愛のない貴方からの婚約破棄は受け入れますが、その不貞の代償は大きいですよ?
「アズールサ、貴様がこれまで行った再三の悪事はとうに露見しておるぞ!」
キッ、と鬼気迫った表情を浮かべて開口一番に怒声を放つのは、公爵令嬢アズールサの幼なじみにして婚約者でもあるマタトニアその人である。
「……突然どうなさったのですか殿下、身に覚えのない話をされましても困ります」
単に両家の都合で決められた相手で当人同士は好意を抱いてはいないとはいえ、仮にも婚約者に向ける顔ではない。
しかしアズールサは気圧されることなく毅然とした態度で返す。
「しらばっくれてもそうはいかん! ミゼリアが余に泣きながらすべてを告白したぞ、貴様に酷いイジメを受けていたとな!」
「ミゼリア……ああ、彼女ですか」
アズールサの綺麗なターコイズブルーの瞳に、ある一人の女性が映る。
恐れ多くも一国の王太子であるマタトニアの影に隠れるようにして付き添っていたのは、隣国の出身だというミゼリア男爵令嬢だ。
生まれついての褐色の肌に目元の泣きぼくろが特徴的な彼女は、厚い生地で精緻に織られた濃紺のフェイスベールで顔の半分を覆っている。
隣国に伝わる礼装らしいのだが、顔を半分隠すという神秘性もあいまって得も言われぬ妖艶さを醸し出すのに一役買っていた。
そんなミゼリアは一見すると怯えたような様子だが、やはりアズールサには彼女にそんな態度を取られるようなことをした覚えはない。
「それでええと私がミゼリアさんに酷いイジメを行ったそうですが、さきほども申し上げたように私にはなにも思い当たる節がないのですが」
だからこそ当人としてはそう返答をするより他ならないのだが、
「まだ言うか! 本人の談もあるというのに拙い言い逃れをしようなどとは見苦しいぞ、それでも公爵令嬢か!」
まるで話にならない、とアズールサは内心諦めにも似たため息をつく。
どうやら既にマタトニアの中ではアズールサが諸悪の根源という前提で一連のストーリーが成り立っているらしく、彼女がなにを弁解しようともそもそも聞く耳を持ち合わせてはいないらしい。
「マタトニア様、どうかこの辺りで湧き上がったお怒りを鎮めてくださいまし。その端整なお顔に憤怒の色は似つかわしくありませんわ。わたくしにもなにか至らぬところがあってアズールサ様もあのようなことをなされたのでしょう」
頃合いと悟ったのか、件のミゼリアがおずおずと口を挟んだ。そもそもの発端である彼女だが、どうにも芝居がかったような口調である。
アズールサと決して目を合わせないように伏し目がちにしているが、果たしてフェイスベールの下ではどのような表情を浮かべているのやら。
「おおミゼリアよ、自身に仇なす者まで慮るとはそなたはなんと慈悲深い心の持ち主なのだ。それに引き換え、アズールサはなんと狭量なことか。おおかた彫刻品と見紛うほどに美しいミゼリアの容貌に嫉妬したのだろうが愚かにもほどがある」
「いやですわマタトニア様、わたくしが彫刻品のように美しいだなんて。しがない男爵令嬢であるわたくしなどより、よっぽどアズールサ様の方が見目麗しくありましてよ」
「ははは、そのようなことあるものか。確かに他の貴族たちには美人の令嬢が婚約者で羨ましいと褒めそやされたこともあるが、あんなのはただの世辞だろう。余の両眼にはミゼリアの美麗さしか映らんよ」
「マタトニア様ったら、本当にお上手ですこと。お戯れであっても嬉しさのあまりわたくしもつい本気にしてしまいますわ」
「構わん、余は世辞など言わぬ。なればこそ我が口をついて出た称賛の言葉はすべて嘘偽りのない本心ということだ」
あの気位が高く傲慢なマタトニアがこうも他人を、それも普段は下に見ている男爵令嬢を臆面の照れもなく褒め称えるとは驚きだ。
それだけマタトニアがこの女に入れ込んでいるということか。
一方でアズールサはといえば閉口したまま二人のやりとりをずっと聞いていた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、
――時間の無駄なのに、いつまでこんな茶番を見守っていなければならないのだろう。あー早くおやつ食べたい。今日はドーナツの気分!
ただそれに尽きた。
◆
ミゼリアが留学のためにこの国へとやってきたのは一月ほど前のことである。
上流階級の子息子女のみが通う学園に転入し、その類まれなる美貌と女の武器とも呼べる豊満な肉体をもって数々の有名子息を侍らせ始めたのもすぐの話。
白磁のような肌と慎ましい胸元の子女ばかりが在籍する学内において色黒で艶っぽい、正に女を感じさせるミゼリアの存在はすこぶる刺激的で、多くの子息が籠絡されるのも無理らしからぬことだった。
もろちんマタトニアもその内の一人で、一応は婚約者であるアズールサなどどこ吹く風で早々にミゼリアの虜となった。
当初は人目を憚って逢瀬を重ねていたようだが日数が経つにつれて大胆になっていき、とうとう怪しげな二人の関係はアズールサのあずかり知るところにまでなっていた。
だからといってアズールサには二人に詰め寄るつもりもなければ、引き離すつもりもなかった。
ましてミゼリアに対しイジメを行うなどもっての他で、浮気だろうがなんだろうが勝手にやってくれ、というのが本音だった。
「ああ、それにしても本当にミゼリアは純情可憐に過ぎる。アズールサを含めた、もっとこの国の女どももお前を見習うべきだ」
「わたくしなどを見習うべきところなんてございませんわ。それでしたらわたくしの方こそ学園でご令嬢の方々を見習うことが多々ありましてよ」
「謙虚なところもお前の美点だ。見た目だけではなく心根まで美しいとは、なんと素晴らしい女性なのだ。隣国の女は皆そうなのか?」
「そのようなことありませんわ。あちらでは女性はみんな猫のように気まぐれで自分勝手。ですがマタトニア様と一度お会いになり、そのご威光に触れれば誰もが躾の行き届いた忠犬のようになりますわ。このわたくしのように」
「ほほう、そうかそうか。ならいずれミゼリアの帰郷に合わせて隣国との交誼も兼ねた観光旅行に赴くのも悪くはないな!」
熱を上げているミゼリアの美辞麗句に気をよくするマタトニアだが、まさか世辞であることに気がついていないのだろうかと少し不安になる。
「はぁー……」
とはいえ未だに続けられる甘ったるいやりとりにいい加減辟易してきたアズールサはもはや隠すことなく大仰にため息をついた。
「――どうかお二人とも、そろそろ他所でやってくださいませんか。先程から私、あなた方の会話のおかげで背中がむず痒くて仕方がないのです」
「なんだと?」
すぐさまマタトニアがその言葉に反応し、再びアズールサを睨みつける。
「アズールサ貴様、なぜ余がこうもいきり立っておるのがまだ分からんらしいな」
「いえそのことは重々理解いたしました。ですが事実無根の嫌疑をかけられましても私にはなんら後ろ暗いことなどございませんし、お言葉ですがむしろ殿下の方こそミゼリアさんと結託して私を貶めようとなさっているのではありませんか?」
「貴様、言うに事欠いて余とミゼリアを愚弄するか! 曲がりなりにも婚約者だからといって調子に乗っているのか? こっちは貴様如きとの婚約なんぞいつでも白紙に戻してもいいのだぞ!」
「そうですかそれは結構なことで。殿下の方から私との婚約破棄を申し出られるのでしたらどうぞご自由に」
「ふん、泣いて取り縋って許しを乞うのなら先刻の言葉は聞かなかったことにしてやっても……、おい今なんと言った?」
「ですから、殿下からの婚約破棄のお申し出を私は甘んじて受け入れると申し上げました」
「なっ……!」
ここにきてようやく怒りから呆けたような表情に変わったマタトニアだが、アズールサの返答が信じられないといった様子で彼女を見た。
マタトニアとしては、どうか婚約の白紙だけはやめてくれとアズールサが情なく頭を垂れて泣きつき、次いで己のしでかした悪行を認めて愛しのミゼリアに謝罪するものとばかり考えていた。
だというのにまさか婚約破棄を前のめりで受け入れられるとは、甚だ想定外であったのだ。
「互いに決められただけとはいえ、婚約者である私のことはまるで信じず、曖昧模糊として具体的な内容説明すらいただけないミゼリアさんからの一方的なイジメ被害証言のみ信用する殿下には、ほとほと愛想が尽きました。従って、婚約を解消なされるというのでしたら、私に殿下のご決断をお引き止めする謂れはございません」
そう念を押すように重要な箇所を強調しつつ、キッパリとアズールサは告げる。
元より最初から破綻していたこの関係、不満が一度噴出してしまえばもはや修復は不可能だ。
「――っ、開き直りおって、貴様が自省する気も自らの非を認めるつもりもないことは分かった。ならば今この時をもってアズールサ、貴様とは縁を切る! 将来の王太子妃になれなかったことを後で後悔するといい!」
しばらく呆気にとられていたマタトニアだが、慌てていつもの傲慢な態度を取り繕うとそう言い放つ。
あくまで自身を正当化して精神的優位に立とうとしているが、そもそもアズールサは王太子妃の座には未練がないし、特段なりたいとすら思っていなかったので、脅し文句にすらなり得ない。
「そのご心配には及びません殿下。私は大変満足しておりますので、どうぞ小生意気な公爵令嬢を捨ててやったと喧伝なさって結構ですよ」
後悔が一つあるとすれば、もっと早くこの結末を迎えたかったということだろうか。
まあいい、これまで自分から切り出したくても切り出せなかった婚約破棄についての話を向こうからわざわざ振ってきてくれたのだから、それで良しとしようと思うアズールサである。
「もうよろしいでしょうマタトニア様、わたくし喉が渇いてしまいましたわ。どうでしょう、この後お茶にいたしませんか?」
いつの間にか面を上げていたミゼリアは、それまで纏っていた従順な小動物の雰囲気から獰猛な猛禽類のものへと変えていた。
やはり先程のいじらしい姿の彼女は演技だったようで、当初の目的も済ませたからさっさと元に戻ったというわけか。
「おおそうだな、愚かしい女にいつまでも構っているのは時間の無駄だな。茶か、であれば王城内にある余専用の茶室に招待しよう」
「まあ、それは楽しみにしておりますわ」
「ようやっと婚約破棄をつけたのだ、これからは大手を振ってミゼリアと交際できよう」
「嬉しく存じますわ、マタトニア様。わたくし、この時をずっと心待ちにしておりましたのよ」
「ははは、そうかそうか、本当に可愛いやつだなミゼリアは、……むっ?」
ミゼリアはしなだれかかるようにマタトニアの腕を取ると、たわわに実った胸元をわざとらしく押し付ける。
ごく自然に行われた所作を見るに奥ゆかしさの欠片は微塵もなく、貴族令嬢というよりは娼婦を思わせた。
媚を売られていることにも気づかず、すっかり鼻の下を伸ばしてその巨乳の感触を堪能しているマタトニアだが、なるほどこういう単純なハニートラップでミゼリアは一国の王太子に取り入ったのだろう。
その時の光景がありありと想像できるが、別にアズールサとて腹を立てるつもりもない。
マタトニアに興味もなければ愛情もないため、これまで彼がどこでなにをしていたか今更知ったところで関係ないのだ。
それよりもアズールサの心情としては、一刻も早く目の前で情事を繰り広げているこの二人にはいなくなってもらいたい。
そうして晴れて自由の身になったことを祝い、一人楽しくおやつタイムを迎えたかった。
けれどもその前に、これだけは言っておいた方がいいだろうと思ってアズールサは小ぶりな口を開いた。
「殿下とお茶に向かわれる前に一つだけよろしいですか、ミゼリアさん」
「はい?」
もはやこちらの存在など気にも留めず、今まさに部屋を出ようとしていたミゼリアを呼び止めるアズールサ。
「……わたくしになにかご用がありまして?」
振り返ったミゼリアは明らかに不機嫌な表情を隠そうともせず、貴族としてはるかに格上であるはずのアズールサを睨めつけた。
眼光が鋭く、温室育ちである並大抵の貴族令嬢ならそれだけで竦み上がること間違いない。
しかしアズールサは涼しい顔でその視線を受け止め、次いでにっこりと口元を綻ばせた。
その表情になにやら嫌な予感がしたマタトニアは、
「おいアズールサ貴様、まさかミゼリアに危害を加える気ではないだろうな!」
「そのつもりはございませんのでご安心ください殿下。この泥棒ねこと謗ることもいたしません。ただミゼリアさんには元婚約者として私から是非一言お祝い申し上げたくて」
「ふ、ふん、なんだそんなことか、紛らわしい。ならば捨てられた貴様に対する余の情けだ、特別に許可してやろう。さっさと口にするがよい」
しかし早とちりしたことを恥じてか、こほんと軽く咳払いをしてからアズールサに促した。
「ありがとうございます殿下。それではミゼリアさん、この度は交際おめでとうございます。私が(最初から努力するつもりがなかったとはいえ)射止めることのできなかった殿下の御心を見事に捉えられるとは流石としか言い様がありません」
「お褒めいただきありがとう存じます。ですが、マタトニア様がこのわたくしをお選びくださったおかげで、アズールサ様には大変心苦しい想いをさせてしまって恐縮てすわ」
ミゼリアはそう謝罪するものの心にもないことは明白だ。もちろんアズールサからの称賛を受け入れる声も棒読みであった。
「いえ、ミゼリアさんが気に病む(演技をする)必要はありませんよ。婚約解消も殿下がお決めになり、そして私が受諾しただけのこと。陰ながらこれからの幸せを祝福するとともに殿下の最期の時までお二人がご健勝であらせられるよう心より祈っています」
「…………っ!?」
殿下の最期の時まで――。
その含んだような物言いに隠された真の意味に気がついたミゼリアは、そこで初めて動揺の色を見せた。
フェイスベールが内側からわずかに揺らめき、恐る恐るといった様子で彼女のワインレッドの瞳がアズールサを見据える。
「……アンタ、もしかして気づいていたの?」
探りを入れるかのような問いかけ。
それまでの恭しい口調が崩れてどこか男勝りな印象の物言いになっていたが、本人がそのことに気がついた素振りはなかった。
内心焦っていた、のかもしれない。
「ええ、もちろん。ですが今の私は貴方も知っての通り殿下とはなんの関係もないただの公爵令嬢です。だから貴方の邪魔をするつもりはないのでどうぞお好きになさってください。なにがあったとしても知らぬ存ぜぬを貫きますから。それと、すっかり言葉遣いが乱れていますよ?」
「……っ、その通告に一切の嘘はありませんわねアズールサ様?」
アズールサの指摘にしまった! という表情を浮かべたミゼリアは、慌ててそれまでのお嬢様然とした態度を取り繕う。
その様子がなんだか微笑ましいものに思えて、アズールサは柔らかく返答をすることにした。
「誓って貴方の正体を誰かに話したりしません。これは暗愚から解放された私からのお礼だとでも思ってくださいな」
まるで暗号のようにこれまた言葉の裏に真意を混ぜて言う。
先ほどの意味を理解したのだから、これで相手にも伝わるはずだと。
案の定、暗愚が果たして誰のことを指しているのかすぐに理解したミゼリアは目を細めた。
「――ああ、つまりそういう意味なのですわね。でしたらわたくしも遠慮なく、そちらのご厚意に甘えさせていただきますわ」
頷き、それから少しばかりの沈黙が流れる。
「ふっふふふ」
「うふふふふ」
やがてどちらからともなく相好を崩し、互いに笑い合うアズールサとミゼリア。
このような形の出会いでなければもしかしたら無二の親友になっていたかもしれない、そう思わせる光景だった。
「なんなのだお前たち二人して余に伝わらぬ話をしおってからに! アズールサ、貴様ももうよいであろう!」
だがこの場で行われた秘密のやりとりに理解が追いつかない愚かな男が一人、焦れたように声を荒げた。
「おや、申し訳ございません殿下。ただいま話も終わりましたので、殿下の愛しいミゼリアさんをお返しいたします」
憤慨するマタトニアに謝罪と会釈をしてから、アズールサは改めてミゼリアに退室を促す。
「それではごきげんようアズールサ様。これからマタトニア様のことはわたくしに、どうぞすべてお任せくださいませ」
ミゼリアもまた優雅な所作でカーテシーを一つ行ってから、隣へと顔を向ける。
「では参りましょうか、マタトニア様」
「うむ、そうだな!」
再びマタトニアの腕を取ると胸にかき抱いて、仲睦まじい様子で部屋を出ていった。
「……楽しい一夜になると良いですね殿下、いえマタトニア」
二人が去るのを見届けた後アズールサは静かに独りごちる。
その声音はゾッとするほど平坦で、つぶやいた内容とは裏腹に、一種の憐れみすら感じさせた。
――愚かな王太子マタトニアは気づかない。
自身が婚約者を捨てたのではなく、向こうから見捨てられたということを。
我が身に迫る残酷な運命から唯一助かることができた選択肢を自ら潰したのだとは、やはり最後まで彼が気づくことはなかった。
◆
「ふはははは」
王太子マタトニアは傍から見ても分かるほどに浮かれていた。
理由は単純にして明快。
かねてより熱を上げて入れ込んでいた男爵令嬢をようやっと手にすることが出来たからである。
爵位自体はいささか低級だが、隣国出身の絶世の美女ともなれば他の子息を押しのけて根回しをし、何度も口説いた甲斐もあったというもの。
その上、いけ好かない元婚約者に婚約の解消を取り付けることに成功し、もうこれで誰に文句を言われる筋合いもない。
つまり、自分の完全勝利だ。
思えば昔から彼女は忌々しい存在だった。
王族である自分よりも物事に聡く、上流階級はおろか下民どもの世情にも精通し男女問わず人々に広く好かれていた。
しかしそれに比べて自分は王太子としては未熟かつ短絡的で、おおよそ次代の王の器ではないと常に陰口を叩かれてきた。
他にも王位継承権を持つ第二王子がいるものの順位と体が弱く、次期国王に指名される可能性が限りなく低いことは残念な限りであるとは、はてどの臣下が口にしていたのであったか。
『アズールサ様がわたくしだけ無視をなされるのです……』
そんな折、ミゼリアの方から例のイジメ被害の相談が持ちかけられた。
正直マタトニアとて、まさかあのアズールサがそんな低俗なことをしていたとは思えなかった。
だが心を奪われた女からの訴えとその瞳から流れる涙を見てしまった瞬間、それはマタトニアの中で確証なき事実となった。
灼熱のように滾る義憤の炎と、それから少しの打算が胸中に浮かぶ。
――これをネタにあいつに詰め寄れば、公然とミゼリアと交際することができるのではないか?
かつて馬鹿王子と揶揄されたマタトニアは愚かにもそんなことを考えてしまった。
そして実際に行動へと移した。だが結果は全部想像していた通りには事が運ばなかった。
あろうことかアズールサは平然と自分との婚約破棄を受け入れたのだ。
そのことでプライドが傷つけられすこぶる腹が立ったが、同時にこれはチャンスでもあった。
すべての原因をアズールサに押し付け、相手に対する不信感から此度の婚約解消は妥当だという筋書きにすることができそうだったからだ――と思った矢先、残念ことにアズールサの方からそれを言われてしまった。
だからこそつい声を荒げ、結局は勢いに任せて責任の所在をはっきりさせる前に話を切り上げる形となったのは反省すべきところではある。
だが、まあいい。
過程はどうであれ、もはやアズールサとは一切の関係性を断ち切ったのだから。
それよりも、これからのことに思考を巡らせるとしよう。
もちろんその内容は、『どうやってミゼリアに自然な性交渉の誘いを切り出すか』であったが、実はとっくに舞台は整えてあった。
王城内の客室からも離れたプライベートルームへとミゼリアを招き入れてから、茶の準備だけをさせると給仕を含めて何人足りともこの部屋には近寄らせるなと厳命しておいたのだ。
これでもう、部屋でなにが起ころうとも誰かがすぐさま確認に訪れることもない。
つまり、この密閉された部屋の中には愛しあう一組のカップルのみ揃っているというわけだ。
当然、肉欲を持て余した若い男女の間で過ちが起こらないはずもなく、あとは情事に耽るためのムードさえ作ってしまえば、あの零れんばかりの巨乳も衣服から覗く瑞々しい肢体も、すべて自分のものだ。
もちろんその先にある、神々しいであろう裸体もなにもかも。
ゴクリ、と生唾を飲むマタトニア。
邪な考えが次から次へと湧いて、もはや自身を抑えられそうにない。
人間の三大欲求である食欲、睡眠欲、それから――性欲。
思えばアズールサは身持ちも固く、元婚約者でありながら婚姻関係を正式にするまで婚前交渉は行わないと頑として譲らなかった。
その点ミゼリアなら言い方が悪いが貞操観念は低そうだ。
以前それとなく尋ねた際に自分はまだ生娘だと言っていたが、確か胸の大きな女性は性に奔放と聞いた試しがある。
そしてそれは、これまでの自分に対する性的なボディータッチからも伺えた。
自ら媚を売るが如くその豊満な胸を押しつけ、あまつさえ男をその気にさせる甘い文言をそっと耳に囁いてきたりもしたのだ、まさかこれが自分の勘違いであるはずがない。
故に王族の立場を利用して強引に押し迫れば、簡単に股を開いてくれるに違いないだろう。
最悪乱暴してしまっても、臣下どもの働き如何でなんとかなるはずだ。
少なくともそうするだけの権力はあるし、隣国出身とはいえ、たかが男爵令嬢如きが将来この国を背負って立つ自分に刃向かえるはずもない。
だいたいこうも無防備に男と二人きりになっている時点で、少なからず向こうにもそういった類の意思があるのは自明の理。
据え膳食わぬは男の恥であるし、どうせ遅かれ早かれ彼女を抱くことになるのだから、だったらその日が今日でも問題ないだろう。
だがその前に少し喉が渇いてしまった。緊張と興奮と、それからアズールサ相手に激高したせいだろうかとマタトニア。
性交渉よりもまずは茶で喉を潤そうとしてはたとあることに気付く。
「……しまったな、せめて給仕に茶を淹れさせてから追い出すべきだったか」
返事を求めたつもりはない。たんに口を突いて出ただけの言葉であったが。
「でしたらマタトニア様のために僭越ながらこのわたくしがお淹れいたしますわ」
と、ミゼリア自ら買って出る。
「おお、頼む。ミゼリアが手ずから淹れてくれた茶ならばこの世のどんな甘露よりも極上の一杯となろうな、楽しみだ」
茶も貴族の嗜みの一つだが、男爵令嬢とはいえ給仕に命令するのではなく自分で用意できるとは驚きだ。
流石は自分が見初めた女だとマタトニアは感心する。
「ええ、ですが恥ずかしながらわたくし実はお茶淹れが不得手でして。マタトニア様にこのようなことをお願いして大変恐縮ですけれど、不格好なところをお見せしたくございませんので少しの間目をつむっていていただけますか?」
「目を? うむ、分かった」
イスの上でふんぞり返って腕を組む。
期待に胸を膨らませ、ニヤニヤしたまま両目を閉じるマタトニアの近くでカチャカチャと食器の擦れる音がしていた。
それにしても、あの完璧だと思われたミゼリアにも苦手なものがあったとは。まあ、この程度のことなど別に克服するまでもないだろうが。
「……お茶のご用意ができましたわ。マタトニア様、もう目を開けてくださっても結構でしてよ」
そんなことを考えていると、ちょうどミゼリアから声がかけられた。
言われた通り目を開けると、目の前に湯気立つ紅茶が置かれていた。
見たところ、いつも飲んでいる紅茶と見た目は遜色ない。
とりあえず角砂糖を三つ投入してから、
「では、余の愛するミゼリアが淹れてくれた記念すべきこの一杯をいただくとしよう」
どうぞと勧めるミゼリアに目で応え、ソーサーごとカップを口元に持っていく。
鼻に抜ける香りは、いつものと同じ。
口内に含んだ紅茶の味にも違いがない。
(なんだ、謙遜して茶が不得手と言っていただけで普通に達者ではないか。確かに元々上質な茶葉だとはいえ、これだけできれば見事だ)
あるいはもしかしたら腕に自信がないだけかもしれない。王太子自ら本人を褒めてやればきっと自信もつくことだろう。
「お味はいかがでしょうか、マタトニア様」
「うむ、やはりお気に入りのお前が淹れてくれただけあって美味――」
最後まで言い切る前に吐き気がこみ上げてくるほど猛烈な不快感がマタトニアの体を襲った。
訪れた不快感はそのまま刺すような鋭い痛みに変わり、同時に喉が焼ける感覚にも見舞われる。
「がっ……あがっ」
マタトニアの手からカップとソーサーが滑り、床に敷かれたカーペットの上に落ちる。
まだ半分ほど残っていた紅茶がシミを作ったのを見て、彼はある一つの推測に至った。
「ま、まざがミゼ……ッ、紅茶に、毒を……?」
たまらず床に両手をつき、まるで赤ん坊が如く四つん這いになる。
全身に異常なまでの悪寒が走りとてもじゃないがまともに立っていられない。
「あはは、許しを乞うみたいでいい眺めじゃないか。――ああそうさ、そのまさかだよ」
悪びれた様子もなく、紅茶に毒を盛ったことを認めたミゼリア。
その顔からはこれまで見せていた自分に対する柔らかさが消え失せ、代わりに冷徹な表情が貼り付けられていた。
言葉遣いも丁寧な口調から一転、平民のように砕けて険の混じった物言いになっている。
「なじぇっ、んがっ、なぜ……っだぁっ⁉」
「なぜってそりゃアンタ、あたしの正体が王子の命を狙う暗殺者だからに決まってるだろうさ」
「なっ……!」
予想もしていなかった返答にマタトニアは目を剥く。
彼女が暗殺者?
そんな与太話は信じられない、信じたくない。
しかし、ならばこの状況はなんだ?
どうして自分は無様にも頭を垂れて地に伏し、苦しみに喘いでいるのだ?
分からない、分からない――。
混乱する頭で必死に理解しようとするものの、思考がぐるぐると乱れてまとまらない。
更に吐き気を堪えるにも限界がきてしまい恥を忍んで嘔吐すると、出てきたのは吐瀉物ではなく黒みがかった血塊だった。
毒が巡り、呂律も回らない。もはや一刻の猶予もないことだけはかろうじて理解した。
助けを、助けを呼ばなくては。
「だ、だれきゃっ……、だれきゃあ! あああ、どぼじでだりぇもごないっ!」
血の痰が喉に絡みつくのも構わずマタトニアはなんとか声を絞り出すが、なんの反応もない。
これだけの騒ぎがあったら普通すぐさま臣下が飛んでくるべきだというのに、部屋の外は静寂に包まれ足音一つすら聞こえてこないとはどういうことか。
「おいおい、召使いを追い出したのはアンタ自身じゃないのさ。いやぁ、出された命令をきちんと遵守してて小物にはもったいないくらい忠誠心が高いようだ。もっとも、仕えるべき主を間違えたみたいだけど」
そう吐き捨てるミゼリアからの冷たい言葉に、ようやくマタトニアは自分が騙されていたことに遅まきながら気がついた。
「ぐっ、余を愚弄ずるがっ、おにょれミゼリア、ごのうりゃぎりもにょめ……!」
しかし至極まっとうな正論に返す言葉もなく、せめて憎しみを込めてミゼリアを面罵するぐらいしかできなかったが、それすらまともな発音にはならなかった。
「裏切るもなにも最初からそのつもりでアンタに近づいてただけのことさね。第一最初に裏切ったのはマタトニア、アンタの方だろ?」
「よぎゃ、げぇっ、おえぇ! はぁっ、はぁっ、余ぎゃ、だりぇれをうりゃぎっだだどっ⁉ がっ、ごぼごぼっ」
と、気合いでどうにかこうにか吠えたものの、もう一度大量の血を吐いてしまう。
これでは大声を上げることは叶わないだろう。
が、やはりミゼリアは意に介さず、涼しい顔のままとある名前を告げる。
それはマタトニアもよく見知った女性のもの。
「公爵令嬢アズールサ、……馬鹿なアンタが自分から捨てたと思いこんでる元婚約者だよ。あたしに夢中になってあの娘を裏切ったくせに、よくもまあ言えたもんだ。だけどアンタも可哀想だね、本当はあの娘から見捨てられただけだってのに」
「にゃ、にゃに……?」
とうとう視界すら霞んできたマタトニアの脳裏に、アズールサの姿が思い起こされる。
あのまま素直に謙っていればいずれ王太子妃になれたはずなのにそれを反故にした愚かな女、ではなかったのか。
「冥土の土産に教えてやるよ。こんな風に簡単なハニートラップに引っ掛けるような男がどうして今の今まで女に暗殺されかけなかったと思う? 答えは単純さ、これまではアズールサが陰ながらアンタを守っていたからだよ」
王太子暗殺のため学園に潜入し、自分との交際を餌に何人かの子息からターゲットの情報を聞き出していると、必ずといっていいほどアズールサの名前が挙がった。
曰く彼女はマタトニアの婚約者かつお目付け役も担っており、その愚行を何度となく諌めてきたという。
また、王太子妃の地位を狙って彼との略奪婚を目論むいわゆる相談女はたくさんいたようだが、これもアズールサがそれとなく裏で阻止していたとも。
けれどもアズールサもほとほと嫌気が差したのだろう、事ミゼリアの時に限っては接触どころかそもそも実際に無視されていた。
もちろんそれ自体イジメ行為ではなかったが、相談女を装うべくどうせならと利用した。
「そんなアズールサがアンタを見捨てるきっかけになったのは、そう、例の婚約破棄の一件だね。本人も言ってただろ? 暗愚から解放されたお礼ってさ。だから婚約破棄の原因となったあたしの正体と目的に気づいていたのに、あえて見逃してくれたってわけ」
おかげでこうやって対象に警戒されることなく懐に潜り込めた、と続ける。
「でも昼間は焦ったね。まさかあの娘にあたしの正体が気取られるとは思わなかったからさ、つい演技を忘れて素に戻っちまったよ。まあどっかの色ボケた馬鹿王子はまったく気に留めてなかったようだけど。あの時あたしに騙されていたことをさっと自覚してアズールサに誠心誠意謝りゃあ、今頃そうやって血反吐を吐いて苦しみながら死ぬ必要もなかったのにねぇ?」
その時の光景を思い出すとよっぽど面白かったのかくつくつとミゼリアは笑う。蠱惑的でどこか色っぽい、実に麗しき女暗殺者の姿であった。
「ぞん、な……」
一方で真実を聞かされ、急速に力が抜けていくマタトニア。
彼の心は信じるべきだった者を違えたショックで苛まれており、その深い絶望によって気力すら削られていった。
そうして次第にヒュー、ヒューと喘鳴し始め、いよいよもって最期の瞬間を迎えつつあった。
しかしだからといってミゼリアの口撃が止まることはない。まるでここにはいないアズールサの分までマタトニアを非難するかのように、激しい言葉を浴びせる。
「アンタがあたしを手に入れようと必死になって真実の愛とやらを語る様は滑稽で、笑いを堪えるのにホント苦労したよ。でもそれ以上に、愚かで蒙昧で浅はかで憐れで間抜けで――無価値で無能なアンタを見ていていつも腸が煮えくり返りそうだったさ。その汚らしい目であたしの肉体が視姦されるのは気持ち悪かったし、やらしい手つきで触れられるのも生理的に無理で、だからずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとッ! 暗殺任務を抜きにしても個人的な感情でテメェをもっとも残忍でもっとも残酷でもっとも残念な形で殺してやりたかったんだよ、このゴミクズ! だけどようやくネタバラシも全部済んだわけだしこれでもう安心して――さっさと死ねよ」
そうやって一通り本音をぶちまけたところで、服の下に隠していたナイフを太股のホルダーから引き抜く。
狙うのはマタトニアの心臓。
とどめは毒ではなく、自身の手で刺すと決めていた。
故に一切の躊躇も逡巡もなくミゼリアは馴れた様子で一息にあっさりと、抵抗なきマタトニアの体にナイフを突き立てた。
「……っ! ……、……ア」
閉じかけていた目をカッと見開き、苦悶の表情を一瞬浮かべてピクピクと痙攣するマタトニア。
並行して口からブクブクと血の泡を吹き出し、やがて動かなくなった。
今際の際にかろうじて彼が呼んだ女性の名前はミゼリアとアズールサ果たしてそのどちらのものだったのか、もはや永遠に知ることはできない。
だがミゼリアにとってまったく興味のないことでもあった。
「さようなら、マタトニア王子。楽勝だったけど最低最悪なターゲットだったわ」
なにせ暗殺達成さえできれば、それでよかったのだから。
◆
アズールサが王太子暗殺の一報を知ったのは、彼に婚約破棄を告げられてから一日と半日経ってのことだった。
その際犯人として事情聴取されたわけではないが、婚約者の身分でもあったために多少なりとも疑われて色々と追求を受けることになった。
しかしアズールサは自分がマタトニアに浮気をされていたこと、それが原因で婚約解消の憂き目にあったことを赤裸々に語り、今回の件には一切関与していないと控えめに主張した。
そして実際に城内で勤務する多くの者が、彼女ではなくミゼリアを連れてプライベートルームに消えたマタトニアの姿を目撃しており、おかげでアズールサの証言は全面的に肯定された。
双方の名誉のためにくれぐれもこの件は内密に――、そう宰相からは釘を刺され、実情はどうであれアズールサとしても家名を下げるだけだと、表向きは婚約者の王太子を無残に暗殺された悲劇の公爵令嬢、ということになっている。
現在、凶行を成し遂げた犯人としてミゼリアの足取りを追っているが、服をはだけて泣きながら城から走り去っていく姿が確認されたのを最後に杳としてその消息はしれない。
だが王太子暗殺という前代未聞のスキャンダルの当事者だ、恐らく既に口封じされているのではないかと見立てられている。
そしてこれは後に分かったことだが、ミゼリアという男爵令嬢は最初から存在していない。
隣国のある男爵家には確かにミゼリアという名の嫡女がいたそうだが、当時の流行り病で十にも満たない年頃で死去したという。
その上両親ともども褐色の肌を持ち合わせず、当然ながら娘も親と同じ雪のように白い肌だったそうだ。
ではミゼリアの存在を騙った暗殺者はそもそも本当に隣国出身だったのか?
実はミゼリアとその男爵家の内情を知っていて身分の偽装に使った可能性も捨てきれない。
例えばそう、昔一緒に遊んだことのある異国の友人が今頃になって彼女の死を悪用した、とか。
もっともあくまでこれは想像でありマタトニアの暗殺を決行した理由も、暗殺者の出自も、当人が見つからない以上すべて真相は闇の中だ。
ただ暗殺者を手引きした黒幕がいることだけは確かで、マタトニアが亡くなったことでなんらかの利益を得ている者たちが国内に少なからずいるという。
その中には彼女も含まれており――。
「人の恨みというのは一体どこで買ってしまったのか案外本人には分からないものですね、殿下」
自室で紅茶を嗜んでいたアズールサは誰に語るでもなく一人つぶやく。
茶菓子を一つつまみながら、彼女はあの時言えなかった、いやあえて言わなかった、マタトニアが暗殺者から唯一助かるために、そして彼が真実を得るために必要だった言葉を口にする。
「ああそうそう、殿下が入れ込んでいるそちらの彼女って実は私の差し金なのですよ? ……まあ独り言ですが」
我に返って急に照れが生じたのだろう、最後にそう付け加え、紅茶で口の中の菓子を流し込む。
だいそれた告白をしてすっきりしたアズールサの表情は実に晴れやかで、人の血で黒く染まったフェイスベールをしばらく手で弄んでから徐に暖炉の火の中へと投げ入れた。
(了)
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