第5章 前編:思いがけない申し出
かすかなざわめきが、カルヴァを眠りの底から呼び戻した。
まぶたは重く、身体も鉛のようにだるい。
もうしばらく、このまま眠っていたい――そんな感覚が全身を包んでいた。
昨日、あの恐ろしい魔物に襲われた出来事。
その記憶が、まだ筋肉の奥深くに染みついて離れない。
カルヴァは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
少しずつ、その呼吸とともに眠気を振り払っていく。
外から聞こえてくる音が、次第に鮮明になっていった。
重なる声、地面を叩くような足音、どこか切迫した口調の会話。
眉をひそめながら、カルヴァはベッドから身を起こし、窓へと足を運ぶ。
そして、窓を開けた瞬間――目を見開いた。
そこに広がっていた光景は、いつも見慣れたものとはまるで違っていた。
孤児院の中庭には、冒険者たちの姿がひしめいていた。
壁にもたれて座り込む者、地面に膝をついて武器の手入れをする者。
だが、カルヴァの目を引いたのは、その誰もが──
深い疲労の色を、顔に刻んでいるということだった。
衣服は泥にまみれ、あちこちが裂けている。
中には、血のような痕が乾いてこびりついている者さえいた。
壊れた鎧、折れた剣。まるで、今さっき戦場から戻ってきたかのような有様だった。
「な、何が……あったの……?」
窓枠をぎゅっと握りしめながら、カルヴァは小さく呟いた。
胸の奥で、不安と好奇心が渦を巻く。
迷うことなく、彼女は踵を返し、部屋を飛び出した。
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廊下を早足で駆けていると、見覚えのある姿が目に入った。
茶色の髪をきちんとまとめた年配の女性が、料理と飲み物を載せたワゴンを押して歩いている。
「エリナ母さん!」
カルヴァが駆け寄って呼びかけると、
その声に気づいた女性が振り返り、優しげな笑みを浮かべた。
「まあ、カルヴァ。もう起きたのね?
気分はどう? ぐっすり眠れた?」
「はい、元気です! よく眠れました!」
そう答えたカルヴァだったが、すぐに本題に切り込む。
「でも……あの、外で何が起きてるんですか?
どうしてあんなにたくさん冒険者がいるんですか? それに……みんな、あんなに……
……疲れきった顔をしてるんですか?」
エリナは、ワゴンを押す手をそっと止めた。
その表情に、一瞬だけ言いづらそうな気配が浮かんだが、
すぐに落ち着いた口調で答える。
「……詳しいことを知りたいなら、マリエル母さんにお聞きになるのが一番ですよ。
昨夜の出来事には、マリエル母さん自身が深く関わっていらっしゃいましたから」
カルヴァは力強く頷く。
「マリエル母さんは、今どこに?」
「前庭で、冒険者たちとお話しされていますよ」
「ありがとうございます、エリナ母さん!」
ぺこりと頭を下げて、カルヴァはすぐに駆け出していった。
その背中を見送りながら、エリナはそっと微笑み、再びワゴンを押し始める。
前庭に足を踏み入れた瞬間、カルヴァの目にマリエルの姿が飛び込んできた。
彼女は腕を組み、目の前の冒険者の報告に真剣な面持ちで耳を傾けていた。
その立ち姿には一分の隙もなく、
いつもの穏やかな保護者の顔とはまるで違っていた。
──まるで、戦場を見据える指揮官のようだった。
カルヴァは思わず立ち止まった。
声をかけたかった。
でも、大切な話の途中かもしれない。
そう思い、少し距離を取って様子を見ることにした。
やがて冒険者は報告を終え、深く頭を下げてその場を後にする。
──その直後だった。
「やっと目を覚ましたのね」
カルヴァはびくりと肩を震わせる。
「ど、どうして……わかったの……?」
その正確な察知に、驚きと尊敬が胸に広がる。
その動揺を察したのか、マリエルがゆっくりとこちらを振り向き、
小さく手を振った。
「こっちへいらっしゃい」
促されるままに、カルヴァは足早に駆け寄る。
彼女のもとに辿り着いた瞬間、マリエルは静かに手を取って導いた。
だが、歩き出す前に──もう一つだけ言葉を添える。
「行く前に、一つだけ。
これから目にするものに、心の準備をしておきなさい」
カルヴァはごくりと喉を鳴らし、小さく頷く。
「……大丈夫。覚悟はできてる」
その言葉とともに、二人は静かに前庭へと歩み出した。
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カルヴァとマリエルが孤児院の扉を開けて外へ出た瞬間、朝の陽光が鋭く差し込み、目を刺すような眩しさが二人を包み込んだ。
思わずカルヴァは手をかざし、細めた目を光に慣らそうとする。
やがて視界が徐々に明瞭になっていき――
目の前に広がる光景に、彼女はその場に立ち尽くした。
孤児院の中庭には、数え切れないほどの冒険者たちが集まっていた。
疲労困憊の表情で腰を下ろす者、安堵に満ちた顔で語らい合う者。
剣を研ぎ、鎧の傷を確かめ、水筒を傾ける姿もあれば、粗末な食事を分け合いながら時折笑い声をあげる小さな集団も見える。
それだけでも非日常の光景だったが――
カルヴァの視線を真に引きつけたのは、その向こうにあるものだった。
孤児院の門の外――
地面を覆い尽くすように、魔物の死骸が幾重にも積み重なっていた。
黒ずみ始めた肉体からは鼻を突く悪臭が漂い、赤黒い血の痕が乾きかけた大地を汚している。
その中には、武装したゴブリンや巨大な狼、カルヴァが今まで見たことのない異形の魔物たちの姿も混じっていた。
そして、それらの死骸を黙々と整理する冒険者たちの姿――
その光景は、現実とは思えないほど異様だった。
集められた死骸の山が一定の大きさになると、一人の魔導士が前へ出て、落ち着いた声で呪文を唱え始める。
その瞬間――
──ゴォッ!!
轟音と共に炎が噴き上がり、魔物の残骸は一瞬にして業火に包まれた。
黒煙が空へと立ち上り、焦げた肉の匂いが風に乗って辺り一帯に広がっていく。
カルヴァは息を呑んだ。
――昨夜、ここで……いったい何があったの……?
疑問を口にする前に、隣に立つマリエルが先に言葉を発した。
「……昨夜、何が起きたのか、気になってるんでしょう?」
その一言にカルヴァは肩を震わせ、驚いたようにマリエルを見上げる。
まるで心の内を見透かされたような気がして、思わず小さく頷いた。
マリエルは微笑みながら続けた。
「オリン様の予想通り、魔物の襲撃があったのよ。そして見ての通り――」
彼女は顎を僅かに動かし、燃え盛る死骸の山を指し示す。
「――私たちは、なんとか撃退することができたわ」
カルヴァは黙って彼女の話に耳を傾ける。
「魔物の中には低レベルの個体もいたけれど、大半はレベル20以上だったの。もし準備が間に合っていなければ、夜明け前にこの場所は陥落していたでしょうね」
「レベル20以上……!?」
カルヴァは驚愕に目を見開く。
それは、もはや一般の冒険者では太刀打ちできない脅威だ。
マリエルは腕を組みながら続けた。
「でも幸いにも、ここに配置されていた冒険者たちは皆、実力者ばかりだったの。魔物の気配を感じ取った瞬間、すぐに門の外へ出て布陣を整えたわ。戦いは長引いたけど、連携が見事だったから孤児院に辿り着かせる前に、全て撃退できたの」
そう言って、マリエルは小さく息を吐く。
その表情には、僅かな誇りが滲んでいた。
「それにね、一番すごいのは――昨夜戦った三十人の冒険者のうち、誰一人として命を落とさなかったのよ」
「ほんとに!? 一人も……?」
カルヴァは信じられないというように声を上げた。
マリエルは静かに頷く。
「もちろん怪我人は出たわ。軽傷の人もいれば、重傷の人もいた。でも回復役が十分にいたから、全員すぐに治療を受けられたの」
その言葉を聞いた瞬間、カルヴァはいつの間にか息を詰めていたことに気づき、安堵と共に深く息を吐いた。
そして、心の奥にじわりと湧き上がる尊敬の念を抱く。
どうして、そんな強大な魔物の群れを……しかも死者ゼロで撃退できたの?
疑問を胸に抱えたまま、ふと彼女は気になっていたことを口にした。
「……じゃあ、昨夜……マリエル母さんも戦ったんですか?」
エリナがそう言っていた。けれど目の前のマリエルは、疲れの色一つ見せず、傷も見当たらない。信じがたいほどに元気そうだった。
その問いに、マリエルはにやりと笑った。
「ええ、もちろんよ。子供たちが危険に晒されているのに、私が黙って見ているわけがないでしょう?」
「すごい……! マリエル母さん、本当にすごいです!」
カルヴァの瞳がキラキラと輝く。
マリエルは柔らかく笑い返す。
「ふふ、もう昔みたいには動けないけどね。でもこの老いぼれた体でも、若い頃の勘はまだ残ってるわ。まあ……」
肩を軽く回しながら、冗談めかして言う。
「今日は一日中、筋肉痛に悩まされそうだけどね」
二人は思わず笑い合った。
その時だった。
孤児院の正門の方から、一人の大柄な男がゆっくりと歩いてきた。
乱れた灰色の髪、立派な髭、そして、どこか安心感を与える親しみやすい笑顔――
昨夜出会ったばかりのはずなのに、不思議なほど、あたたかさを感じさせる人だった。
オリン・オヴァリン。
優しさと威厳を併せ持つその男は、中庭に集まる冒険者たちを見回す。
武器の手入れをする者、肩を並べて語り合う者……皆疲れた様子だが、その表情にはどこか達成感が宿っていた。
カルヴァは彼の姿を見つけるなり、顔をぱっと輝かせる。
「オリンおじさん!!」
迷うことなく駆け出した。
オリンは歩きながら、すれ違う冒険者たち一人ひとりに声をかけていく。
「昨夜はよくやってくれたな」
「怪我はしていないか?」
「皆、本当にお疲れさま」
声をかけられた冒険者たちは、疲れながらも笑みを浮かべ、時に苦笑しながら頷いた。
戦場で共にした彼の姿を、懐かしむように。
そして、カルヴァの姿に気づいたオリンは、さらに優しく笑った。
その場でしゃがみ込み、走り寄ってきたカルヴァをしっかりと受け止める。
「オリンおじさん! オリンおじさん!!」
カルヴァは息を切らしながらも、満面の笑みで何度も彼の名を呼んだ。
オリンは豪快に笑い、カルヴァの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「ははは、お前は朝から元気いっぱいだなあ」
カルヴァは嬉しそうに大きく頷いた。
そこへマリエルが歩み寄り、穏やかな表情で声をかける。
「オリン様」
オリンは立ち上がり、変わらぬ柔らかな笑みで応じたが――
すぐに真面目な話に入らず、どこか冗談めいた口調で言う。
「昨夜は、随分と賑やかだったようだな」
マリエルは苦笑しながら答えた。
「ええ、まったく……とんでもなく厄介なお客様が押しかけてきたものですから」
オリンは声を上げて笑う。
改めて中庭を見渡し、生き残った冒険者たち、無傷の孤児院、そして焼かれつつある魔物の残骸に目を向けた。
満足げに小さく息を吐く。
「……皆、本当によくやってくれた」
そして苦笑を浮かべながら呟いた。
「最近の若い冒険者たちは、実に頼もしいな。俺たちが若かった頃なんて、到底敵わなかったよ」
マリエルも同意するように頷く。
「ええ、本当に。今の子たちは、本当に成長が早いですね」
束の間の和やかな空気の中で――
マリエルの表情が少し引き締まる。
「ところで……昨夜はエルヴィン司令と一緒にいたはずですが、オリン様の方は……どうでしたか?」
その名を聞いた瞬間、オリンの表情に変化はなかった。だが、瞳の奥に一瞬、影が揺れた。
「なんとかなったよ」
淡々とした声。
「幸い、村には間に合った。魔物が突破する前に、食い止めることができた」
マリエルは安心したように、静かに息を吐く。
だが――もう一つ、気になることがあった。
「……それで、結果は? こちらでも知っておくべきことはありますか?」
その問いに、オリンはしばしマリエルを見つめ、そして微笑む。
「それが……今日ここに来た理由さ」
その声には、いつもとは違う重みがあった。
「状況を確認するためだけじゃない。昨夜の件で、伝えるべきことがある」
マリエルはその変化を敏感に察し、無言で頷いた。
「冒険者たちを集めてくれ。全員に話しておく必要がある」