シンの修行②
早朝。
「……全く。ほら、髪に糸くず付いてるわよ。奴隷とは言え、セレナ様の前に出るんだから、最低限の身だしなみは整えなさい」
零は甲斐甲斐しく襟元を直し、指先で髪を整えてくれる。
昨夜、至近距離で甘やかされた記憶が蘇り、視線を合わせるのが気恥ずかしい。
「って、そろそろ行かないと間に合わないわよ!」
そんな空気を振り払うように、二人は転がるようにして部屋を飛び出した。
辿り着いた食堂兼、待機場所。
息を切らせて駆け込むと、そこには既に優雅に朝食を済ませようとしているセレナと、その背後に微動だにせず立つシンの姿があった。
「あら、おはようございます。二人とも、顔色が少し赤いようですけれど……よく眠れましたか?」
セレナは、二人の様子をじろじろと観察するように眺め、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
その意味深な眼差しは、まるで昨夜の部屋での出来事をすべて見透かしているかのようで、気恥ずかしさが漏れる。
「は、はい! おかげさまで、バッチリ回復しました!」
「口だけは達者になったようだな。予定より三十秒遅い。その分、今日の重りは一段階重くしてやる。さっさと食え。五分で終わらせろ」
シンの宣告に、絶望が顔を出す。
だが、それを遮るようにセレナが朗らかな声を上げ、パンにバターを塗り始めた。
「ダメですよ、シン。たくさん動くのですから、たくさん食べないと体が持ちません」
彼女が視線で示した先――食堂の長テーブルの上には、これでもかというほどの料理が所狭しと並べられていた。
香ばしく焼けた厚切りのベーコン、山盛りのスクランブルエッグ、焼き立てのパンに、数種類の果物、そして濃厚な香りを漂わせるスープ、そのほかにもたくさん。
「二人とも、食事はたくさんありますから、全部食べていってくださいね! 一欠片でも残したら、私の『命令』に背いたことになりますよ? ふふっ」
「え……これ、全部ですか……?」
机を埋め尽くす豪華な料理を見渡し、絶句した。
その量は、一般人の朝食四、五人前は優にある。
「……王女様、これ、応援じゃなくて半分くらい拷問になってませんか? 私、身軽でいたいんですけど……」
「あら、零さん。シンの訓練は、一日の消費カロリーが異常ですから。これを食べきらないと、訓練で本当に倒れてしまいますよ?」
セレナは紅茶を啜りながら、隣に座るよう促した。
シンは背後で不機嫌そうに時計を見つめているが、主の言葉には逆らえないのか、黙って腕を組んで待機し始める。
「いただきます。うわ、でもこれ、めちゃくちゃ美味いな。あっちの世界のホテルバイキングより豪華だ」
無理やりにでも胃袋に詰め込むべく、フォークを動かす。
一方の零も、セレナの監視の目がある以上、諦めてパンを頬張り始めた。
「ふふ、いい食べっぷりです。あらカズト、そんなに慌てて食べると、口の端にソースが付いてしまいますよ?」
そう言って、セレナは自分のナプキンを手に取ると、スッと身を乗り出してきた。
「っ!!?」
驚く間もなく、彼女の指先が、白く柔らかな布越しに口元を優しく拭う。
至近距離で見つめる宝石のような瞳に、心臓が跳ね上がる。
「ありがとうございます……」
隣で零がパンを喉に詰まらせかけ、顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいるが、今はそれどころではない。
「殿下、甘やかしすぎです。餌を食わせたらすぐに訓練場へ連れて行きます。おい、小僧。残り二分だ」
シンの深い溜息と共に、朝食タイムの終わりが告げられた。
――数分後。 膨れ上がった腹部を抱え、文字通り「うぷっ」と口から何かが逆流しそうな感覚に耐えながら、二人は訓練場に辿り着いた。
「……これ、マジで……動いた瞬間にマーライオンみたいに、口から全部出ちゃうんじゃないでしょうか……」
「……喋らせないで……。飲み込むのに必死なんだから……」
顔を青白くしている二人を見たシンは、ため息をつきながら予定変更の指示をする。
「はぁ、殿下にも困ったものだ。おい、その腹の中の栄養を、ただの贅肉にするか血肉にするかは貴様ら次第だ。予定を変更する。まずは基礎の『魔力操作』の訓練で、その大量のエネルギーを強制的に全身へ吸収させるぞ。外へ出て座れ!」
二人は言われるがまま訓練場に移動して、硬い石畳の上に胡坐をかいて座った。
「目を閉じろ。身体を覆う魔力の流れを意識し、それを血管の一つ一つ、筋肉の繊維一本一本に行き渡らせるように動かせ。今までもやってきているだろうが、今日はその精度を『完璧』に近づけろ。より正確に、より素早くだ!」
必死に意識を内側へと向ける。
胃の中にある莫大なエネルギーが、消化という緩やかなプロセスを飛び越え、魔力の奔流へと変換されていくのを強くイメージした。
右手のグローブが、昂る魔力に呼応して静かにジジ……と青白い光を帯び始める。
「零。貴様の操作精度はすでにかなりのものだが、そこで満足するな。魔力操作に上限はない。極めれば、どこまでも硬く、どこまでも速く、強くなる。集中しろ!」
「わかってるわよ……っ!」
零の周囲には、薄く、しかし密度の高い魔力の膜が形成され始める。
一方で、自分の中に眠る「無尽蔵の魔力」という巨大なダムから、針の穴に糸を通すような精密な作業を行うのは困難を極めた。
(クソ、ある程度なれたとはいえ、相変わらずこれはなんか苦手なんだよな。結局魔力の密度を増やすとその分扱いが難しくなるし、それを一点に集中しようとすると、他の場所が暴発しそうになる。 でも、これをやらないと、またあの激痛や、死ぬような思いをするんだ。それは嫌だ!)
冷や汗が頬を伝う。
しかし、ここ最近の比較的穏やかな時間の思い出が、無意識に荒ぶる魔力を鎮めるきっかけとなっていた。
「……ほう。小僧、少しはマシな流れになってきたな。だが、まだ足りん! その魔力の流れで胃袋を保護しながら、残りの栄養を全て魔力に変換しろ! 出来なければ、このまま腹を殴って中身をぶちまけさせてやる!」
(鬼だ……! この人、マジで人間の皮を被った鬼だ……!!)
絶望的な脅しを受け、魔力操作は火事場の馬鹿力で加速していく。
結局、その「魔力操作による強制吸収」という名の拷問は、太陽が天高く昇る昼時まで延々と続けられた。
「よし、そこまでだ。ようやく胃袋の停滞は消えたようだな。エネルギーはすべて筋肉と魔力回路に回ったはずだ」
目を開けると、食後の「吐きそうな満腹感」は嘘のように消え去っていた。
逆に全身には漲るような熱い活力が溢れている。
一方の零も、肌にうっすらと汗をかきながらも、その瞳には鋭い光が戻っていた。
「あ、終わったのですね!ちょうどいまお昼のお食事が運び込まれてきたところですよ!」
バルコニーからセレナが指差した先――そこには、またしても豪華な料理が並んだワゴンが用意されていた。
「殿下、これ以上の食事は逆効果です。せっかく循環させた魔力が、再び消化に奪われては意味がない。昼食は抜きだ。おい、小僧共。身体の準備は整ったな? 本格的なトレーニングに入るぞ」
ここから一体どんな地獄が始まるのか。
今の「静」の修行は、これから始まる「動」の地獄のための、単なるアイドリングに過ぎなかったのだ。
~
「小僧、右手のグローブを構えろ。零、貴様は短剣だ。今から俺が2人同時に相手をしてやる。もちろん、木剣ではない。真剣だ」
シンの背中から、黒光りする双剣が音もなく抜かれた。
放たれる殺気だけで、その場の空気が一瞬で氷ついたように冷え切る。
「し、真剣……!? ちょっと待ってください、死んじゃいますって!」
「案ずるな。寸前で止めてやるほど俺は優しくない。お前の最大防御でならギリギリ耐えられるくらいの攻撃に調整してやる。死にたくなければ、先ほど覚えた魔力操作を常に全身に回し、反応速度を限界まで高めろ。出来なければ切り落とされるだけだ。いくぞ!」
シンが地を蹴った瞬間、その姿が視界から消えた。
「カズト、右よ!!」
零の叫びと同時に、無意識に右手のグローブを振り上げる。
ガキィィィィィン!!
グローブとシンの剣が激突し、青白い火花が散った。今までなら腕の骨が砕けていたはずの衝撃。
しかし、全身に巡らせた魔力が防壁となり、衝撃を分散してその場に踏みとどまらせる。
「ほう……。一度でコツを掴んだか。だが、次は首を貰うぞ」
シンの追撃が、さらに速度を増して襲いかかる。
その剣筋を紙一重でかわした瞬間、隣を走る零が予想外の行動に出た。
彼女は手にしていた短剣を躊躇なく地面に投げ捨てると、そのまま低く鋭い踏み込みでシンの懐へと潜り込んだのだ。
「私に手心を加えたつもりでしょうけど、こっちの方が好きなのよね!!」
「……なに?」
驚きを誘うように、零の小さな拳が魔力を大きく纏い、シンの脇腹めがけて放たれた。
これは獲物を仕留める「点」の攻撃ではない。全身のバネを使い、膨大なエネルギーを叩きつけて相手をけん制する「面」の衝撃。
ドォォン!!
シンの双剣が咄嗟にその拳を受け止める。
だが、響いたのは金属音ではなく、空気が爆発したような重い衝撃音だった。
「くっ……! 武器を捨てて格闘だと? 正気か、貴様!」
「正気よ! どのみち短剣じゃ、あんたのその硬い魔力の壁を通せないもの。だったら、直接叩き込んでやるわよ!」
高度なフェイントを織り交ぜながら、目にも止まらぬ連続打撃を繰り出す。
リーチの短い格闘戦は、双剣使いに対して圧倒的に不利なはずだ。
しかし、彼女の動きは昨日と今日の修行によって、よりしなやかに、より力強く進化していた。
(零、すげぇ。あんな動き、今まで一度も)
呆気に取られていたが、彼女が作ったチャンスを見逃す訳にはいかない。
「よし、俺も! 零だけにいい格好させられるかよ!」
右手のグローブに魔力を集中させる。ジリジリと空気を焼く異音が響き始めた。
シンの意識が彼女に向いている今なら、一撃入れられるかもしれない――。




