第3話 扉を開けた人
英雄『ヒデ』とその後妻『ウィンズ』の物語を語る際、必ず最初に紡がれるのはこの言葉となる。
「はじめまして、英雄『ヒデ』様。私は『ウィンズ』と申します。これより、アナタの妻となる者です」
その言葉を聞いた時、英雄は目を丸くしたと言う。
薄暗い部屋。開け放たれた扉から漏れる光を背に、毅然とした顔で彼女は立っていたそうだ。
その時、二人は初対面の筈だった。だが、まるで遠慮がない。しかし、あまりにも堂々とした態度に英雄は次の言葉を発するのがやっとであった。
「すみません。もう一度繰り返してもらっていいですか」
「一字一句同じでいいでしょうか」
鋭い瞳で英雄の姿を見据え、妻と名乗った女性は繰り返す。
そう、迷いなく。決まりきったことであるのだから。
「はじめまして、英雄ヒデ様。私はウィンズと申します。これより、アナタの妻となる者です」
ピクリとも緩まない頬。本気だと顔に書いてあるくらいの真っ直ぐな視線。
冗談などと茶化すことも茶化されることも許されない状況。
どうしたものか、と英雄は頭を抱えるのだった。
◆◆◆
英雄とその後妻の出会いより数刻前――
物語のはじまりの時期は、初夏の良く晴れた日。フィルシェの死から、一年程過ぎた頃のこと。
場所は、街はずれの館。英雄が住む豪奢な洋館の一室、彼の自室。
薄暗い部屋の中、覇気のない顔で椅子に座っている男が一人。彼は英雄ヒデ。
英雄、とだけ言葉が独り歩きするのも不親切であろう。改めて、ここで彼について語ろう。
まず、彼の偉業とは遥か東より襲い掛かってきた侵略者――血に飢えた蛮族と異形の魔物を率いる災、厄の王を討伐したことだ。
そして、彼は何者か。
異世界――『ゲンダイ二ホン』から金龍の女神に選ばれた英雄である。彼は、神の加護と聖剣を手に長く苦しい戦いを生き抜いた無双の英雄なのである。
けれど、今の彼にはその面影はない。覇気のない顔を見て、彼が英雄だと信じる人はいないだろう。
もちろん、英雄と呼ばれる彼は植物のような人間ではない。一年前は笑顔を絶やさない和やかな人物であり、剣を握れば並ぶ者が居ない使い手であった。
先の物語を聞いていたのなら分かるだろう。彼の心は、妻との死別により深い悲しみに沈んでいた。
妻との別れから一年を経てもなお、心は鉛のように重くなっていた。
無理もないだろう。最愛の人を失ったのだから。
この地で生きていくことを選ぶ理由を失ったのだから。
戦いが終わった時、彼はこの地に骨を埋めることを決意した。
それは、最愛の人のため。
故郷での生活も、隣人も、全てを捨てて見知らぬ地で生きることを選んだのだ。
それは、一人の女性のため。この地で心を通わせた女性と共に生きること。それだけが理由だった。
「フィルシェ……」
口から漏れた言葉はどこにも届かない。その名に応えてくれる人は、もう居ない。
妻の命を奪った冬の厳しさは通り過ぎた。季節は春になり、雪は溶けた。けれど、彼の心は固く凍り付いたままであった。
いたずらに時間だけが過ぎ、気が付けば、風は初夏の匂いを漂わせていた。
それも、外の世界の話。
英雄が引き籠った部屋の空気は淀んだまま。
深いため息が部屋に響き渡る。
このままではいけない。そう思っても、心が何も言わない。
英雄としての戦いの日々、絶望に襲われた時はどうしただろう。
深手を負った時もあった。信じていた仲間に裏切られた時もあった。その度、寄り添って支えてくれた人が居た。
いつでも笑顔で自分を受け入れてくれた女性。
病魔に侵されて寝たきりになった時でも自分よりも愛する人の心配をしてくれた彼女。
春になれば一緒に外を歩けると笑いあった日々は、もう遠く。
ただ、英雄の心は深い闇に沈んでいくだけだった。
昨日も同じだった。いや、喪失の日々はずっと続いている。過去も、未来も繋がっている。明日も同じように重たい心を抱えたまま生きていくのだろう。頭をよぎるのは愛した人との思い出。そのまま、記憶の海へと溺れていく――
――彼の思考を遮るように、ドアが開いた。
ドアが開くときに発した音は僅かな軋みのみ。けれど、時を告げる鳥の囀りのように語り掛ける。
開かれた先に立っていたのは一人の女性。
銀色の長い髪が揺れる。鋭い瞳が英雄をとらえる。
ドレスの端を持ち上げるとカーテシーを見せる。洗練された所作、落ち着いた声で告げる。
「はじめまして、英雄ヒデ様。私はウィンズと申します。これより、アナタの妻となる者です」
困惑の言葉を返して、返ってきたのは同じ言葉。
その時、英雄は強く反発が出来なかったと言う。呆気にとられていたのも原因だろうし、心がそこまで健康でもなかったのも確かだ。だが、それ以上に有無を言わさぬ空気を世界を開いた女性が持っていた。
静かであるが毅然とした態度で彼の前に堂々と立つ女性。『妻』と急に言われて困惑していただろうが、その真偽を問うことを英雄は出来なかった。
英雄の困惑を差し置いて、彼女は次の行動に入っていた。
「申し訳ありませんが、まずは仕事があります。暫く時間をください。日没頃にはまた参ります」
用件だけを伝えると、背中を向ける。追いかけようとしたら、大きな影が邪魔をした。
ウィンズの後ろから顔を出したのは壮年の大男。大量の書類を抱えている。
それが誰か、ヒデには分かっていた。だから、名を呼んだ。
「バ、バラス。これはどういうことなんだい?」
バラス――彼の側近にして、今、目の前立つ男に助けを求める。だが、何も言わない。いつもの穏やかな顔で近寄ると、ヒデに書類の山を突きつける。
「こちらの書類に、後で目を通してくださいますか? 既にサインはしておりますし、応答の返事はこちらで適切に扱います」
半ば強引に手渡される書類。あまりにも急だったので、落としそうになってしまう。
「手続きはこちらの方で確認しておりますから、最終的な確認だけをお願いしますね」
そう言うと、二人は会釈をして扉を閉めた。
部屋の中に残されたのは、困惑する青年だけだった。
◆◆◆
――酷く事務的で横暴だ――
自称『妻』の態度に英雄は憤りを覚えたことだろう。
自分の知らない場所で、知らない人間が妻を名乗る。彼が生まれ育ったゲンダイ二ホンの感覚では、怒るのももっともだろう。
それとなく文句を言ったが、ウィンズは妻と言う立場を撤回する様子はない。バラスに愚痴ろうにも、返ってくるのはつれない返事だけだ。
「ロウマン様がお決めになられましたからなあ。直談判をなされてはどうでしょうか。まあ、その前にこちらの書類の確認をお願いします」
義父の名前を出されて、英雄は口ごもる。
その隙に、バラスは更に仕事を押し付けられるのだった。
「前と同じです。記入は終わっているので、確認だけをお願いします」
ただの書類の確認。と言っても量があれば話が別だ。百も二百も重なった書類の山。その内容に目を通すだけでも時間がかかる。
朝、起床の挨拶と一緒にウィンズとバラスから手渡され、昼頃にはバラスが回収――とついでに新しい案件を持ってくる。
書類の中には一年以上前に申請された内容もあった。彼が一年以上、無気力故に仕事を疎かにしていたツケだった。
どうしてこうなった? 責任の所在を求めても自分にしか返ってこない。
やり場のない感情をどうしたらいいのだろう。ぶつけられるものがあるとしたら、目の前の書類だけだった。
結局、半ば自棄になりながら確認を続けた。
そうやって、時間はあっという間に過ぎていった。
◆◆◆
3万文字くらいで終わる中編です。
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