第5話 貴族
翌朝、久方ぶりに屋敷を出たヒデを出迎えたのは、初夏の鋭い日差しだった。
あまりの眩しさに思わず立ち止まった。顔を隠すために羽織ったフード付きマントが分厚い生地が重かった。
「行きましょう」
夏に似合う薄手のドレス姿のウィンズが扉を閉める。日傘をさすと歩き出す。だが、英雄の脚は動かない。
「どうしました?」
「いや……久しぶりに外に出たから、なんだか落ち着かなくて」
また情けないことを言った。英雄は自分の至らなさに苦笑いを浮かべる。
意気地なし。隣に立つ女性もそう思うだろう。また、溜息交じりの苦言をこぼされるかもしれない。
けれど、返ってきた言葉は海からの風のように優しかった。
「大丈夫です。金龍湾からの風は今日も穏やかに街を吹き抜けています。もう一度言います、大丈夫です。海はアナタを祝福しています。この地はアナタを拒んではいませんよ」
英雄の耳にその言葉が届いた時、口から僅かに言葉が漏れた。いや、言葉にすらならない音だったかもしれない。
「どうしました?」
「あ、いや」
戸惑う理由を口にしようか、ヒデは迷った。
いつかの日の記憶。思い出の中にしまっておいた景色を思い出したからだ。
はじめてこの街に来た時。偶然助けた少女――この地を統治する領主の娘がかけてくれた言葉。
ただ戦うことしか出来なかった自分を英雄と認め、信じてくれた女性の言葉と同じだったからだ。
変わっていない。
そう、街は変わっていなかった。
ヒデの耳に雑踏の音が届く。白い石畳を叩く靴の音は途切れない。海から吹き抜ける潮風はヒデの背中を押している。
あの日――ここにはもう居ない妻に手を引かれて、街に一歩踏み出した時と同じ景色が広がっている。
「……ヒデ様」
また、思い出に押しつぶされそうになる彼に、ウィンズは声をかける。
弱音を飲み込むと、ヒデは街へと歩き出した。
一歩踏み出してしまえば簡単なもので、まるで導かれるように足は動く。
目的地は北にある領主の館。
彼の義父――死んだ妻の父であるロウマン爵に会うために。
◆◆◆
領主の館に辿り着いた二人の顔を見た時、門番の顔には安堵の色が浮かんだそうだ。
このような細かいエピソードは伝承の仕方によって差異はあるが、彼らが歓迎されていたことは間違いない伝承が多く残されている。
さて、門番たちはすぐに駆け出す。同時に屋敷中がザワザワと騒めいた。困惑と驚き。そして、喜びの感情が英雄たちに伝わってくる。
心なしか、ウィンズの顔も出会った時と違って柔らかくなっていた。
使用人たちにウキウキとした口調で案内され、応接間に通されると金髭の初老の男性が待っていた。
「まったく、ようやく顔を出したか、この不詳の息子が」
ヒデが数カ月ぶりに見た義父の顔は、少しだけ老いているようだった。
「申し訳ありません」
「よい、そなたの繊細な心があってこそ、英雄として名声を集めたのだからな」
てっきり、叱責をされると思っていたヒデはどこか居心地が悪かった。
「我が姪よ、よくぞこの不詳の息子を連れだしてくれた。感謝している」
「いえ、予定よりも遅れてしまいました。申し訳ありません」
「よいよい。この金龍の都の人間は誰一人としてあの重い扉を開けられなかったのだからな。お前を妻に選んだのは間違いではないようだ」
その言葉で、ヒデはここに来た目的の一つを思い出した。
「ところで、その……話があるのですが」
だが、それを切り出すにはこの三人では調子が悪い。
どうしたものか。視線を泳がせる。自然と懸念事項であるウィンズの方を向いてしまう。
「……」
一瞬、視線が合った。それだけ合図は十分だった。
「ロウマン様。申し訳ありません、私は席を外して良いでしょうか」
そう断ると、扉の外へと出て行ってしまった。
また気を遣わせてしまった。ヒデは申し訳なさを感じつつも、彼は話を切り出す。
「ところで、ウィンズの事なのですが」
「うむ。姪は少々愛想は悪いがよい娘だろう?」
本題はそこではなかった。
「その、妻にすると言うのは」
「本気だ」
――方便だ。
などと言われることを期待していた彼は、肩を落とす。
「悪いとは思っているのだぞ。だが、お前にも責任はある。いくら便りを出してもここに顔を出さなかったのだからな」
「それは……」
「分からなくもない。この屋敷にもフィルシェとの思い出が詰まっているのだからな」
言い淀むヒデに、義父は優しく語り掛ける。まだ、未熟な息子を諭すように。
「考えてもみよ。ヒデの偉業は誰もが知るところだ。だが、この地においては身寄りのない個人でしかない……私が息子と呼ぼうと、血の繋がりはないのだからな」
それは、ヒデ自身も感じていることだ。
異世界から召喚された英雄。聞こえはいいが、結局この世界にとって外側の人間でしかない。
身一つでこの大地に降り立った時、どれほど彼が心細かったのだろうか。それは我々には計り知れない。
「君をこの地の貴族とするのには、縁が必要だ。ウィンズには我が一族の血が流れている。その夫であれば、この地において誰も文句は言うまい」
そして、この地で生きると言うのなら、孤独であることは許されない。
それを繋いでくれたのは、彼が愛した人間――死んだ前妻であるフィルシェだった。
「……娘が亡くなった後、君がこの地に留まることを選んでくれたことに感謝している。親として、君を息子と呼べることは幸運だと思っている。だが、貴族には貴族のルールがある。分かって欲しい」
初老の男性の顔が下がる。ヒデは自分が穴の底に入りたいくらいだった。
「はい……」
ようやく絞り出した声。小さいけれど、確かに届いたようだった。
顔をあげた義父の瞳は、真っすぐに英雄を見ていた。
「……ウィンズのことも悪いとは思っている。ヒデよ、お主の世界では恋愛は個人と個人の問題であると言っていたな。強制的な婚姻に反対するのも分かるが、君には補佐をする人間が必要だ。我が姪はその点においてはまったく問題のない人間だ。そして、ワシが引退した後の事――世継ぎのこともある」
もう、ヒデは反論をしない。ただ、自分を信じてくれた義父の言葉を胸に刻みつけている。
「……ワシとて、フィルシェの事を忘れた訳ではない。だが、個人的な感情で国を傾かせる訳にはいかないのだよ」
実の親にまでそう言われてしまうと、ヒデは何も言えない。
薄情だと的外れな言葉を並べる程彼は愚かではない。
彼が自分の代理人として妻を選んだと言うのも、彼なりの立場の上での行動なのだ。
「ありがとうございます」
ただ、深く礼をして感謝をした。




