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峡谷の岩トカゲ③

痛む全身に鞭打ち、最後の気力を込めて垂直の壁に指を突き立てた。


 指先に魔力を込め、岩を砕き、一歩ずつ。


 指が千切れそうな痛みに耐えながら、ようやく峡谷の縁に指をかけた。


「……はぁっ……はぁっ……!!」


 崖の上に這い上がると同時に、制限時間のタイマーが鳴るような絶妙なタイミング。


 そこには、月明かりの下で大量の大岩をピラミッドのように積み上げ、今まさにその一つを持ち上げようとしていたシンの姿があった。


「……チッ。あと数秒遅ければ、この特大の『目覚まし時計』をプレゼントできたのだがな。残念だ」


 シンは心底惜しそうに、抱えていた巨岩をドシンと地面に置いた。その振動だけで、心臓が口から飛び出しそうになる。


「……ハァ……ハァ……。ざ、残念……そうにするなよ……! こっちは……本気で……死ぬかと……」


「……そんなの投げ込まれたら、死んじゃうわよ……普通……。……あなた……悪魔ね……」


 零も隣に倒れ込み、肩で激しく息をしている。


 服はボロボロになり、泥と砂にまみれていたが、その瞳には過酷な試練を乗り越えた達成感が宿っていた。


「悪魔か。最高の褒め言葉だな。だが、今日一日で、お前らは確実に強くなった。特にカズト、お前の『来霆』。あれは、磨けば格上の相手ですら倒す逆転の切り札になるだろう」


 シンはそう言うと、初めて努力を認めるような、短くも力強い言葉をくれた。


「今日は終わりだ。城へ戻れ。セレナ様が、お前らの帰還を首を長くして待っているぞ。風呂を浴びて、明日に備えろ」


「……へへ、やっと……解放された……」


 夜空を見上げながら、泥だらけの手で零の手をそっと握った。


 昨日よりもずっと強くなった自分を、確かに感じていた。


「俺は先に帰ってるからお前らもさっさと走ってこい。この辺はあまり暗くなると夜行性の狡猾な魔物が獲物を狙って襲ってくるから、その状態だと死にかねんぞ」


 ……なんだか今日はずっと耳の調子が悪いなと思うカズトは、三度自分の耳を疑った。


 全身の筋肉は悲鳴を上げ、魔力回路は熱を持ちすぎて焼き切れそうな感覚。


 ようやく「死の崖登り」を終えたばかりのこの状況で、シンの口から出たのは慈悲の言葉ではなかった。


「なっ。待て、待て待て待て! ここから城まで、また数十キロあるよな!? 走る、しかも、魔物を相手にしながら!?」


「当然だ。戦場では、敵を倒した後に悠々と歩いて帰れる保証などどこにもない。むしろ、疲弊した状態こそが最も死に近い瞬間だ。帰路を駆け抜ける気力と体力がなければ、漁夫の利を狙ってくる相手に殺されるぞ。」


 シンは無慈悲に宣告し、城の方向を指差した。


「何度も言うが、限界を超えないと持続時間は伸びない。文句があるならさっきの岩を、今度は後ろから投げつけるぞ」


「ヒッ……! 本気だ、この人本気だよ……!!」


「カズト、喋るだけ無駄よ。……走るわよ! ここで潰されるくらいなら、走って死んだほうがマシだわ!」


 零は気力を振り絞り、膝を震わせながらも走り始めた。


 彼女の小さな背中を追うように、彼もまた、最後の一滴まで魔力を絞り出す。


「くっそぉぉ……! 覚えてろよ!あとシンさんはさっさと先に行って!大岩は嫌だ!」


 バチバチッ! と、青白い雷光が再び夜の闇を照らす。


 しかし、昼間のような輝きはなく、どこか儚く震える光だ。


 それでもカズトは、一歩一歩が鉛のように重い足を引き摺り、前へと踏み出した。


 月明かりの下、二人の影が夜の荒野を駆けていく。


(限界……? そんなの、もうとっくに超えてるんだよ! でも、零より先には絶対に止まらねぇ!)


 夜の帳が下りた城門。そこには、心配そうに外を見つめるセレナの姿があった。


 彼女の傍らには、シンに代わって護衛を務めるSランクの女性騎士が、月の光に剣を輝かせながら静かに控えている。


「まだ、戻られませんのね。もうこんなに遅い時間なのに……」


「ご安心を。シンがついていて、あの少年がそう簡単に死ぬことはありませんよ。  おや、見えましたよ」


 そこへ、ひと足先にシンが帰還した。


「シン! 二人はどうしたのですか!?」


「ご安心ください。まもなく到着する予定です。道端で倒れてなければですが」


「それは大丈夫なのでしょうか……」


「セレナ様、あれではないでしょうか?」


 女騎士が指差す先、暗闇の街道から、不規則に瞬く「青い火花」が揺れながら近づいてくるのが見えた。


 今にも消え入りそうな、けれど必死に夜を切り裂く執念の光――カズトの魔力だ。


「カズト!」


 彼は、もう一歩も上がらないはずの足を意地と気力だけで動かし、門をくぐった。


 その瞬間に、全身を覆っていた雷の光がパッと霧散した。


「……あ   」


 膝の力が抜け、前方に倒れ込む。


 しかし、地面に衝突する前に、柔らかい温もりと高貴な香りが彼を包み込んだ。


「お疲れ様でした、カズト。よく帰ってきましたね」


 セレナは泥と汗にまみれた彼を、自身の綺麗なドレスが汚れるのも厭わず、力いっぱい抱きしめた。


 その腕の中で、彼は自分がようやく「地獄」から生還したことを悟る。


「……セレナ……様。ちょっと、今……喋れない……」


「とても立派ですよ。見ていなくても、貴方が頑張ったのが伝わります。さあ、今日はもう頑張らなくていいのですよ」


 セレナの温かい体温を感じながら、深い安心感に包まれる。


 少し遅れて、同じくボロボロの零が門に辿り着き、女騎士に支えられながらその場に座り込んだ。


零はふらふらのカズトが襲われないように、後ろで魔物の相手をしながら走っていた。


「まぁ、ギリギリ合格だな。セレナ様、その小僧をあまり甘やかさないでいただきたい。」


 どこまでも厳しいシンの言葉に、セレナは少しだけ頬を膨らませて、彼を守るようにさらに強く抱きしめた。


「だめです!カズトは 頑張ったのですから、私がたくさん甘やかします! シンは厳しすぎです! よーしよし、本当によく頑張りましたね」


 セレナは慈しむような表情で、泥や砂にまみれた彼の髪を、白く柔らかな手で優しく、何度も撫でた。


 その手つきは母親のようでもあり、愛しい人を労う恋人のようでもある。


「(白目のカズト)」


 カズトはセレナの胸元に顔を埋めたまま、ほとんど気絶していた。


 ほぼ無意識の鼻をくすぐる甘い香りと、頭に伝わる優しい感触。


「……ちょっと、セレナ様。私だって……頑張ったんだから」


 隣でへたり込んでいた零が、ジト目で二人を見上げている。


「ふふ、もちろんですわ零。貴女もこちらへ。二人とも、今夜はわたくしがつきっきりでお世話して差し上げますからね。さあ、まずはこの泥を落としましょう? カズト、わたくしに掴まって」


 セレナは力強く彼を支え、ゆっくりと城内へと歩き出した。


「やれやれ。まあいい、死地から生還した後の安らぎも、精神の回復には必要か。おい、お前。手伝ってやれ」


 シンに促され、女騎士が苦笑いしながら零を抱え上げた。


「はいはい。お熱いことね。でも、ボロボロになるまで戦った男の顔は、嫌いじゃないわよ。お疲れ様、少年」


 月明かりに照らされた城の廊下を、カズトは半分夢心地のまま、セレナの体温を感じながら運ばれていった。


 彼が次に意識を取り戻したとき、そこには先ほどまでの暗い峡谷も、冷たい風もなかった。

地道な修行の繰り返しも今回でひと段落。

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