詩人さま。いかなるうたにもうたいようがない、わたくしのせんのないお話は。

 あら、お顔の色が少々わるうございますね。さぞ大変な話を聞いてしまったとお思いでしょう。


 えっ、これはほんとうのお話なのか、ですって?


 さあて、このお話が真実のお話かどうかは、わたくし自身にももうわかりかねますわ。

 嘘かまことかの判別は、たくみに言葉あやつるうたい手でいらっしゃるあなたさまの裁量におまかせするといたしましょう。


(了)






<<登場人物のメモ>>

作中の登場人物はかなり意図的に個人名を伏せてみたので、こちらでネタバレ的にご紹介。「わたくし」からみた血縁関係で表記しています。


●わたくし(クラウディア) → (大)クラウディア・マルケッラ

 通常は(大)マルケッラと呼ばれることが多いですが、作中ではやはり意図的に特定されにくくするのと、語感をとって、氏族名の名前で呼んでます。クラウディオラは愛称。


●ユリア

 クラウディアのいとこ。アウグストゥスの娘。クラウディアやユルスと幼なじみという設定は創作です。


●ユルス → ユルス・アントニウス

クラウディアにとって血の繋がらない兄。アントニウスと彼の三番目の奥さんの子供。直接的にはユリウス・クラウディウス朝の誰とも血縁関係にありません。


●マルクス → マルクス・クラウディウス・マルケッルス

夭折したクラウディアの実兄。作中には名前しか出てこないです。ローマのマルッケルス劇場の名前の由来になった人。


●母 → オクタヴィア

アウグストゥスの姉、アントニウスの四番目の奥さん。アントニウスとの間にできた子供の他に、自分が他の夫との間にもうけた子、アントニウスが他の女性との間にもうけた子供をすべて引き取って育てていました。


●義父 → マルクス・アントニウス

ユルスとアントニアにとっては実父になる。作中では話の中にしかでてこないです。アウグストゥスに敗れ、エジプトで自死。


●妹 → (小)アントニア

アントニウスとオクタヴィアの子供。クラウディアにとっては半分だけ血の繋がった妹。


●叔父 (プリンケプス) → アウグストゥス

ユリアの実父。子がユリアしかいなかったため、政略結婚を繰り返して跡継ぎを得ようとしていました。


●叔父の友人、クラウディアの最初の夫 → アグリッパ

アウグストゥスの無二の友人。彼の政略結婚に協力してクラウディア、ユリアと結婚しました。


●ユリアの三番目の夫 → ティベリウス・クラウディウス・ネロ

アウグストゥスの義理の息子。妻ヴィプサニアと離婚してユリアと再婚したが、のちに破綻。


●ユリアの夫になった人の元妻 → ヴィプサニア・アグリッピナ

アグリッパとクラウディアより前の妻との間に生まれた子で、クラウディアにとっては義理の娘になる。それで仲良しなことにしてみました。


●詩人 → ?

のちのクラウディアが話を語って聞かせている相手。最初はいちおうイメージした人がいましたが、あんまり関係なくなってきて、結局誰でもない感じになりました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ