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第3章 前編:鍛冶師と交差する運命

「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」


誰かの声が、風に溶ける囁きのように、そっと虚無の中に広がっていく。

懐かしさと遠さを同時に感じさせるその声は、夢と現実の狭間で揺れる旋律のように、彼女の胸の奥を優しく掻き乱した。


小さな体が、引き寄せられるように自然と前へ進む。

声に導かれるままに、一歩……また一歩。


霞んだ霧の向こうに、黄金の髪を揺らす小さな後ろ姿が、静かに歩いていた。


「……行かないでっ!」


叫ぼうとしたその瞬間、声が喉に詰まって出なかった。

どれだけ足を速めても、距離は一向に縮まらない。


「ここにいるよ……」


再び耳元で囁かれるその声は、今度は近くに感じられた。

だが、それもきっと幻だったのだろう。世界が滲み、歪み、底の見えない深淵へと沈んでいく――そんな感覚に包まれた。


それでも、彼女は手を伸ばす。

指先が、もう少しでその背中に届きそうだった――


そのとき、その子がふいに振り返った。


真紅の瞳が、じっと彼女を見つめていた。

感情の読み取れない、空っぽの眼差し。唇が何かを語ろうと動いたが、音は一切聞こえない。


そして――世界は、まるで繊細なガラス細工のように砕け散った。


カルヴァは、息を荒くしながら目を覚ました。


胸が波打ち、冷たい汗が額を伝う。

重く鈍い痛みが頭を締めつけ、しばらく呼吸も整わなかった。


何度か瞬きを繰り返しながら、ぼやけた視界に焦点を合わせる。

粗削りな木の天井が目に映る――だが、それは彼女の記憶にある孤児院の天井とはまったく異なるものだった。


下に敷かれていた布団は信じられないほど柔らかく、今までの擦り切れた寝具とは比べものにならない心地よさだった。

かけられた毛布も質素ではあるが温かく、彼女はその端をそっと握りしめた。


「……ここは……どこ……?」

かすれる声が自然と唇からこぼれる。


体を起こそうとした瞬間、激しい眩暈が襲ってきた。

こめかみを突き刺すような痛みに、思わず枕へと倒れ込む。


「……っ、痛っ……」


額に手を当て、ゆっくりと呼吸を整えながら――少しずつ、記憶が浮かび上がってくる。


――あの化け物。


爛れた皮膚に覆われた、異形の肉体。

腐敗した臭いをまとい、獣のように襲いかかってきた存在。


動けず、恐怖に縛られ、今にも喰われようとしていた、そのとき――


誰かが、彼女を助けに現れた。


白髪の老人――


「……あのおじいさん……」


朧げな意識の中で、彼女を救ってくれた人。

だが、それ以降の記憶は深い霧の中に沈んでしまっていた。


そのとき、不意に空気を震わせる鋭い音が響いた。


カン……!


遠くから、金属を打ちつけるような音。

規則正しく響くその音は、まるで静かな心臓の鼓動のようだった。


彼女は自然と耳を澄ませる。

そのリズムは、途切れることなく続いていた。


まだ重たい体に力を込め、そっと布団から足を下ろす。

ふらつきながらも、壁に手を添え、慎重に立ち上がった。


歩を進めていくと、ドアの向こうに細長い木造の廊下が広がっていた。


階段を下り、音のする方へ向かう。

廊下の先、少しだけ開いた扉の隙間から、橙色の灯りが漏れていた。


一瞬躊躇したが、そっと足音を立てないように近づいていく。


カン……!


打音が鳴り響き、そしてまた止む。

またひとつ、火花が飛び散る音がした。


好奇心に駆られ、彼女は扉の隙間からそっと中を覗いた。


そこには、大きな背中があった。


堂々とした体格の男が、巨大なハンマーを振り下ろしていた。

その一打には迷いがなく、鍛え上げられた動きには力強さと正確さが宿っていた。

質素な服の上からでも分かるほど発達した筋肉。

鍛冶場の炎が男の顔を照らし、揺れる影を壁に映していた。


カルヴァは息を呑む。

――あの人……あのときの……


彼は、一体何を作っているのだろう――


そう思った瞬間、低く穏やかな声が響いた。


「目ぇ覚めたか、小娘。」

彼は背を向けたまま、まるで彼女の気配をすでに感じていたかのようにそう言った。


「そこに隠れてないで、入ってこい。」


戸惑いながらも、彼女は静かに扉を開け、部屋の中へと足を踏み入れる。

「……ごめんなさい、勝手に……」


小さく謝るカルヴァに、男は喉の奥でくくっと笑いを漏らす。

そして、木製の椅子を引き、テーブルの横に置いた。


「謝ることじゃねぇさ。むしろ、いつ起きるかって待ってたところだ。」


「座れ。まだ本調子じゃねぇだろ。」


カルヴァは小さく頷き、椅子に腰を下ろす。


男は再びハンマーを手に取り、鍛造を再開した。

だが、カルヴァの視線は、彼の手元から離れなかった。


火花を散らす鋼――

彼が何を作っているのかは分からない。けれど、


ただひとつだけ、確信できることがあった。


この出会いが、彼女の運命を――確かに動かし始めていたということを――。

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