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第4章:動き始めた夜

木造の家の中は、優しい温もりに包まれていた。

静かな時間が流れ、淹れたての茶の香りが室内をほのかに満たしている。だがその心地よさの裏には、微かな緊張が潜んでいた。


オリン・オヴァリンは、年季の入った大きな木製の椅子に腰を下ろし、腕を組んで黙っていた。

その向かいには、金茶色の髪を持つ女性——マリエルが、真剣な表情でティーカップを手にして座っていた。


彼女は静かに一口お茶をすすり、そっとカップを置く。

その瞳には、感謝と同時に拭いきれぬ不安が滲んでいた。


「まず初めに……本当にありがとうございました、オリン殿」

そう言って、マリエルは深々と頭を下げた。

「もし、あなたがいなければ……カルヴァは……」


言葉を言い終える前に、オリンが片手をゆっくりと上げて、静かに制した。

「礼なんていらない。ただ、たまたまそこに居合わせただけだ」


しかし、マリエルは首を横に振った。

「そう仰っても……あの状況で子どもを救える人なんて、そうそういません。ましてや、引退された方なら尚更です」


オリンは短くため息をつき、わずかに肩をすくめる。

「今の俺はただの鍛冶屋さ。鉄を叩いて生きてる、ただの年寄りです」

「それに、そんなにかしこまらなくていい。『オリン』で構わない」


オリンは短くため息をつき、わずかに肩をすくめる。

「今の俺はただの鍛冶屋さ。鉄を叩いて生きてる、ただの年寄りです」

「それに、そんなにかしこまらなくていい。『オリン』で構わない」


マリエルは、ほっとしたように微笑んだ。

「……わかりました、オリンさん」


しばしの沈黙が二人の間を流れ、暖炉の薪がぱちぱちと小さく弾ける音だけが部屋に響いた。


やがて、マリエルは手をテーブルの上に重ね、表情を引き締める。

「一つ、お聞きしたいことがあります。最近、魔物の動きに異常があるという報告がいくつも届いていて……。町の近くに、今まででは考えられないほどの強力な個体が現れているそうなんです」


オリンは小さく頷いた。

「……確かに、何かがおかしい気はする。ただ、まだ断定はできない。

カルヴァを襲ったあの人喰い魔物——あれはレベル20だった。しかも、能力も異様だった。あんなの、この辺りじゃまず見かけない。俺は長いことこの町に住んでるが、あのレベルの個体が出たのは初めてだ。この地域は、本来もっと穏やかなはずなんだ」


「じゃあ……今後、同じような魔物がまた現れる可能性があるということですね?」


「そうだな。もし一体でも入り込んだのなら、他にも続くかもしれない。もう町の警備隊には報告済みだ。冒険者ギルドとも連携を取って、調査を始めるそうだよ」


マリエルは頷きつつも、不安げに視線を落とす。

「そうですか……。それなら、こちらでも備えておかないといけませんね。孤児院は町から少し離れた場所にありますし、もし魔物が近づいてきたら……考えるだけでも怖いです」


その言葉に、オリンの目が鋭さを帯びる。

「孤児院には、子どもたちを守る手段はあるのか?」


マリエルは安心させるように微笑んだ。

「無防備というわけではありません。うちには、地域貢献の一環として手伝ってくれている冒険者の方が何人かいて……中にはレベル20以上の元冒険者もいます。今でも現役に近い方もいらっしゃるので、万が一の時には対応できるはずです」


オリンは、その答えに少し安堵したように頷いた。

「……それなら、いざという時も何とかなるだろう」


「ええ、そう願いたいです。でも、本当は何も起きないのが一番ですから」

マリエルは小さく息を吐いた。

「何があっても、子どもたちだけは……絶対に守らなければいけませんから」



----------------------------------------



一方その頃、別の部屋では——

カルヴァはうつむいたまま、指先をもじもじと動かしていた。

向かいに立つ女性の視線を、どこか気まずそうに避けている。


その女性——エリナは腕を組みながら、優しさと厳しさを併せ持つ眼差しでカルヴァを見つめていた。


「カルヴァ」

落ち着いた、しかし揺るぎない声が響く。


カルヴァはゆっくりと顔を上げた。

「……は、はい?」


「自分が何をしたのか、ちゃんと分かってる?」


カルヴァは喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。


「誰にも言わずに孤児院を抜け出すなんて、それがどれほど危険なことか、分かってるの?」


「でも……わたし……」


「カルヴァ」

エリナの声が、少しだけ柔らかくなる。

「きっと理由があったんだと思ってる。でもね、外の世界はそんなに甘くない。今回は運が良かっただけ。次も同じとは限らないのよ」


カルヴァは唇をぎゅっと噛み、何も言い返せなかった。


エリナは深く息を吐き、少しだけ表情を和らげた。

「怒ってるわけじゃないの。ただ、あなたには無事でいてほしいだけ。もう二度と、こんなことをしないって……約束してくれる?」


「……はい」


その返事を聞いて、エリナは優しく微笑みながら、そっとカルヴァの頭を撫でた。

「よし。じゃあ、居間に戻ろう。マリエル母さんも、あなたと話したがってるから」


カルヴァは黙って頷き、エリナの後について部屋を出た。


リビングでは、オリンとマリエルがまだ座っており、それぞれの前には温かいお茶が置かれていた。


カルヴァの姿に気づいたマリエルは、優しく微笑みながら立ち上がった。

「もう遅いですし、そろそろ帰りましょうか」


カルヴァは何も言わずに頷いた。自分でも、帰る時間だと分かっていたからだ。


オリンも椅子を立ち、ティーカップをテーブルに置く。

「それじゃあ、俺が送っていこうか」


マリエルは慌てて首を振った。

「そ、そんな……オリンさんにご迷惑をおかけするわけには……」


「迷惑なんて思ってないよ」

オリンの声は軽やかだが、どこか芯のある響きがあった。

「さっきのこともあるし、今夜は何が起きてもおかしくない。誰かが付き添ってた方が安心だろ? それに、孤児院の場所も前から気になってたしな」


マリエルは一瞬迷ったものの、やがて静かに頭を下げた。

「……それでは、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」


オリンは玄関にかけてあった長いコートを手に取り、軽く肩に羽織る。

「じゃあ、みんな準備ができたら出発しようか」



-----------------------------------------



エルドリアの街にある冒険者ギルドでは、張りつめた空気がざわめきと共に広がっていた。

ブロンズ、アイアン、スチールといった各ランクの冒険者たちが、次々と街の衛兵からの報告を受けて集まってくる。


いつもなら笑い声や冗談が飛び交うギルドの広間も、今は不穏な沈黙に包まれていた。


その中心——簡素な木製の演壇に立つのは、がっしりとした体躯に立派な髭を蓄えた男。

彼はエルドリア冒険者ギルドのギルドマスターであり、かつては戦場で数々の修羅場をくぐり抜けた歴戦の戦士でもあった。

今は前線を退き、ギルドの運営を任される立場にある。


「……よし、静かに聞け!」


その一声が広間に響き渡った瞬間、冒険者たちのざわめきは一気に消えた。


「街の各地で、正体不明の魔物が目撃された。詳細は不明だが、はっきりしているのは……これは、ただ事じゃないということだ」


低く重いその言葉に、冒険者たちの間にざわめきが走る。

その中で、レザーアーマーを身に着けた痩せ型の男が手を挙げた。


「衛兵が対応するんじゃないのか? 本来、こういうのはあいつらの仕事だろ」


それに同意するように、周囲の冒険者たちも頷き始め、同じような声があちこちから上がる。


ギルドマスターは鼻を鳴らし、鋭い目で全体を見渡した。

予想通りの反応だった。


「衛兵たちには、すでに中心部と重要拠点の防衛を最優先とする命令が出ている」


その言葉に、場の空気が一瞬凍りついたかと思えば、すぐに怒号が飛び交い始めた。


「結局、貴族や金持ちを守るためだけってことか!」

「汚れ仕事はいつもこっちに回ってくるんだな!」

「前にも同じようなことがあっただろ!」

「俺たちの命は軽いってことかよ……」

「ちっ、使い捨ての駒扱いかよ……」


ギルドマスターは手を上げて制し、再び広間に静けさを戻す。


「もういい!……だが、これは初めてのことじゃない」

彼は厳しい眼差しで再び皆を見渡した。


「奴らに期待するな。——俺たちが動かなければ、誰が民を守る?」


誰もが言い返せず、静寂が場を支配した。

理不尽さを感じつつも、ギルドマスターの言葉は痛いほど正しかった。


しばしの沈黙の後、彼は口を開く。


「全員、準備に入れ。周辺の村も含め、各地に分かれて対応にあたれ。……これ以上の被害は、絶対に出させるな」


冒険者たちは互いに顔を見合わせながらも、やがて無言で頷いていく。

どれほど不公平でも、罪なき人々を守る。それが彼らの覚悟だった。


「……よし、全員出発準備に入れ!」


ギルドマスターの号令と共に、冒険者たちの雄叫びがギルド中に響き渡る。



--------------------------------------------



夜の霧が静かに石畳を覆う中、規則正しい足音が響いていた。

その先に、目的地の姿が現れる。


古びてはいるが頑丈な造りの孤児院。

月明かりに照らされ、玄関先に灯るランタンの光が、鉄の門と小さな中庭を優しく照らしている。


オリンは一度足を止めて深く息を吐き、これまで歩いてきた道を振り返ると、隣を歩くカルヴァに目を向け、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「——つまり、君が抜け出したときは、このルートを使ったわけか」

皮肉を込めて呟く。


「なかなかの距離だったな。……根性があるのか、それとも、相当いたずら好きなのか……どっちなんだ?」


カルヴァはむっとした表情で唇を尖らせ、そっぽを向いた。

答える気はないようだ。


そんなやり取りに、隣のエリナがくすくすと笑う。


孤児院の前に着くと、マリエルが立ち止まり、三人に視線を向けた。

その瞳には変わらぬ優しさが宿っていたが、奥には毅然とした厳しさも隠されていなかった。


「——エリナ、カルヴァを部屋まで連れて行ってちょうだい」


エリナは素直に頷いたが、カルヴァはその場で立ち止まり、名残惜しげにオーリンを見上げた。


「……でも、もうちょっとだけ……オリンおじさんといたい……」


風に消え入りそうな、か細い声だった。


しかしマリエルの態度は揺るがなかった。

その声色は穏やかでありながらも、はっきりとした意思を感じさせる。


「駄目よ。もう遅いの。……早くお部屋に戻りなさい」


カルヴァは俯き、小さく頷くしかなかった。

それが当然の結果だと、彼女自身がわかっていたからだ。


そして一歩を踏み出そうとしたそのとき——


「……それから、明日になったら、勝手に抜け出した件についての罰を受けてもらうわ」


カルヴァはただ黙って頷いた。

それが当然の報いだと理解していたから。


エリナは軽くお辞儀をすると、カルヴァの手を引いて館の中へと入っていった。



--------------------------------------------



質素ながらも清潔な居間で、オリンは木製の椅子に腰を下ろしていた。

マリエルはそばの小さなテーブルで、ティーセットの準備をしている。


「紅茶、どうかしら?」と、彼女が尋ねる。


オリンは小さく笑って首を振る。

「いや、さっき自宅で飲んだばかりだ」


マリエルはそれを聞いて軽く頷き、

「じゃあ、焼き菓子でもどう?」


今度はオリンも断らなかった。

「それくらいなら、いただこうか」


並べられた焼き菓子のひとつを手に取り、口に運ぶ。

ふわりと柔らかく、優しい甘さが広がった。


言葉少なに、穏やかな時間が流れていく。


——そのときだった。


遠くから、馬の蹄音が夜の静寂を引き裂くように迫ってきた。

その数と音の重さからして、ただの通行ではないことはすぐに察せられた。


「……兵の部隊が、こちらに向かっているな」


半分食べかけの焼き菓子を皿に戻しながら、オリンが呟く。


しかしマリエルは驚く素振りも見せず、静かに頷いた。


「——来るのは、わかっていたわ」




孤児院の門前には数人の冒険者が立ち、ランタンの揺れる光の中、鋭い目つきで闇を見張っていた。その光が彼らの顔に陰影を落とす中、一隊の騎馬兵が音もなく馬を止めた。


隊を率いる男は、軽装の鎧に長いコートを羽織っており、慣れた動作で馬から降りると、落ち着いた態度で冒険者たちに声をかけた。


「入館の許可をいただきたい。孤児院の管理者に急を要する要件がある。」


背に斧を背負った屈強な男が、目を細めて低く応じた。


「王国の人間だってのはわかってる。だが、命令は絶対だ。管理者の許可がなけりゃ、誰であろうと通すわけにはいかねぇ。」


それでも男は動じることなく、穏やかな口調で続けた。


「ならば、責任者を呼んでいただこう。直接話をしたい。」


その言葉が終わる前に、孤児院の建物から足音が響き、マリエルとオリンが静かに門へと現れた。二人の佇まいからは、自然と威厳が漂っていた。


「呼ぶ必要はないわ。」

マリエルが静かに言った。

「もうここにいる。」


冒険者たちは一歩退いて敬礼し、彼女のために道を開けた。隊のリーダーも頭を下げ、礼を尽くした。


「入りなさい。」

マリエルは軽く手を振り、彼ひとりだけを中へと案内するよう合図した。


男は一礼し、部下たちに背を向けて命じた。


「ここで待機しろ。私が戻るまで、孤児院の防衛を補佐してくれ。」


兵士たちは無言で頷き、その場に留まった。


──


孤児院のラウンジに通された男は、じっとマリエルを見つめていた。鋭い眼差しの奥には、どこか懐かしさのような色が宿っている。


やがて、落ち着いた声で口を開いた。


「……久しぶりだな。」


マリエルは微笑みを浮かべて答えた。

「ええ。来てくれて嬉しいわ。」


その様子を少し離れた場所から見ていたオリンが、目を細めて男に問いかけた。


「誰だ?」


マリエルは静かに振り返り、丁寧な声で紹介した。


「この方は、ヴェルキナ王国が誇る屈指の戦士。王国軍の中でも最強と名高い存在よ。名前は……エルヴィン・ダルモア。」


男――エルヴィンは三十代前半に見えた。高身長でがっしりとした体躯からは、圧を感じさせる静かな威圧感が滲んでいる。風に揺れる漆黒の髪と鋭い灰青色の瞳が、彼の歴戦を物語っていた。身に纏う鎧にはヴェルキナ王国の紋章が刻まれ、肩に羽織った紺のロングコートがその存在感を一層引き立てていた。


紹介の言葉を受けて、エルヴィンは深々と一礼する。


「王国特別部隊・隊長、エルヴィン・ダルモア。ヴェルキナ王国の槍にして盾の一つです。」


オリンは軽く頷き、自身を名乗った。


「オリン・オヴァリン。どこにも属さねぇ、自由な鍛冶師だ。気ままに武器を打って、それを必要とする奴に渡してる。」


その名を耳にした瞬間、エルヴィンの表情がわずかに変わった。


「……オリン・オヴァリン?」


その名は彼にとって特別な意味を持っていた。かつて書物の中で幾度となく目にした名前――“人類最強の一人”と称された伝説の人物。


思考が追いつくより早く、エルヴィンはひざをつき、頭を深く垂れた。


「お会いできて光栄です、オリン殿。まさか、生ける伝説とこうして言葉を交わせる日が来るとは……」


オリンは肩をすくめ、苦笑しながら答えた。


「気にするなよ。今の俺はただの鍛冶屋だ。もうとっくに現役を退いた年寄りさ。」


エルヴィンはしばらく黙った後、静かに立ち上がった。だが、その眼差しに宿る敬意は一切揺らがなかった。


やがて彼は真剣な表情で、マリエルとオリンを見渡した。


「……大規模な魔物の移動が確認されました。」

その瞳には、迷いのない鋭い光が宿っていた。


「エルドリア周辺の各地から、魔物たちが組織的な動きを見せています。この孤児院は街から離れているため、最優先で安全の確認に来ました。」


オリンは静かに頷いた。彼の中でも、すでに同じ予感が渦巻いていたのだろう。


「……やはり、嫌な予感は当たったか。どうにも自然とは思えん。」


マリエルも頷く。


「オリンさんがカルヴァを保護した直後に、街の巡回隊へ報告してくれたの。あの対応がなければ、事態はもっと遅れていたわ。」


エルヴィンは少し驚いた表情でオーリンを見た。


「報告を行ったのは……オリンさんでしたか?」


オリンは控えめに頷いた。


「違和感を感じたら伝える。それが市民として当然の責任だろ、隊長。」


エルヴィンは唇を引き締め、静かに頭を下げた。


「その判断が、エルドリアの混乱を防いだのかもしれません。本当に、感謝します。」


しかしオリンは手を軽く振り、それを否定した。


「礼なんていらねぇよ。ただやるべきことをやったまでだ。」


一瞬の静寂の後、エルヴィンの表情が変わった。


マリエルの口から出た名前が、彼の中に強く響いていた。


「……先ほど、『カルヴァ』と仰いましたね。」

その声には、慎重さと一抹の躊躇が含まれていた。


「彼女が……今回の件に、関わっているのですか?」


マリエルは慎重に言葉を選びながら、カルヴァに起きた出来事を語り始めた。詳細は語られなかったが、部屋を包む空気の重さが、その深刻さを物語っていた。


話を聞き終えたエルヴィンは、長く息を吐き、低く呟いた。


「……カルヴァは、今でも妹を想い続けている。その想いが、魔物の影響を受ける隙を生んだ……そういうことか。恐ろしい話だ。」


彼は顔を伏せ、苦悩の色を浮かべた。


「……俺のせいだ。」


かすかに漏らされたその言葉は、彼自身の記憶を掘り起こしていた。


「……一年前、俺たちがカルヴァの村に到着した時には、すでに遅かった。あと少しでも早ければ……あの子の妹は、まだ生きていたかもしれない……」


オリンは静かに彼を見つめていた。そういった後悔を背負う者を、彼は何人も見てきたのだ。


「……エルヴィン隊長。」

オリンの声が、静かに響いた。


「過去を悔やんでも、何も変わらねぇ。大切なのは、今この瞬間――カルヴァのために、俺たちが何をしてやれるかだ。」


エルヴィンは沈黙のまま目を閉じ、やがて小さく頷いて顔を上げた。


「……わかっている。だが……それでも、何かが足りない気がしてならない。」


短い沈黙の後、オリンが低く問いかけた。


「……聞いてもいいか? カルヴァの妹に、何があった?」


エルヴィンは静かに息を吸い、吐いた。


「……村が襲われた際、あの子は川に流された。何日も捜索したが、結局見つからず……死んだと判断するしかなかった。」


部屋の空気がさらに重く沈んだ。


だがオリンが気になったのは――


「それで……カルヴァには、どう伝えた?」


エルヴィンは目を閉じ、小さく頷いて答えた。


「――『行方不明』とだけ。死んだとは……言えなかった。絶望させたくなかった。」


オリンは息を吐き、静かに呟いた。


「……カルヴァは、真実を知らねぇんだな。」


エルヴィンはオリンを真っ直ぐに見据え、静かに、しかし力強く言った。


「お願いします……オリン殿。このことは、どうか彼女には黙っていてください。」


しばらく彼を見つめた後、オリンはゆっくりと頷いた。


「……ああ、わかった。その秘密、守ろう。」


そして──


ドンドンッ!


扉を叩く激しい音が、部屋に響き渡った。


「失礼します、入ります!」


木製の扉がギィ……と鈍い音を立てて開くと、軽装の鎧に身を包んだ長身の男が飛び込んできた。額には汗が滲み、息はやや荒い。腰のショートソードがかすかに揺れている。急いで駆けつけてきたのは、見ればすぐにわかった。


男は部屋をぐるりと見渡し、真剣な面持ちで言った。


「突然のご無礼、どうかお許しを。エルヴィン隊長の配下より、緊急の伝令を託されました」


その言葉に、エルヴィンの表情が引き締まる。


「緊急……? 一体、何があった?」


男は一度大きく息を吸い、落ち着いた調子で答える。


「村の近くで、魔物たちの異常な動きが確認されました。数も規模も、尋常ではありません。エルヴィン隊長の兵が異変を察知し、至急報告するよう命じられました」


「魔物の大規模な移動……?」

エルヴィンは眉をひそめ、低くつぶやいた。


「状況が本当に深刻なら、すぐに向かわねばならん」


そう言って、彼はすぐに出発の準備に取りかかろうとした──が、そのとき、オリンが口を開く。


「ならば、俺も行く」


エルヴィンは足を止め、振り返ってオーリンを見やる。


「ご同行を希望されるのですか、オリン殿?」

その口調には、わずかな躊躇があった。


「ご安心ください。我々だけでも充分に対応できます。孤児院には、ここに残っていただくのが最善かと」


だが、オリンの意志は揺らがなかった。

その姿はまっすぐで、迷いがない。


「……ただの魔物の徘徊とは思えん。状況次第では、もっと厄介なことになる。後になって悔やむより、今、備えるべきだろう」


エルヴィンは言葉に詰まる。

オリンは、ただの戦士ではない。

かつて数々の戦場を渡り歩き、世界屈指の強者として名を馳せた男だ。

それでも──孤児院の守りを捨てるという選択には、少なからず葛藤がある。


言い淀んだそのとき──静かな声が割って入った。


「ご心配には及びません。孤児院の防衛については、問題ありません」


マリエルだった。


その声音には、確かな自信と落ち着きが宿っていた。


「ここには現在、約三十名の冒険者が滞在しています。彼らは日々、子どもたちの世話と護衛を兼ねて活動しています。大半がレベル20以上、中にはレベル30を超える者もいます」


エルヴィンの目がわずかに見開かれる。


「レベル20以上……だと?」


マリエルは頷く。


「はい。多くはアイアンランク、あるいはスチールランクの冒険者です。経験も豊富で、高レベルの魔物とも渡り合える実力者たちです。この施設を守る程度であれば、彼らに任せて何の問題もありません」


しばし沈黙ののち、エルヴィンは静かに息を吐いた。


そして、オリンへと向き直る。


「……わかりました。止めはしません。お力添えいただければ、これほど心強いことはありません、オリン殿」


オリンは深く、力強く頷く。


「すぐに支度をしよう」


決意を固めたエルヴィンは、マリエルに軽く一礼を送ってから言った。


「では、私は先に向かいます。兵たちと合流してきます」


「どうか……ご無事を」

マリエルは静かに頭を下げた。


エルヴィンはそれ以上言葉を残さず、孤児院を後にした。


──足音が遠ざかっていく。


残されたオリンは、マリエルへと視線を向ける。


「俺も……行く」


そう言って扉へと歩を進めたが、ふと立ち止まり、振り返った。


「……すまない。守るべき場所を離れることを、許してくれ」


だがマリエルは、優しく微笑み、首を横に振る。


「謝ることなどありません。ここにいる冒険者たちは皆、誇り高く、頼れる人たちばかりです。──ちゃんと、やってみせますから」


しばし彼女を見つめていたオリンだったが、やがて安心したように小さく息を吐き、静かに頷いてその場を後にした。


──静寂が、孤児院に戻る。


だがマリエルの中に、怯えはなかった。


静かに一度、深呼吸をして──

そして、伝令を持ってきた冒険者へと向き直る。


「この孤児院に滞在している全冒険者へ伝えてください。持ち場につき、厳戒態勢を取るように。魔物の気配を察知した場合は、即時対応を」


「了解しました!」


冒険者は一礼すると、そのまま駆け出していった。


マリエルは再び窓辺へと歩み寄る。

カーテンの隙間から見えた空は、厚い暗雲に覆われ、星ひとつ見えなかった。


「……どうか、皆が無事でありますように」

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