セレナとお風呂
「お見事でした、二人とも! シンにそこまでの真似をさせるなんて、期待以上です」
セレナがバルコニーから降りてきて、歩み寄る。
彼女の足音は、静まり返った訓練場に軽やかに響いた。
「今日はもう十分でしょう。シンの言葉通り、体得したばかりの魔力操作を定着させるためにも、ゆっくり休んでくださいね」
セレナは、痺れの残るカズトの頬にそっと手を添え、満足げに微笑んだ。
その掌の熱が、戦い終えたばかりの荒い呼吸を少しずつ鎮めていく。
だが、パッと名案を思いついたように零の方を振り返った。
「そうだ! 零さん、一緒にお風呂に入りましょう!」
「えっ!? 私が、王女様とですか!?」
思わぬ提案に、疲労困憊の零は目を丸くした。
「ええ。あなたも今日はかなり無茶な動きをしていましたから。私の専用浴場には、魔力回復を促す特別な香油や薬湯も用意させています。女性同士、ゆっくり汗を流しながらお話ししましょう?」
セレナは零の手を優しく、それでいて拒絶を許さない力強さで取った。
「彼は、シンに部屋まで送らせますわ。安心してください。零さんのことは私が責任を持って、ぴかぴかに磨き上げて差し上げますから」
(ぴ、ぴかぴかって……)
戸惑っている間に、セレナは楽しげに零を連れて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って! あんた、変なこと考えたら承知しないからね! あと、……また後でね」
零は顔を赤くしながらも、最後には少しだけ安心したような視線を残して、豪華な回廊の奥へと消えていった。
王宮の最深部にある、王女専用の広大な大浴場。
一面の大理石と金細工で彩られた空間には、魔力回復の効果を持つハーブの蒸気が立ち込め、幻想的な雰囲気に包まれていた。
「ふふ、そんなに緊張しなくていいのですよ。今は王女と奴隷ではなく、ただの乙女同士なのですから」
セレナは湯船の縁に腰掛け、豊かな金髪をかき上げた。
その肢体は白く透き通り、王族らしい気品と、若々しい弾力に満ち溢れている。
「いえ……そうは言われましても」
零は、用意されたタオルを手に、おずおずとセレナの背後に膝をついた。
普段の暗殺者としての鋭さはどこへやら、自分とはまた違う、完成された美を誇る王女を前に、顔を赤くして視線を泳がせている。
「失礼、します……」
泡立てた香油入りの石鹸で、滑らかな背中をゆっくりと撫で始める。
「んっ……。ふふ、零さんの手、意外と柔らかいのですね。戦う人の手とは思えません」
「ありがとうございます。彼も、その、手が柔らかいって言ってくれたことがあって……」
不意に口を突いて出た言葉に、零は「あ」と口を押さえたが、セレナは逃さなかった。
「あら? 仲が良いのですね、お二人は」
いたずらっぽく振り返り、零を見つめる。
零は小柄な体躯をさらに縮こまらせ、胸を震わせながら必死に首を振った。
「そ、そういう意味じゃなくて! ただの、その、慰め合いというか……!」
「ふふ、いいのですよ。でも、一つ聞かせてくださいな。彼は、あなたにとってどのような存在なのですか?」
セレナの瞳が、湯気越しにわずかな熱を帯びて射抜く。
零は手の動きを止め、少しだけ考え込んだ。
「……最初は、私と同じ不幸な転移者で、ただの守るべき対象だと思ってました。でも、あいつ、不器用なくせに、私のことを真っ直ぐ見てくれるんです。あんな風に私を必要としてくれるのは、カズトだけだから」
ポツリと漏らした本音に、セレナは満足げに目を細めた。
「素敵です。なら、もっともっと彼を強く、美しく磨き上げなくてはいけませんね。」
セレナは立ち上がると、今度は零の手からタオルを取り上げた。
「さあ、次は私の番です。零さんのその可愛らしい身体も、隅々まで洗って差し上げます。これは命令です!遠慮は無しですよ!」
「えっ!? あ、あの、セレナ様!? 私、自分で洗えますからぁっ!!」
湯気の中に、慌てふためく少女の声と、楽しげな笑い声が響き渡った。
ゆったりとした湯船に浸かり、心地よい薬湯の香りに包まれながら、二人の肌はほんのりと桜色に上気していた。
セレナは水面に浮かぶ花びらを指先で弄びながら、不意に核心を突く問いを投げかける。
「ねぇ、零。単刀直入に聞きますけれど……あなたはカズトの恋人なのですか?」
「っ……げほっ!?」
お湯を飲み込みそうになりながら、零は激しく動揺した。
胸元までお湯に沈め、必死に顔の熱さを隠そうとする。
「ち、違います! そんなんじゃないです! 私たちはただの、その、利害が一致したというか、あいつが放っておけないだけで……」
「あら、そうなの? 普段の様子や、今日の訓練での息の合い方を見ていたら、てっきり深い仲なのかと思ってしまいました」
セレナはクスクスと笑いながら、零に顔を近づけた。
その瞳には、からかっているだけではない、どこか本気の光が混じっている。
「実は、私も彼のことがとても気に入ってしまったのです。あの真っ直ぐな瞳も、ボロボロになりながら私を守るために強くなろうとする意志も……」
セレナはうっとりと自分の肩を抱くようにして、独り言のように続けた。
「彼が力を完全に使いこなし、私の真の盾として成長した暁には……私の『寵夫』として迎え入れようかしら、なんて」
「ち…寵夫…って!? セレナ様の、事実上の旦那様にするってことですか!?」
零の声が裏返った。
「そんなの、あいつは……あいつは犯罪者奴隷の立場ですよ!? 王族との事実婚なんて、無理に決まってるじゃないですか!」
叩きつけられた言葉には、困惑と、それ以上に現実味のなさを切り捨てようとする焦燥が混じっていた。
身を乗り出す彼女の心は、目の前の理不尽な提案を拒絶するように激しく揺さぶられる。
「確かに、普通なら無理でしょうね。ですが、王家の悲願でもある『百足の殲滅』に向けて、比類なき功績を重ね、かつ、彼にしか振るえない特別な力の存在が証明されれば話は別です。王家は喉から手が出るほど、彼を囲い込みたがるはずですよ」
両手でいたずらっぽく口元を隠すセレナ。
その言葉には確信が宿っていた。
「その時に私が裏で少しばかり『苦労』をすれば、不可能ではありません。ええ、前例こそありませんが、歴史とは常に誰かが塗り替えてきたものですもの。もし仮に、カズトが百足のボスを倒すことができれば、間違いなく実現できます。なんなら正式な夫として迎えることも、もしかしたら可能かもしれないですね。(さすがにそこまではわかりませんが)」
「っ……、正気ですか」
絶句する彼女を観察するように、セレナはさらに一歩、踏み込んだ。
試すような、あるいは追い詰めるような甘い声音が室内に響く。
「あら、そんなに驚かなくても。貴女にとって、彼がただの仲間で、決して恋人などではないというのなら、私が一番乗りをしてしまっても構いませんわよね?」
セレナはゆっくりと顔を近づけた。
逃げ場を奪うような至近距離。
「それとも、あの子を誰かに取られてしまうのは、そんなに嫌なことですか?」
奴隷から王族の伴侶への大出世――そんなことがもし本当に可能ならば、本来なら喜ぶべきことかもしれない。
だが、彼女の胸の奥には、鋭い棘が刺さったような痛みが走った。
零は言い返そうとして口を噤み、お湯の中にブクブクと顔を半分沈めた。
「……あいつ、馬鹿だから。……王女様みたいな綺麗な人に迫られたら、鼻血出して倒れちゃうと思いますよ」
精一杯の強がり。
だが、心の中では、今頃部屋で一人でいるはずの彼の顔が、嫌というほど浮かんでいた。
「あら、鼻血を出して倒れるなんて、それもまた可愛いじゃないですか? 完璧ではないからこそ、じっくりと私好みに育てていくのは楽しそうですね。ふふ、あんなに純粋な反応をする殿方は、王宮には一人もおりませんもの」
セレナは、自分の指先に絡みつく金髪を見つめながら、どこか遠くを見るような、それでいて獲物を定めるような妖艶な目をした。
「私の手で彼を教え込み、戦場では無敵の盾として、私室では甘える一人の男として。想像するだけで、退屈な日々が輝き始めそうです」
その言葉は、もはや冗談の域を超えていた。
(……本気だ、この人。カズトが成長すればするほど、この人の『お気に入り』としての価値が上がっちゃうんだ)
カズトが強くなることを願う反面、強くなればなるほど、手の届かない場所――王女の隣に連れ去られてしまうのではないかという、焦燥感。
「零、心配しなくても大丈夫ですよ? その時は、あなたも私の特別な『侍女』として、ずっとそばに置いてあげますから。……ね?」
セレナは優しく、けれど断らせない威圧感を持って零の顔をくいっと持ち上げた。
湯船の熱気のせいか、それともこみ上げる感情のせいか。
零の顔はこれ以上ないほど真っ赤に染まり、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……めです」
「……? 何かしら、零」
不思議そうに小首を傾げるセレナに対し、零は意を決したように、お湯から勢いよく身を乗り出した。
小柄な身体ながら、彼女の必死な思いを物語っている。
「だめです! 例えセレナ様でも、あいつはあげません! ……今の私たちは奴隷だし、王女様に言われたら逆らえないって分かってますけど……それでも、ダメなんです!」
半泣きになりながら、それでいて捨て身の覚悟が宿った訴え。
セレナは一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くした。
しかし、すぐにその驚きは笑みへと変わる。
「ふふ……ふふふっ! あはははっ!」
セレナは楽しげに声を上げて笑い、波打つお湯を手で軽く零の方へかけた。
「あなたも本当に面白い子。王女を敵に回してまで独り占めしたいだなんて。そんなに彼がいいのですか?」
「いいとか、悪いとかじゃなくて! あいつが隣にいないなんて……私、考えられないんです!」
腕で顔を覆い、しゃくりあげるように言った。
奴隷という立場を忘れ、一人の少女として本音をぶつけた零を、セレナはまるで愛らしい小動物を見るような、熱を帯びた瞳で見つめている。
「いいでしょう。そこまで言われて、無理やり奪うほど私は野蛮ではありません。ですが、これは『競争』ですよ? 彼がどちらの隣にいたいと願うか。ふふ、ますます明日からの特訓が楽しみになってきましたね」
セレナは零の隣にスッと寄り添うと、その濡れた肩を優しく抱き寄せて、頬をすり寄せた。
~
一方その頃、シンによって半ば荷物のように部屋へと運ばれた彼は、少し休んだ後にその後1人でお風呂に入り、再び部屋へと戻ってきていた。
「雷装」による筋肉の軋みと戦いながら、独り静かに今日という一日を反芻していた。
やがて、廊下を歩く複数の足音。
扉が開き、そこには湯上がりの熱気を纏った零が立っていた。
「あ、零! おかえり……って、なんだか顔が真っ赤だけど、のぼせたのか?」
石鹸とハーブの混ざった、妙に官能的な香りが狭い部屋に充満する。
心配して顔を覗き込もうとした、その時だった。
――バチコーン!!
「いっ、痛ってぇ! なんだよ零、いきなり!」
乾いた音と共に後頭部を強打され、悶絶しながら床を転がる。
一人の少女としての、言葉にできない感情がこもった全力のはたきだった。
「バカ! 大バカ! あんたなんか、一生鼻血出して倒れてればいいのよ!」
「はぁ!? なんだよそれ、意味わかんねぇよ!」
わけも分からず叫び返す声を無視して、彼女は顔を火が出るほど真っ赤にしたまま、ものすごい勢いで布団の中に潜り込んだ。
「ちょ、零?」
「喋りかけないで! 私、もう寝るから! あと、あんたは絶対、明日からも死ぬ気で修行しなさいよね! 他の誰にも負けないくらい、強くなりなさいよ!!」
布団の奥から漏れる声は、怒っているようでもあり、今にも泣き出しそうでもあった。
一体、風呂場で何があったのか。
取り残された彼は、ジンジンと痛む後頭部をさすりながら、困惑したまま暗い天井を見上げた。
その隣で、零は心臓の鼓動を必死に鎮めようとしていた。
セレナ王女という「美しき巨大な壁」。
そして、それに見初められるほどに輝き始めた、自分の隣にいるはずの少年。
(絶対……絶対に、侍女になんて甘んじてあげないんだから……!)
決意を新たにする彼女の鼻先には、先ほどまでの特訓で染み付いた、彼の魔力の匂いがかすかに残っていた。




