安物のブレスレットの男
「もう、終わりにしよう」
ミカはそう呟いて僕の腕の中で泣いた。
都内にあるボロい安アパートの一室。大学生の僕の家に、彼女は不釣り合いだった。
「なんで…?僕は君を愛してるのに」
思ったより陳腐な台詞が僕の口から溢れる。
「私も、愛してるわ」
彼女は愛おしそうに僕の頬を撫でる。
「だから、別れないと。あの人にバレたら貴方の未来がぐちゃぐちゃになるわ」
「僕が気にしないと言ったら?」
「私が気にするのよ」
僕は我慢ならず、彼女に口付けてベッドに押し倒す。
「嫌だ」
「楓くん、やめて…」
ミカは力なく言葉で拒んだ気がしたが、身体では僕を受け入れた。
ミカは涙とともに去っていった。
残された僕の手元には、精一杯背伸びしてミカにプレゼントした、ブレスレットが残された。
その夜、僕は賑わう繁華街に繰り出して無茶苦茶な飲み方を繰り返した。
そして、こんな最低な気分でなかったら、きっと入らなかったであろう、重厚な扉の前に立っていた。
【BAR失恋】
小さく書かれたその扉に魅入られるように、僕は扉を開けた。
チリンチリン、鈴の音が僕の入店を告げる。
背を向けていたマスターが、カウンターの向こうで振り向く。
「いらっしゃいませ」
そして、どこか痛むかのような、儚げな笑みを浮かべる。
「…何になさいますか?」
「酒ならなんでもいいです。強いやつを」
僕は投げやりにそう伝えて、カウンターの端の先に座る。先客は居ないようだ。
「では、ギムレットでいかがでしょう」
「それでお願いします」
出されたそれを、一口で飲み干す。
スッキリ冷たく、ジンのアルコールが喉を刺す。ライムの酸味が口に残り、先程のミカの涙が不意に甦る。
「…BAR失恋って、すごい名前ですね」
「よく言われます」
マスターは苦笑いでそう受ける。
「お客さまも?」
「…ついさっき、別れました…いや、始まってもなかったのかもしれない」
僕はミカのことを思い出す。
ミカとの出逢いは、大学の図書館だった。
レポートに必要な書籍を探している途中、同じ本を求めていたミカと手が触れた。
「あ、これですか?」
「はい。でも、どうぞ」
「いやいや、どうぞ」
譲り合いに発展し、二人は笑いあう。
一見して裕福な家庭の出だとわかった。身につけているものが、一つ一つ僕の持ち物とは格が違った。
二浪してその大学の法学部に滑り込んで入った僕と、ストレートでその大学の法学部に入ったミカは同い年の気安さで、すぐに惹かれ合った。
けれど、ミカには親が決めた婚約者がいた。
だから僕たちは自分たちの想いに蓋をした。
「…ずっと線を越さずにいたんですね」
四十代後半だろうか、マスターは思慮深く呟いた。
気付けばお代わりを頼んで、マスターに身の上語りをしてたらしい。僕はそれに気付いて赤面した。
ギムレットをもう一杯飲み干して、お代わりを頼む。
今夜はどれだけ飲んでも、気分は良くならなかった。
「…そのままだったなら良かったんですけどね」
「…ああ、そうなんですね」
気付けば涙が零れている。初対面の相手にこんな打ち明け話をして、涙を流すなんて。
マスターはそっと、ハンカチを差し出してくれた。
「大丈夫です、マスター」
僕は服の袖で乱暴に涙を拭った。
と、チリンチリン、と扉の開く音がして、明るい女性の声が割り込んできた。
「マスター。こんばんは」
「海ちゃん、いらっしゃいませ」
「あら、お客さんだ。いらっしゃいませ」
常連客だろうか。海ちゃんと呼ばれたその女性は、溌剌とした小麦色の肌、アーモンド型の瞳が魅力的で、気安く僕の横に腰掛ける。
「終電逃しちゃった。朝まで居させて、マスター」
「ここは宿じゃないんだけどな」
マスターは困ったような笑顔を浮かべつつ、まんざらでもなさそうだった。
「お兄さん、お兄さんも、失恋したの?」
「いや。まぁ…」
「マスターについ話しちゃうのよねぇ。泣いたりなんかしちゃって」
海ちゃんはくすくす笑う。僕の頬に流れる涙の跡に気付いてるようだ。
「じゃあ、きみも?」
「うん。あ、でも泣くほど失恋したのは三年前のこと。聞きたい?」
「…今は、いいや」
僕は自分のことをもう少し語りたくなっていた。時計を見ると、始発までまだたっぷり時間がある。
「マスター、ウイスキー、ロックで」
「わたしも」
「はい」
ロックグラスが二つ並び、丸い氷と琥珀色の液体が注がれる。
カラン、と氷の音がして、僕の記憶が呼び覚まされる。
「あの日も僕は、こうやってウイスキーを、飲んでた…」
その日の僕は荒れていた。
突然届いた結婚式の招待状。ぐしゃぐしゃにして、ゴミ箱へ突っ込んだ。
ミカの結婚式なんて、どんな顔したって行けない。
そしてウイスキーをロックで煽る。
成瀬憲剛。そのルックスも相まってお茶の間にも人気がある新進気鋭の法律家。
それが、ミカの婚約者だった。そして、未来の旦那。
今は司法試験の勉強をするくらいしか脳がない自分が、勝てる筈もない相手。
ミカは大学卒業後、成瀬の構える事務所でパラリーガルとして働きながら、司法試験の勉強を続けていた。
しかしミカの実家の家業が傾き、婚約者たる成瀬からの資金援助が必要になり、結婚の予定が前倒しになった。
僕もミカも、将来について多くは語らなかった。けれど互いに司法試験合格という夢を叶えた暁には結ばれるんじゃないか、という願望を、二人は持っていた筈だと、僕は思う。
それが破れたのが、この結婚式の招待状に詰まっていた。
“今、会えない?”
ミカからラインが来た。
僕は自暴自棄になって、ミカの元へ向かった。
その日のミカは、満たされて幸せそうな横顔をしていた。
だから僕は、ささくれだった気持ちが少し落ち着いていくのを感じた。
好きな人が満たされていれば、それでいい。
「結婚式、来てほしいの。せめて、わたしの一番綺麗なところを、楓くんにも見てほしい。なんてわがままかな?」
「…わがまま。でも、いいよ。行くさ」
ミカはロックグラスを掴んだままの僕の手に、自分の白い手を重ねた。
「……ありがとう」
「それで?のこのこ結婚式に行ったの?」
海ちゃんの声で僕は我に返る。
「…ああ、なんとか。行ったよ」
「すごーい。好きな人の結婚式とか…怖っ」
海ちゃんは一瞬、誰かの結婚式を想像したらしい。例の三年前の失恋の彼だろうか。ぶるる、と身震いして嫌がる。
「凄く綺麗だった、ミカは」
白く発光したドレス姿を思い出して、僕は目を細めた。
「旦那さんは?」
「めちゃくちゃカッコ良かったよ」
僕は自分を指差して笑う。
「僕なんか足元にも及ばないくらいね」
「ふーん」
海ちゃんは僕を見定めるように見ると、うんうんと頷いた。
「お兄さんも、カッコイイと思うけど」
「男のカッコ良さは見た目だけじゃ測れないんだよ。中身が伴わないと。地位とか名誉とかね」
「そうかな?」
海ちゃんもまだ学生なのだろう。頭にはてなマークが浮かんでいる。
「ここのマスターは地位も名誉も持ってないけど、カッコイイよ?」
「海ちゃんは、お世辞がうまいね」
マスターは苦笑いした。
「何かお作りしますか?」
「…ギムレットを、もう一杯」
「わたし、ハイボールで」
ポケットを弄ると、安物のブレスレットが手に触れる。ミカの置いていったブレスレット。
ここ半年間の幸せを凝縮したその象徴。
ギムレットの刺激が、僕の今日の痛みを呼び起こす。
“今君は、幸せですか?”
その痛みが、僕にラインを一通打たせた。
ミカへのラインだ。
返事が来る頃には、朝が来ているだろうか。
結婚式に参列した時、事もあろうに成瀬憲剛本人に、僕は目をつけられた。
悪い意味ではない。司法試験合格を目指し奮闘している点を評価され、事務所で働くよう言われたのだ。
当時僕は生活のために深夜帯のコンビニバイトをしていた。その回数を減らせるなら本望だし、なによりミカのそばにいられる。
結婚式でその幸せをまざまざと観察してなお、僕はミカへの気持ちを絶てずにいた。
「楓くん、こっちよこっち。資料見てる?」
「ああ、ごめんごめん。なんだって?」
その日はコンビニバイト明けに、成瀬法律事務所でバイトしていた。
ハッキリ言って眠くて仕方なかったのだ。
「もう、楓くんったら」
ミカの笑顔が眩しい。
…手を伸ばして、その髪に触れたくなる輝き。僕は精一杯自重していた。
「…楓くん。助けて」
「ごめんごめん、なにをすればいい?」
業務のことだと思って、僕は資料をめくりながらそう答える。
「楓くん…私を見て」
「ん?」
資料から目を上げると、ミカが泣いていた。
「な、成瀬に…」
「成瀬さんが、どうしたの?」
「…毎晩、言葉の暴力を受けてるの」
ミカの白い頬に、真珠のような玉のような涙が次々産まれて落ちる。
「…録音は?」
「あんな用意周到な人の前で、録音なんか出来やしないわ」
それもそうか、と僕は思った。弁護士として法曹界に名を轟かせる彼は、地位も名誉も一緒に喪うような行為はしないだろう。
「離婚するしか」
「実家の旅館が潰れちゃうわ。そんなことできない」
ミカの両親は地元で有名な高級旅館を経営している。けれど昨今の抜け出せない停滞気味の景気のせいで、度々経営難に陥っている。
成瀬は、その旅館に泊まったときに高校生だったミカを見初めて婚約したらしい。
「…でも……君の尊厳より、大切なこと?」
「従業員の人生も背負ってるのよ」
「暴力は?」
「…性行為そのものが、暴力みたいなものだわ」
「それは証明が難しいな」
僕は頭を抱えた。ミカを救う蜘蛛の糸が垂れてこないかと。
二人きりの会議室。重苦しい沈黙を破ったのは、ミカからのキスの音だった。
「…楓くんにできることは、ひとつしかないの」
「それって…」
「わたしを、見ていて…」
こんな悲壮なSOSを、無視することが出来ただろうか。
僕は今どこにいるかも忘れて、ミカにキスを返した。
「今夜、部屋に行くわ」
その日から、ミカの僕への逃避行が始まった。そして僕はそれを快く受け入れた。
週に一度か二度、ミカは仕事終わりに僕の家に来るようになった。
決してバレてはいけない、秘密の関係。
プラトニックに想いあっていた時期があったからこそ、それは燃え上がった。
カラン、と海ちゃんのハイボールから氷の音がして僕は現実に引き戻される。
ポケットから、ブレスレットを取り出す。自由という意味も持つ、ルビーがひと粒ついた、質素なブレスレット。
およそ実家が裕福で、今も人生の勝ち組と結婚しているセレブなミカには不釣り合いな安物のブレスレット。
「…それって…」
「ミカにはもう要らないみたいだ。今日泣きながら返されたよ」
「綺麗…」
海ちゃんが涙を浮かべながらそう呟いたとき、このブレスレットは宿命を果たしたのかもしれなかった。
始発までの時間に、海ちゃんは自分の生い立ちと失恋を大いに語ってくれた。
血の繋がりのない両親に育てられたこと、それを罵った夜に知り合ったプロのサーファーを目指していた彼。
その彼との沼のような抜け出せない愛を遂に捨て、東京へ出てきたこと。それでも彼以上に輝く愛を見つけられずにいること。
結局、ミカからのラインの返信は来なかった。
「マスター、ギムレット、お代わりを」
始発前最後に頼んだそれを飲み干し、僕と海ちゃんは駅へ向かうために店の外へ出た。
そしてどちらからともなく、その扉の前でそっと口づける。
「…ほらね、お兄さん、カッコイイもん。モテるよね」
「海ちゃん、ごめん、僕…」
「じゃ。わたし、こっちだから!また会えたら、付き合ってあげてもいーよ」
にこやかに、しかし少し痛そうな笑顔で海ちゃんは去っていった。
僕はそれを引き止める術を持たなかった。




