本の紹介②『仄暗い水の底から』 鈴木光司/著
海にまつわる情念・恐怖を描いた連作ホラー
東京湾を舞台とした7編(プロローグ、エピローグを除く)の物語で構成される作品です。7編のお話はそれぞれ独立した物語ですが、短編集というと少し語弊があるように思います。お話にテーマ的な部分で繋がりがあり、合わせて一つの物語として読まれることを想定していると感じるからです。
水の中に潜む、得体の知れない不気味な存在から感じる恐怖や、水や海に対する登場人物たちの恐怖心などが描かれており、基本的にはホラー作品と言ってよいでしょう。1編目の「浮遊する水」から5編目の「漂流船」まではオーソドックスなホラーといった感触ですが、ちょっとミステリー的な話もあったりと、バラエティに富んでいて、単独の作品として十分面白く出来上がっています。
ここまでは純然たるホラーとしてお話を読み進めていくのですが、6編目の「ウォーター・カラー」が少しトリッキーな展開を見せ、5編目までの作品の読み方に引っ掛かりを覚えるとともに、7編目の「海に沈む森」へとページを捲る指のスピードが上がっていきます。
「海に沈む森」はそれまでのお話からは一変、ホラー要素は鳴りを潜め、鍾乳洞からの脱出を試みる主人公の冒険譚といった内容になります。現実に起こりうるシチュエーションを舞台に主人公の人間として、等身大の行動が描かれることになります。
ここで私はハッとした気持ちになりました。それまでの一連の物語に、全く別の方向から光が当てられ、深い感動を覚えたのです。
それまでのお話の中で、自分が不気味な存在、怨念に近いものとして捉えていたものたちが、どこかポジティブな意味を持った存在のように見えてくるという体験をしたのです。ここに物語、フィクションの持つ底力を見たように思えました。
より多くの知識を効率よく得たいのであれば物語よりも専門書、学術書を読んだ方が良いでしょうし、最新の情報や流行を知りたいのであれば、リアルタイムで更新されるニュースや新聞、雑誌等をチェックすれば十分です。
それらと並んだ時に、物語、フィクションにどのような強みがあるのか。それは、原理原則や事実だけでは得ることのできない、物事の見方の変化をもたらすような力だと私は考えます。
日常生活において、人間はどうしても自分の視野だけで物事を考えてしまいがちです。それは個人として生きる以上、どれだけ賢い人でも避けて通ることができないものだと思います。しかし、物語に触れ、主人公や語り手の視点に立つことで、自分がそれまで見逃してきたものが見えてくる可能性があると思います。
読者が期待する展開を忠実に表現し、読者と答え合わせをしているよう作品も多いですが、上質な作品とは、読者の視線をほんの少しでも、いつもの位置からずらしてくれるようなものではないでしょうか。
本作品がもたらしてくれたのはダイナミックな視点の変化であり、御涙頂戴な筋立ての作品からは受け取ることのできない感動です。
タイトルとは裏腹にどこかすっきりとした読後感がある作品なので、暑い夜の読書におすすめです。 終わり