ガイア物語SS 騎士団長の秘められた夜会 ~赤魔導士と聖騎士、静かなる酒杯~
『ガイア物語』本編第5話「復興の苦難と兆し」と同時期の、王都アルテアを舞台にした物語。
アークナイツの赤魔導士クォーツは、家系の没落と自身の無力感に苦悩し、酒に逃げる日々を送っていた。
そんな夜、彼の前に厳格な騎士団長イグニスが現れる。立場も性格も異なる二人が酒場で交わす静かな対話は、クォーツの心を深く癒やし、彼が自身の回復魔法の真の意味と、内なる「弱さ」を「強さ」へと変えるきっかけとなる。
本編で完全復活を遂げるクォーツの、知られざる転換点となる一夜の物語。
【本編第5話「復興の苦難と兆し」読了後推奨】
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王都アルテアの下町は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石畳の路地には、昼間の活気を吸い取ったかのように闇が深く沈み、時折、遠くで犬の吠える声が聞こえるだけだ。王都の復興は着実に進んでいるとはいえ、疲弊しきった人々の心には、未だ癒えぬ傷跡が残っていた。瓦礫の隙間から吹き込む夜風は冷たく、街の片隅に漂う土埃と焦げた匂いが、過ぎ去った戦の日々を忘れさせない。
そんな夜の帳が降りた片隅に、ひっそりと佇む一軒の酒場がある。「酔いどれ亭」と書かれた木製の看板が、薄暗い魔導ランプの光を反射して、かろうじてその存在を主張している。
店の中は、数人の常連客が小声で談笑する声と、グラスが触れ合う微かな音だけが響く、静かで落ち着いた雰囲気だった。
カウンター席の隅、影に身を隠すように座る男が一人。
クォーツ・ロックウェルは、琥珀色の液体が揺れるグラスを、ただじっと見つめていた。
彼のややボサボサした髪は、日中の任務でついた土埃でさらに乱れている。緑色の瞳は、酒場の薄暗い照明の中でも、その奥に深い疲労と、拭い去れない苦悩を宿しているのが見て取れた。
(結局、俺は何一つ変われない……)
昼間、瓦礫の山となった村で、彼は幾度となく回復魔法を振るった。
血を流し、苦悶の表情を浮かべる民衆に、聖なる光を注ぎ、傷を癒した。
そのたびに感謝の言葉を浴び、希望の眼差しを向けられた。その瞬間は、確かに充足感があった。彼の魔法は、確かに彼らを救った。
だが、任務を終え、この酒場に戻ってくると、心の奥底に沈む澱のような疲労が、再び彼を苛むのだ。それは、肉体的な疲労だけではない。魂の奥深くに刻まれた、癒しようのない傷だった。
彼はロックウェル家の末裔だ。
かつて王国にその名を轟かせた名門魔導士の家系も、度重なる災禍と、ある魔族の襲撃によって没落した。
家族を失い、広大な領地も失い、残されたのはただ、彼自身の魔力と、回復魔法の才能だけだった。
(あの時、俺に力があれば。もっと強い魔法が使えたなら。家族を、領地を、王国を、守れたかもしれないのに……)
自嘲的な思考が、彼の心を深く沈める。
回復魔法の使い手でありながら、自分自身の心を癒せない皮肉。
その全てが、彼を酒へと誘う理由だった。
グラスを口元に運び、一気に呷る。喉を焼くようなアルコールの刺激が、一時的に彼の心を麻痺させる。
「もう一杯……」
掠れた声で呟き、空になったグラスをカウンターに置いた。
マスターは何も言わず、無言でボトルを傾ける。カラン、と氷がグラスに触れる音が、彼の自嘲をさらに深めた。
(俺は、ただの役立たずだ。回復魔法が使えるだけの、役立たずの貴族崩れ……)
その時、彼の隣の椅子が、かすかな音を立てて引かれた。
クォーツは顔を上げ、驚きに目を見開いた。
そこに座ったのは、質素な外套を羽織った男だった。
見慣れた、しかし決してこんな場所で会うはずのない人物。
アルテア王国の騎士団長、イグニス。
普段は情熱的で厳格な彼の顔には、日中の激務による疲労が色濃く滲んでいる。
だが、その瞳の奥には、変わらぬ強い意志の光が宿っていた。彼はクォーツを一瞥すると、何の言葉も発することなく、マスターに「水と、焼いたパンを」と静かに注文した。
クォーツは、慌てて立ち上がろうとした。
こんな場所で騎士団長に会うなど、予想だにしていなかった。
没落したとはいえ、一応は貴族の端くれだ。王国の誇る騎士団長の隣で、酒に溺れる姿を見られるわけにはいかない。
「っ、騎士団長閣下……なぜ、このような場所に……」
クォーツの声は、動揺で上ずっていた。
彼の心臓が、ドクンと不規則に脈打つ。
イグニスは、クォーツの言葉を遮るように、静かに片手を上げた。
その手には、泥と血、そして努力の跡が刻まれている。
節くれだった指には、幾多の戦いを乗り越えてきた剣士の証とも言える、かすかな傷跡が見て取れた。
「立たなくていい。その顔色では、無理に立つ方が体に悪い。座ってください、赤魔導士殿」
イグニスの声は、普段の厳格さとは異なり、穏やかで、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
彼の瞳は、クォーツの顔色の悪さを気遣うかのように、静かに、しかし深く彼を見つめていた。その視線は、まるで彼の心の奥底を見透かすかのようだった。
クォーツは戸惑いながらも、その制止に従い、再び椅子に腰を下ろした。冷たい汗が、背中を伝う。
マスターが運んできた水とパンを前に、イグニスは黙ってグラスを口に運んだ。
豪奢な食事ではなく、質素な水とパン。
その意外な姿に、クォーツは驚きを隠せない。
騎士団長といえば、王宮で豪華な食事を摂っているはずだ。
彼のような貴族崩れが、まさかこんな酒場で騎士団長と相席するなど、夢にも思わなかった。
(この人も、俺と同じなのか? いや、まさか。彼は王国の誇り、民の希望だ。俺とは違う)
自嘲的な思考が、再び彼の心を支配しようとする。
「……騎士団長閣下も、お疲れのようですね」
クォーツは、なぜかそう言葉を漏らしていた。
彼の口から、皮肉でも自嘲でもない、純粋な気遣いの言葉が出たことに、彼自身が驚いていた。
イグニスは、クォーツの言葉に小さく頷いた。
彼の表情は、騎士としての仮面が剥がれ落ちたかのように、人間的な疲労を滲ませていた。
「ああ。日中の復興作業は、思った以上に骨が折れる。だが、民のため、王国のためだ。この国は、多くの犠牲を払い、ようやく立ち直ろうとしている。その重責が、常に心にのしかかる。そして、完璧を求められる立場というのは、常に孤独なものだ。だからこそ、時に、こうして心を落ち着ける時間も必要になる。」
イグニスの声は、静かだが、その言葉の端々には、騎士団長としての重圧、そして一人の人間としての苦悩が滲んでいた。
それは、クォーツの心に、静かに、しかし深く響いた。完璧に見える騎士団長もまた、自分と同じように苦悩を抱えているという事実に、クォーツは僅かながらも共感を覚えた。
(孤独……か。確かに、俺もそうだ。誰にも理解されない、この心の傷。回復魔法で他者を癒しながら、自分自身を癒せない矛盾。それが、俺を苛む)
クォーツの内面で、沈黙の螺旋が回り始める。
「赤魔導士殿も、その顔色では、随分と苦労していると見える。日中の働きは、私もこの目で見ていた。貴殿の回復魔法は、多くの民の命を救った。その働きには、心より感謝する。」
イグニスの言葉は、クォーツの心を、温かい光で照らした。
彼の回復魔法は、王国の復興に不可欠な力であり、多くの人々の希望となっていた。
だが、その力が、彼自身の心には届かない。その皮肉が、彼の心を苛み続けていた。
「感謝など…とんでもない。私はただ、魔法を振るっているだけです。多くの命を救うと言われても、自分自身の無力さを知るばかり。家系は没落し、力及ばず、何一つ守れなかった…」
クォーツは、自嘲的な笑みを浮かべ、再びグラスに手を伸ばそうとした。
だが、彼の指は、グラスに触れる寸前で止まる。イグニスの視線が、彼の手元に注がれているのを感じたからだ。その視線は、彼を咎めるものではなく、ただ静かに、彼の行動を見守っているかのようだった。
「貴殿は、回復魔法の使い手でありながら、自らを癒せずにいると見える。その苦悩は、私も理解できる。完璧を求められる立場にある者は、常に孤独なものだ。だが、その苦しみこそが、貴殿の力となる。」
イグニスの言葉は、クォーツの心の奥底に、直接語りかけるかのようだった。
彼は、長年誰にも打ち明けることのできなかった、深い苦悩を見透かされているような感覚に陥った。
彼の瞳は、驚きに大きく見開かれる。
「……何を、仰っているのです」
クォーツの声は、かすかに震えていた。
その声は、拒絶でも、反論でもなく、ただ純粋な問いかけだった。
「貴殿は、多くの者の痛みを理解し、寄り添うことができる。それは、貴殿自身が、悲しみや苦しみを知っているからだ。その『弱さ』こそが、貴殿の『強さ』となり得るのだ、赤魔導士殿。悲しみを知らぬ者に、真の癒しは与えられぬ。痛みを知らぬ者に、真の希望は語れぬ。貴殿のその苦悩こそが、民を真に救う、慈愛の源となる。」
イグニスの言葉は、クォーツの凍り付いた心を、温かい光で包み込んだ。
彼は、自分自身の回復魔法が他人を癒しながらも、自分自身を癒せずにいたという皮肉に気づく。そして、完璧に見えたイグニスもまた人間的な苦悩を抱えているという事実に、クォーツは深い共感を覚えた。
彼の心の中に、長年閉じ込めていた感情が、まるで堰を切ったかのように流れ出した。
「私は……ロックウェル家の当主として、家を守れませんでした。家族の命を、領地を、そして誇りを……何もかも失った。その罪悪感が、この胸を締め付けるのです。回復魔法は使えても、過去を変えることはできない。それが、私を苦しめる……」
クォーツの声は、震えていた。
その瞳からは、これまで流すことのなかった涙が、一筋、また一筋と溢れ落ちる。
イグニスは何も言わず、ただ静かにクォーツの言葉に耳を傾けていた。
彼の騎士としての厳格な表情は、そこにはない。ただ一人の人間として、クォーツの苦悩を受け止めているかのように、深く、深く頷いた。
「過去は変えられぬ。それは真理だ。だが、その過去をどう受け止め、どう未来へと繋ぐかは、貴殿の選択次第だ、赤魔導士殿。貴殿が流すその涙は、決して弱さではない。それは、貴殿が民の苦しみに寄り添うことのできる、証だ。その涙が、やがて多くの民の希望となる。」
イグニスの言葉は、クォーツの心に、静かに、しかし確かな希望の光を灯した。
彼は、長年手にしていた酒杯からそっと手を離し、カウンターに置いた。そして、自身の回復魔法の源である手のひらの「紅い輝き」を静かに見つめた。その輝きは、彼の心臓の鼓動と同期するように、微かに脈打っている。
この力が、単に肉体を癒すだけでなく、心の傷にも寄り添う力であることを、彼は再認識した。
それは、彼の回復魔法が、単なる魔力操作ではなく、彼自身の魂の輝きであることを示唆しているかのようだった。
「……ふん。騎士団長閣下にご忠告いただくとはな。この俺も、ずいぶんと落ちぶれたものだ。」
クォーツは、いつもの皮肉な口調で呟いたが、その表情には、自嘲の色はなかった。
彼の瞳には、新たな決意の光が宿っている。それは、酒に逃げる自分自身との決別を誓う、静かな光だった。
イグニスは、クォーツの言葉に小さく笑みを浮かべた。
その笑みは、彼の中に宿る人間的な温かさを感じさせた。彼は立ち上がり、質素な外套を肩にかけ、静かに酒場を後にした。
彼の背中には、騎士団長としての凛とした威厳が戻っていたが、その歩みには、どこか人間的な温かさが宿っているように見えた。その姿は、まるで王国の礎を支える、揺るぎない柱のようだった。
夜の王都を歩くクォーツの心には、イグニスの言葉が静かに響いていた。
「弱さもまた、強さとなり得る」
彼は、自分自身の回復魔法が、他人を癒すように、いつか自分自身の心も癒せる日が来るのかもしれない、と感じ始める。それは、今まで決して届かなかった、希望の光だった。
彼のポケットには、イグニスがさりげなく置いていった一枚のコインが忍ばせてあった。
それは、王国の紋章が刻まれた、ごくありふれたものだったが、クォーツの指先には、確かな重みを感じさせた。それは、彼への温かい激励と、見守っているという静かなメッセージのように思えた。
アークの自室に戻ったクォーツは、回復魔法の鍛錬を始めた。
それは、これまで義務感や焦りで行っていたものとは違い、どこか清々しく、自身の心の光を取り戻すための儀式のように見えた。
彼の瞳には、もう迷いはなかった。彼の魔力は、以前よりも清らかに、そして力強く輝いているかのようだった。
そして、彼は小さく呟く。
「……ふん。あの騎士団長に、借りを作ったままにはしておけないからな」
その言葉には、いつもの皮肉が混じりながらも、どこか穏やかな、新しい決意の響きが込められていた。
この夜の出会いが、クォーツが完全復活を遂げる未来への、静かな一歩となるだろう。
彼の心には、騎士団長イグニスという、新たな「友人」の存在が、確かな光を灯していた。