歴史を取り戻す悪役令嬢は、予言書の結末を書き換える 滅亡する国の女王として、わたくしの名が記されているそうですが
世界中の人々が受け継いだ、新しい時代の力だった。
誰かの言葉を、身分だけで真実だと信じないこと。
美しく整えられた物語ほど、その陰に消された名前がないか確かめること。
そして、自分たちの未来を一人の英雄へ預けないこと。
エミリア・フォン・アルヴェインが女英雄アルマの名誉を取り戻してから、五年が過ぎた。
二十三歳となったエミリアは、帝国歴史院でもっとも若い副院長に就任していた。
もっとも、本人は肩書をあまり気に入っていなかった。
副院長となってから、研究以外の仕事が増えたからだ。
届いた資料の確認。
各国の研究者との交渉。
予算の申請。
新人研究員の採用。
そして、祖母セレスティアと母リディアを題材にした、あまりにも誇張された物語への訂正依頼。
「おばあ様が王宮を一晩で焼き払ったことになっております」
エミリアは一冊の娯楽小説を机へ置いた。
向かいに座るリディアが首をかしげる。
「燃やしてはいないはずです」
「燃やしておりません」
「差し押さえただけです」
「普通は、そちらも十分に大事件です」
本の中のセレスティアは、銀色の炎を操る大魔術師になっていた。
婚約破棄を宣言された直後、怒りによって王宮を焼き、国王を一撃で倒し、三万人の軍勢を従えて帝国へ攻め込んだことになっている。
事実と一致するのは、銀色の髪と婚約を破棄されたことだけだった。
「物語としては面白いですね」
リディアがページをめくる。
「歴史書の棚へ置かれていたのです」
「それはいけません」
「ですから、娯楽小説の棚へ移しました」
「販売停止にはしないのですか?」
「創作であることを明記するなら、物語まで取り上げるつもりはございません」
エミリアは本の表紙を見た。
『炎の悪役令嬢セレスティア』
本人が読んだら、どのような反応をするだろう。
「おばあ様へお見せしますか?」
「喜ぶと思います」
「本当に?」
「以前、ご自分の人生を題材にした舞台を三回もご覧になりました」
「三回も?」
「一回目は内容を楽しむため。二回目は史実との違いを探すため。三回目は主演の方へ花を贈るためだそうです」
いかにも祖母らしい。
事実と創作の違いさえ明確なら、物語を楽しむ心も持っている。
ただし、劇中で使われた偽物の契約書については、条文の不備を二十七か所も指摘したらしい。
「おばあ様は、今日は?」
「庭で曾孫たちへ帳簿の読み方を教えています」
「まだ五歳ですよ」
「だから足し算からだそうです」
セレスティアは九十歳を越えていた。
歩く際には杖が必要となり、長時間の旅行もできなくなった。
それでも頭脳は衰えていない。
家族が集まれば子どもたちの話へ耳を傾け、訪ねてきた研究者へ鋭い質問を投げかける。
ただし、もう自分から事件へ関わろうとはしなかった。
「若い方々の仕事を、年寄りが奪ってはいけません」
それが、近頃のセレスティアの口癖だった。
もちろん、本当に困ったときには相談に乗る。
だが、答えそのものは教えない。
自分で考え、失敗し、次へ生かす機会を若者から奪わないためである。
「副院長!」
執務室の扉が勢いよく開いた。
若い研究員のニコが、息を切らして立っている。
「大変です。至急、地下修復室へお越しください」
「走ってはいけないと、何度申し上げましたか?」
「申し訳ございません。ですが、本当に大変なのです」
「何が見つかったのです?」
ニコは一冊の黒い本を抱えていた。
表紙には題名も、著者名もない。
「この本に、副院長のお名前が書かれています」
「わたくしの?」
「はい」
ニコは震える指で、本の最後のページを開いた。
そこには、見慣れない文字で短い文章が記されていた。
それでもエミリアには読めた。
古代帝国語だった。
『銀暦八百十二年、帝国最後の女王エミリアは反乱軍によって処刑された』
エミリアは文章を二度読んだ。
現在は銀暦七百九十七年。
本に記された年は、十五年後である。
「帝国最後の女王?」
リディアが娘の背後から本をのぞき込む。
「あなたは女王になる予定でしたか?」
「初耳です」
「処刑の予定は?」
「もちろんございません」
ニコは顔を青くしたままだった。
「それだけではありません」
彼は数ページ前を開いた。
『女王エミリアは歴史を改ざんし、アルヴェイン家を世界最古の王家と偽った』
別のページ。
『反対する歴史家を処刑し、各国の記録を焼き払った』
さらに別のページ。
『祖母セレスティアと母リディアの名を神聖化し、アルヴェイン家へ逆らう者を悪人とした』
エミリアは眉を寄せた。
「ひどい内容ですね」
「落ち着いている場合ですか?」
ニコが声を上げる。
「副院長が独裁者になり、帝国を滅ぼすと書かれているのですよ!」
「書かれているだけです」
「でも、未来の記録かもしれません!」
「なぜ、そのように思うのです?」
「この本は、触れた人間の魔力へ反応して文章が増えるのです」
ニコが本へ触れた。
何も書かれていなかったページに、黒い文字が浮かび上がる。
『研究員ニコは女王の命令に従い、三百冊の歴史書を焼いた』
ニコは慌てて手を離した。
文字は消えない。
リディアが本へ触れる。
今度は別の文章が現れた。
『リディア・フォン・アルヴェインは娘を女王にするため、帝国議会を解散させた』
「まあ」
リディアは珍しい昆虫でも見つけたような顔をした。
「わたくしも、ずいぶん忙しくなるようですね」
「お母様まで落ち着きすぎです」
エミリアは本の材質を調べた。
紙は植物の繊維ではない。
薄く加工された魔獣の皮だ。
文字には、魔力を記憶する特殊な墨が使われている。
「どこから見つかったのです?」
「女英雄アルマに関する未整理資料の箱です」
「カレドニア王国から届いたもの?」
「はい。ただし、五年前に届いた時点では、この本は入っていなかったはずです」
「記録は?」
「搬入品の目録にはございません」
「では、最近何者かが入れた可能性があります」
「未来から現れた可能性は?」
「それを考えるのは、現在の可能性をすべて調べてからです」
リディアが本を閉じようとした。
しかし、閉じる直前に新しい文章が現れた。
『すべての始まりは、十五日後に開かれる記憶の門であった』
その下には、場所が記されている。
帝国北西部、忘却の谷。
エミリアは地図を思い浮かべた。
忘却の谷には、古代帝国の遺跡がある。
千年以上前、人の記憶を石へ保存する魔術が研究されていた場所だ。
現在は帝国歴史院の管理下にあり、許可なく立ち入ることはできない。
「十五日後、遺跡では何が行われる予定です?」
リディアが尋ねる。
「大規模な発掘調査です」
エミリアはすぐに答えた。
「古代帝国の記憶保管庫が見つかったため、封印を開く予定になっています」
「責任者は?」
「わたくしです」
部屋が静まり返った。
未来を記したかもしれない本。
十五年後に独裁者として処刑されるエミリア。
そして、その始まりとなる記憶の門。
罠である可能性は高い。
それでも無視はできない。
古代帝国の遺跡には、これまで知られていなかった歴史が残されているかもしれない。
「発掘を中止しますか?」
ニコが尋ねる。
「いいえ」
「本に書かれた未来が、本当になるかもしれないのですよ」
「中止すれば何が起きないのか、わたくしたちには分かりません」
「では、予定どおり開くのですか?」
「開く前に、この本が誰によって歴史院へ持ち込まれたのか調べます」
エミリアは本を証拠袋へ入れた。
「さらに遺跡の警備を増やし、封印を開く手順を最初から確認します」
「もし、本当に未来が見えたら?」
エミリアは少し考えた。
「未来も歴史と同じです」
「同じ?」
「書かれているからといって、正しいとは限りません」
リディアは娘を見て、わずかに微笑んだ。
「調査団は、ご自分で選びますか?」
「はい」
「わたくしは?」
「帝都へ残ってください」
今度はリディアが目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「お母様がいらっしゃれば、わたくしは迷うたびに答えを求めてしまいます」
五年前なら、それを認めることすらできなかった。
今のエミリアは、自分が母へ頼りたくなることも、それが悪いことばかりではないことも理解している。
けれど今回は、自分が責任者だった。
「ただし、連絡はいたします」
「もちろんです」
「こちらで、この本の出所を調べてください」
「承知しました」
リディアは黒い本を見た。
「請求書は?」
「未来のわたくしへ請求するのですか?」
「未来を偽造した方がいるなら、その方へ」
「調査費用だけでも、かなりの額になりますね」
「では、持っていきなさい」
エミリアは苦笑した。
アルヴェイン家の伝統は、断ろうとしても鞄へ入り込むらしい。
十三日後。
エミリアは忘却の谷に到着した。
同行者は、魔術史家レオン。
国際騎士団のセシル。
若い研究員ニコ。
そして古代魔術を専門とする双子の姉弟、ミラとロイだった。
谷の入口には、巨大な石門が立っている。
表面には無数の人名が刻まれていた。
王や英雄だけではない。
農民。
職人。
兵士。
教師。
名もなき人々の人生が、この先に保存されているという。
「ここが記憶の門です」
ミラが説明する。
「門を開けば、内部の記憶石へ接続できます」
「記憶は事実そのものなのですか?」
エミリアが尋ねる。
「いいえ」
答えたのは弟のロイだった。
「記録されているのは、その人物が見聞きした内容です」
「つまり、思い違いや嘘も含まれる?」
「はい。誰かが空を赤いと思って記録すれば、事実が青くても、その人の記憶では赤く見えます」
ニコが黒い本を見た。
「では、遺跡に未来の記憶が保存されている可能性は?」
「古代帝国にも、未来を見る魔術は存在しました」
ミラが答える。
「ただし、見えるのは可能性の一つです。確定した未来ではありません」
「本に書かれた未来も?」
「遺跡から情報を得た者が作ったのであれば、可能性にすぎません」
エミリアは黒い本を開いた。
谷へ到着してから、文章が増えている。
『エミリアは門を開き、全世界の記憶を手に入れた』
『彼女は人々の秘密を利用し、王たちを従わせた』
『真実を守るためと言いながら、都合の悪い記憶を消した』
「まるで、扉を開けるよう勧めているようですね」
セシルが言う。
「滅亡の原因だと書きながら?」
「危険だと言われるほど、中身を確かめたくなるでしょう」
エミリアは本を閉じた。
誰かが自分を遺跡へ誘導している。
未来への恐怖だけではない。
歴史家としての好奇心も利用して。
「今日は門を開きません」
ニコが驚いた。
「中止するのですか?」
「いいえ。予定を一日遅らせます」
「なぜ?」
「本には、明日開くと書かれています」
エミリアは門を見上げた。
「書かれた未来と違う選択をしたとき、この本がどう変化するか確認します」
その夜。
黒い本の文章が、初めて消えた。
『十五日後に開かれる記憶の門』という一文が薄れ、代わりに別の文章が浮かび上がる。
『女王は恐怖に負け、門を開かなかった。帝国は真実を失った』
「内容を変えてきました」
ニコが声を震わせる。
「まるで、こちらを見ているようです」
「未来を記録しているのではありません」
エミリアは確信した。
「わたくしたちの選択に合わせ、物語を書き換えているのです」
「誰かが現在、この本を操作している?」
「その可能性が高いでしょう」
ミラとロイが本を囲み、魔力の流れを調べる。
文字が浮かぶ際、本から細い魔力の糸が伸びていた。
糸は記憶の門ではなく、谷の北側へ続いている。
一行は夜明けを待ち、魔力の糸を追った。
岩山の陰に、地図へ記されていない小さな神殿がある。
内部には、記憶石を加工するための工房が作られていた。
壁一面に並ぶ黒い本。
一冊だけではない。
数百冊もあった。
それぞれの表紙には、各国の王族、貴族、官僚、商人の名前が記されている。
机の上には、送付先の一覧があった。
『国王が読めば、反乱の未来を示す』
『王妃が読めば、王太子に裏切られる未来を示す』
『将軍が読めば、国王に処刑される未来を示す』
『互いへの疑いを育て、記憶の門を開かせる』
エミリアは文書を読み終えた。
「目的は、わたくし一人ではなかったのですね」
各国の権力者へ、異なる予言書が送られている。
読む者がもっとも恐れる未来を示し、他人への疑いを抱かせる。
そして、未来の真相を知りたいと願わせ、忘却の谷へ集める。
「誰が、このようなことを?」
工房の奥から拍手が聞こえた。
白髪の男性が、ゆっくり姿を現す。
歴史院の前院長、オルフェンだった。
十年前に引退し、消息を絶っていた人物である。
「さすがはエミリア副院長」
彼は満足そうに笑った。
「あなたなら、ここまでたどり着くと思っていた」
「黒い本を歴史院へ置いたのも、あなたですか?」
「そうだ」
「何のために?」
「世界から嘘をなくすためだ」
オルフェンは記憶の門がある方角へ腕を広げた。
「門の奥には、過去だけでなく、現在を生きるすべての人間の記憶へ接続する装置がある」
「そのような術式は、禁止されています」
「だからこそ、千年前の帝国は滅んだ」
「ご存じだったのですね」
「わたしは四十年、この遺跡を研究した」
オルフェンの目には、熱に浮かされたような光があった。
「人間は嘘をつく。記録を改ざんし、功績を奪い、罪を隠す。だが、すべての記憶を公開すれば誰も嘘をつけない」
「記憶は事実ではございません」
「すべて集めれば事実になる!」
「同じ出来事を見ても、人によって記憶は違います」
「多数の記憶を比較すればよい!」
「では、少数の者しか見ていない出来事は?」
「その者たちの記憶を調べる!」
「本人が見られたくない記憶も?」
「真実のためだ!」
エミリアはオルフェンを見た。
彼もまた、歴史を正しく残したいと願った人間だった。
最初から世界を支配したかったわけではないのだろう。
記録を改ざんする王家。
証拠を隠す神殿。
功績を奪う英雄。
そうした者たちを長年見続け、誰も嘘をつけない仕組みを求めるようになった。
「黒い本に書いた未来は、真実ではありませんね」
「可能性だ」
「あなたが望む方向へ、人々を動かすための物語です」
「必要な嘘だ!」
「嘘をなくすために、嘘を使ったのですか?」
オルフェンの笑みが消える。
「大きな真実を守るためには、小さな偽りも必要だ」
「その言葉を、これまで何人の権力者が使ったでしょう」
エミリアは黒い本を掲げた。
「女英雄アルマの名を消した王家も、国の安定のためだと言いました」
「同じにするな!」
「何が違うのです?」
「わたしは、自分の利益を求めていない!」
「目的が正しければ、方法は問わないと?」
「そうだ!」
オルフェンは叫んだ。
「あなたも理解しているはずだ! 真実が奪われる苦しみを!」
「ええ」
「ならば、わたしとともに門を開け!」
「お断りいたします」
即答だった。
「なぜだ!」
「誰かの記憶は、わたくしの所有物ではないからです」
「真実を知りたくないのか!」
「知りたいです」
エミリアは正直に答えた。
「世界中の失われた歴史。隠された記録。奪われた名前。すべてを知りたい」
オルフェンの顔に期待が戻る。
「ならば」
「ですが、知りたいというわたくしの欲望に、他人の心を差し出させる権利はございません」
期待が消えた。
「真実は、暴けばよいものではありません」
エミリアは五年前、アルマの記録を見つけた日のことを思い出した。
歴史を正すことで傷つく者もいた。
弟アルバート。
王女エレナ。
秘密を守り続けた王家の子孫。
彼らの過ちを記録しながら、その苦しみまで単純な悪意へ変えないよう、何度も資料を読み直した。
「真実を知る者には、それをどのように扱うかという責任がございます」
「弱者を守るために、事実を隠すというのか!」
「いいえ。本人が語る機会を奪わないと申し上げています」
「甘い!」
オルフェンは懐から銀色の鍵を取り出した。
記憶の門を開くための制御鍵だった。
「あなたが協力しないなら、わたし一人で開く!」
彼が神殿の奥へ走る。
床には、忘却の谷へ続く地下道があった。
セシルが追う。
しかし工房の壁から、記憶石で作られた人形が現れた。
数十体。
過去の兵士たちの動きを記憶し、再現する魔法人形である。
「エミリア様、下がってください!」
セシルが剣を抜いた。
人形たちは息の合った動きで襲いかかる。
一体ずつの力は強くない。
だが、何百年分もの戦い方を記憶している。
セシル一人では守りきれない。
エミリアは黒い本が並ぶ棚を見た。
本から人形へ魔力の糸が伸びている。
「ニコ。すべての本を閉じてください!」
「燃やさなくてよいのですか?」
「中には、だまされた方々の記憶も記録されています。破壊してはいけません!」
エミリアとニコが手分けして本を閉じる。
一冊閉じるたび、人形の動きが鈍くなる。
ミラとロイは魔力の糸を切断した。
最後の一冊が閉じられると、人形たちは床へ崩れ落ちた。
一行は地下道を走った。
記憶の門へ戻ったとき、オルフェンはすでに鍵を差し込んでいた。
巨大な石門が、ゆっくりと開いていく。
内側から無数の声があふれ出した。
喜び。
悲しみ。
怒り。
後悔。
千年以上かけて保存された記憶が、形のない波となって谷へ広がる。
「止めてください!」
「もう遅い!」
オルフェンは笑った。
「これで、すべての嘘は終わる!」
門の奥に、巨大な水晶が浮かんでいる。
その表面へ、帝国中の人々の姿が映り始めた。
現在の記憶へ接続しようとしているのだ。
エミリアは門の碑文を読んだ。
『記憶を統べる者、歴史を統べる』
その下に、意図的に削られた文字がある。
「レオン。光を!」
光を斜めから当てると、削られた文章の跡が浮かんだ。
『されど一人の記憶を真実と定めたとき、歴史は死ぬ』
この遺跡を作った古代人も、危険性へ気づいていた。
だから門を封じた。
「オルフェン前院長!」
エミリアが叫ぶ。
「水晶は、すべての記憶を公開する装置ではありません!」
「何?」
「記憶を統合し、一つの歴史へ作り変える装置です!」
複数の人間が異なる記憶を持っていた場合、水晶はもっとも強い記憶を正しいものとして残す。
弱い記憶は消される。
つまり、真実を明らかにする装置ではない。
多くの人間の記憶を、一人の物語へ塗り替える装置だった。
それこそ、オルフェンがもっとも嫌っていた歴史の改ざんである。
「嘘だ!」
「碑文をご覧ください!」
「古代人が失敗を恐れ、後から加えた警告だ!」
「警告を無視する根拠は?」
「わたしは四十年研究した!」
「それは根拠ではなく、経歴です!」
水晶が強く輝く。
オルフェンの記憶が、装置の中心へ流れ込んでいく。
彼は鍵を持つ者。
装置は彼の記憶を、もっとも強い基準として選んだ。
帝国中の歴史が、オルフェンの知るものへ書き換えられようとしていた。
「止め方は?」
セシルが叫ぶ。
ミラとロイが門の術式を調べる。
「鍵を抜くだけでは止まりません!」
「では?」
「装置へ、単一の歴史を選べないほど多くの矛盾を与える必要があります!」
エミリアは門の前へ進んだ。
「わたくしが入ります」
「危険です!」
「歴史院にある記録を、わたくしは誰より多く読んでいます」
同じ戦争について、勝者が書いた記録。
敗者が書いた記録。
兵士の日記。
民間人の手紙。
自分だけが英雄だと語る王。
自分は何もしなかったと語る農民。
それぞれ異なり、それぞれに事実の一部がある。
エミリアは水晶へ触れた。
無数の記憶が流れ込んでくる。
セレスティアは王国を滅ぼした悪女。
セレスティアは国を救った聖女。
セレスティアは自分の財産を守った公爵令嬢。
どれも一面では正しく、一面では足りない。
リディアは王家を追放した侵略者。
リディアは国民へ財産を返した改革者。
リディアは婚約者へ捨てられた令嬢。
同じ人物に、いくつもの物語がある。
女英雄アルマ。
弟アルバート。
王女エレナ。
氷公爵ヴィオラ。
偽物の聖女マリアンヌ。
彼女たちを一つの言葉で説明することはできない。
善人。
悪人。
英雄。
悪役。
どの呼び名も、その人のすべてではなかった。
「歴史は、一冊の本ではございません」
エミリアは水晶へ告げた。
「一人の記憶でも、一つの結論でもない」
水晶に亀裂が走る。
「矛盾を消してはいけません」
亀裂が広がる。
「異なる記録を残してください。後の者が調べ、考え、自分で結論を選べるように」
水晶の光が揺らいだ。
オルフェンが叫ぶ。
「それでは、誰も真実へたどり着けない!」
エミリアは振り返った。
「簡単には、たどり着けないでしょう」
「ならば意味がない!」
「簡単な答えを用意するために、複雑な人生を削ってはなりません」
「人々は迷うぞ!」
「迷う権利がございます」
「間違える!」
「次に確かめる機会を残します」
水晶が砕けた。
だが爆発はしなかった。
無数の小さな結晶へ分かれ、床へ降り注ぐ。
一つの巨大な記憶装置は失われた。
代わりに、個々の記憶を保管する小さな石が残った。
誰か一人が、全員の歴史を支配することはもうできない。
オルフェンはその場へ膝をついた。
「四十年だ」
彼は砕けた水晶を見た。
「四十年、この装置を探した」
「はい」
「お前は、それを壊した」
「壊したのではありません」
エミリアは足元の小さな記憶石を拾った。
「一つだったものを、元の持ち主へ返したのです」
「世界から嘘をなくせたのに」
「嘘をつけない世界が、正しい世界とは限りません」
「なぜだ」
「誰にも見せたくない悲しみもございます。言葉にする準備ができていない痛みもございます」
エミリアは静かに続けた。
「それを無理に暴くことは、真実を守る行為ではありません。人の心を奪う行為です」
オルフェンは何も答えなかった。
彼は拘束された。
工房で作られた黒い本も、すべて回収された。
各国へ送られた予言書については、歴史院と法務院が共同で調査し、内容が人々の選択によって変化する仕組みを公表した。
すでに本を信じ、家族や家臣を疑い始めていた王族もいた。
だが、破滅の未来が確定しているわけではないと知り、多くは行動を止めた。
一方、自分に都合のよい予言だけを信じ続けた者もいる。
そうした者たちは、それぞれの国で法に従って調査されることになった。
エミリアは帝都へ戻った。
歴史院の玄関には、リディアが待っていた。
「お帰りなさい」
「戻りました」
「女王には?」
「なりませんでした」
「処刑は?」
「されておりません」
「帝国も?」
「滅びておりません」
「それは何よりです」
リディアは娘の顔を見た。
頬には小さな傷がある。
目の下には疲労の色。
それでも、自分で選び、自分で戻ってきた者の表情をしていた。
「本はどうなりました?」
エミリアは黒い本を取り出した。
最後のページには、以前とは違う文章が現れている。
『銀暦八百十二年、エミリアは帝国最後の女王とはならなかった』
その下には、まだ空白が残されていた。
「未来が消えたのですね」
リディアが言う。
「いいえ」
エミリアは首を横へ振った。
「まだ書かれていないだけです」
「ご自分で書きますか?」
「一人では書きません」
エミリアは歴史院の中を見た。
研究員たち。
修復師。
書記官。
搬入された資料を運ぶ者。
遠い国から学びに来た学生。
歴史は、誰か一人が書くものではない。
未来も同じだった。
「多くの方々と、それぞれの人生を書いてまいります」
「良い答えです」
リディアは微笑んだ。
「ところで、請求書は使いましたか?」
エミリアは鞄から一枚の書類を出した。
予言書の製作費。
遺跡の修復費。
各国へ調査官を派遣した費用。
工房で破壊された資料の修復費。
合計、二百四十六万金貨。
「オルフェン前院長へ請求しました」
「返済能力は?」
「ほとんどございません」
「では、労働ですね」
「どうして嬉しそうなのですか?」
「伝統が受け継がれて安心しただけです」
オルフェンには、歴史院の監督下で記憶石を整理する仕事が与えられた。
彼が求めた、世界中の記憶だった。
ただし、勝手に公開することはできない。
一つずつ持ち主を調べ、返還の意思を確認し、本人が許可したものだけを記録する。
世界のすべてを一度に知ろうとした男が、一人の人生へ何日もかけて向き合うことになった。
最初のうち、彼は不満を口にした。
「時間がかかりすぎる」
監督官は答えた。
「人の人生ですから」
「すべて公開したほうが早い」
「あなたの記憶から、公開しましょうか?」
オルフェンは黙った。
彼にも、人に知られたくない記憶があった。
失敗。
嫉妬。
恥。
正義のためではなく、自分が世界最高の歴史家として認められたいと願った瞬間。
それらを勝手に見られることを想像し、ようやく自分が他人へ何をしようとしていたのか理解し始めた。
すぐに反省したわけではない。
何度も自分は正しかったと言い張った。
それでも毎日、誰かの記憶へ触れる前に許可を求める。
拒否されれば、諦める。
その当たり前の手続きを、少しずつ学んでいった。
数年後。
エミリアは帝国歴史院の院長に就任した。
彼女が最初に作ったのは、新しい法律だった。
個人の記憶は本人の所有物であること。
死者の記憶を公開する場合、遺族と歴史委員会の審査を必要とすること。
記憶は重要な資料だが、事実そのものとは扱わないこと。
異なる記憶を消さず、並べて保存すること。
それは、歴史を正しく残すためだけの法律ではない。
人が、自分の物語を奪われないための法律だった。
新しい記憶保管庫の入口には、エミリアの言葉が刻まれた。
真実を知る力は、他人の心を所有する権利ではない。
歴史を守るとは、一つの答えを残すことではなく、多くの声が消されない場所を残すことである。
セレスティアは完成した保管庫を訪れ、その文章を長い間眺めていた。
「おばあ様」
エミリアが声をかける。
「難しすぎるでしょうか?」
「いいえ」
セレスティアは杖をつきながら振り返った。
「あなたにしか書けない言葉です」
「おばあ様やお母様とは、違う道になりました」
「同じ道を歩く必要が、どこにあるのです?」
「悪役令嬢の伝統から、少し離れた気がします」
「未来の女王になるという予言へ逆らい、世界中の記憶を支配する力を壊したのでしょう?」
セレスティアは楽しそうに笑った。
「十分に悪役らしいではありませんか」
「誰にとっての悪役です?」
「人の秘密を勝手に奪いたい方々にとっての、です」
エミリアも笑った。
祖母は奪われた人生を取り戻した。
母は奪われた財産と権利を返した。
そして自分は、奪われかけた記憶と未来を守った。
役割は違う。
戦い方も違う。
それでも、三人が守ろうとしたものは同じだった。
誰かの都合によって、人の人生が勝手な物語へ書き換えられないこと。
自分の名前を、自分の選択を、自分の未来を、自分のものとして持ち続けられること。
黒い予言書は、歴史院の特別展示室へ収められた。
最後のページは、今も空白のままだった。
来館した子どもたちは、その空白を見て尋ねる。
「エミリア様の未来は、どうなったのですか?」
案内役は答える。
「まだ、誰にも分かりません」
「本にも?」
「ええ」
「では、誰が続きを書くの?」
案内役は微笑む。
「エミリア様ご本人と、同じ時代を生きるすべての人々です」
未来は予言書が決めるものではない。
英雄が一人で作るものでもない。
誰かから与えられた役を演じ続ける必要もない。
悪役令嬢の孫として生きてもよい。
その名から離れ、自分だけの役割を見つけてもよい。
最後の女王になる必要もない。
偉大な祖母や母を超える必要すらない。
エミリアは歴史院の窓を開けた。
春の風が入り込み、机の上に置かれた白紙の記録用紙を揺らす。
そこには、まだ何も書かれていない。
だからこそ、どのような未来でも選ぶことができる。
エミリアはペンを取り、最初の一行を書いた。
『これは、予言された滅亡を回避した英雄の物語ではない』
少し考え、次の行を加える。
『自分の未来を、誰か一人の物語にしなかった人々の記録である』
黒い予言書ではなく、自分で選んだ白い紙へ。
エミリアは新しい時代の記録を書き始めた。




