第2章 後編:差す救いの手
カルヴァは一歩、また一歩と歩を進めていた。
あの声に導かれるように——いや、引き寄せられるように。
それはあまりにも懐かしく、あまりにも温かかった。
まるで、長い間ずっと恋い焦がれていた存在が、すぐ手の届くところにいるかのように思えた。
「……お姉ちゃん……」
その声が、再び耳に届く。
今度はさっきよりもずっとはっきりと——まるで目の前で囁かれたかのように。
気がつけば、孤児院は遥か遠く。
いつの間にか、深い森の奥へと足を踏み入れていた。
——本来なら、森に入ることすら怖かったはずなのに。
けれど、今のカルヴァには、その恐怖は一切なかった。
ただ、あの声を追い求めて。
夜の訪れにも気づかぬまま。
月の光が木々の隙間から差し込み、不規則に揺れる影を作り出していたが、カルヴァの目には何も映っていなかった。
彼女が求めるものは、ただひとつ——
あの声の主を見つけ出すこと、それだけ。
「……妹……!」
必死の呼びかけ。
そして——
返事が、あった。
これまでで最も明瞭な声が、すぐ近くから響いた。
カルヴァの心臓が跳ね上がる。
鼓動が早鐘のように鳴り響き、冷たい土を踏みしめながら彼女は駆け出した。
——そして。
——ついに、その姿を捉えた。
月光の下に、ぽつんと佇む小さな背中。
長く、輝くような金髪が背中に流れていた。
見間違えるはずがない。
あれは——彼女のよく知る、あの髪。
「……妹……」
カルヴァの声が震える。
信じられない思いと込み上げる感情が胸を締めつける。
月光に照らされた柔らかな金髪が、かすかに揺れる。
そして——その姿が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、カルヴァの視界に飛び込んできたのは——
鮮やかな、紅い瞳。
——間違いない。
涙があふれる。
ようやく——ようやく、見つけた。
カルヴァは手を伸ばす。
あと少し。
もう少しで——
——その時だった。
現実が、崩れた。
小さな背中が、不自然にねじれた。
バキバキバキッ——
骨が砕ける音が響き、肉体が異様な形へと変貌していく。
黄金の髪は見る間に色を失い、どす黒く汚れた毛髪へと変わっていく。
小さな体は異様に膨れ上がり、もはや人の形をしていなかった。
そこにいたのは——
巨大な異形の怪物だった。
その肌は岩のように黒ずみ、全身から不気味な異臭を放っている。
口元には鋭く尖った牙が並び、深く裂けた口がゆっくりと開いていく。
だが——
何よりも恐ろしかったのは、その目だった。
黄金に輝く、獰猛な捕食者の眼光。
カルヴァの呼吸が止まる。
逃げなきゃ——
叫ばなきゃ——
——動けない。
全身が石のように硬直し、膝が震えて崩れ落ちた。
「……っ」
「……っ」
涙がこぼれる。
自分は愚かだった。
弱すぎた。
だから、こんなことになった。
怪物が、一歩を踏み出す。
ズシン……
その足音が夜の闇に響き、生臭い気配が肌にまとわりつく。
カルヴァは悟った。
この怪物は——人を喰う。
——そして、次の獲物は自分なのだと。
目を閉じる。
「……私は、バカだった……弱すぎた……これで終わり、なんだ……」
せめて、もう一度だけやり直せるなら。
——そんな儚い願いを抱いた、その瞬間。
轟音が、森を切り裂いた。
ドォンッ!!
衝撃に体が吹き飛ばされる。
何が起きたのか、わからない。
呆然としながら目を開けると——
怪物の両腕が、切断されていた。
黒い血が噴き出し、地面を染める。
その傍らに、巨大な戦斧が突き刺さっていた。
そして、その前に立つ——ひとりの男。
荒れた外套をまとい、広い背中をこちらに向けている。
まるで山のように、揺るぎない佇まい。
男はゆっくりと振り返り、冷静な目でカルヴァを見る。
「……大丈夫か、ガキ?」
低く、落ち着いた声。
だが、その奥には、鋭く強い力が宿っていた。
カルヴァは震える唇で、彼の姿を見上げる。
「……あ、あな……た……は……?」
男は、ふっと笑みを浮かべた。
「ハ……生きてるだけで十分だ」
そう言うと、男は再び怪物へと目を向ける。
「話は後だ。まずは、こいつを片付けねぇとな」
無造作に斧を掴む男の手には、一切の迷いがなかった。
鋭い眼差しが、怪物に向けられる。
「……《マンイーター》、レベル20か。
大したことはねぇが、面倒くせぇな」
その言葉に、カルヴァは息を呑む。
レベルが……見えている?
それは、特殊な識別スキルを持つ者だけが可能なこと。
並外れて高い《知覚》のステータスを有する者にしか扱えない力——
男は独り言のように呟く。
「……こんなヤツがこの辺りにいるなんて、妙だな」
ゆっくりと、男が前に踏み出す。
怪物が唸り声を上げ、滴る黒血が地を汚す。
だが——まだ、終わってはいない。
男が、斧を振り上げた。
——戦いが、始まる。
巨大な老戦士が一歩を踏み出した。重厚なブーツが地面を押し固め、肩には月光を鈍く反射する巨大な戦斧が、無造作に担がれている。幾多の戦場を生き抜いてきたその筋骨隆々とした体は威圧感に満ちていたが、不思議なほど動きに淀みがなかった。
鋭く研ぎ澄まされた視線が、目の前の異形の怪物へと向けられる。つい先ほど、両腕を切断されたばかりの、ねじれた肉体を持つ異様な存在だ。
だが数秒も経たぬうちに、黒ずんだ肉が脈打ち、蠢き、新たな腕が生え始める。まるで、初めから傷などなかったかのように。――異常な再生能力だった。
老人は口元をわずかに吊り上げた。
「ほう……なかなかやるじゃねぇか……このレベルの魔物にしては、上出来だ」
怪物が低く唸る。その声は咆哮とも嘶きともつかぬ、不気味な音。黄色く輝く双眸が、純粋な憎悪に燃えていた。
大きな体を縮め、今にも飛びかかろうとする――
だが、その動きを先んじて、老人の方が動いた。
大地が揺れる。蹴り出された足の力により、地面には深い足跡が刻まれる。
地に座り込んでいたカルヴァには、その光景を理解する暇すらなかった。――あのおっさんが、なぜあんなにも速く?
怪物もすぐに応じる。背中から何本もの太く粘つく触手が伸びる。その先端は刃のように鋭く、四方から老人を狙って襲いかかる。
しかし、彼はまったく動じなかった。
「……思った通りだ」
低く呟いたその瞬間、巨体が信じられぬほど滑らかに回転する。襲いくる触手の隙間を縫うように、流れるような動きで全てを躱していく。
触手は地面に突き刺さり、深々とした穴を穿つ。だが、彼の身はその一歩手前で、まるで風のように舞っていた。
怪物が苛立ちの咆哮を上げる。触手が次々に空を裂き、殺意の波動が辺りを満たす。
それでも――
届かない。
老人は舞うように翻り、跳び、滑る。動きには一切の無駄がなく、完璧な回避だった。
そして、怪物が戦術を変える。
両手を大地に叩きつけると、地面が揺れ、土が隆起して鋭い岩の波となって押し寄せてくる。
「ほう……地魔法まで使えるとはな」
感心したように呟き、彼は再び地面を蹴る。
宙へと舞い上がり――
――空中で、何もない空を蹴る。
その瞬間、まるで空そのものを足場としたかのように、彼の身体が一気に加速する。
カルヴァが思わず息を呑む。
「『空中踏破』……っ?」
危機を察知した怪物が触手を伸ばすも――
遅すぎた。
老人は触手の合間をするりと抜け、まるで自然の猛威の如く迫っていた。
戦斧を振り上げる。
その刃が、一瞬だけ月明かりを反射する。
――スラッシュ。
一一撃だ!!
その一撃は、怪物の頭蓋から腹部までを、見事に両断した。
黒い血が吹き出し、切り裂かれた肉塊が音を立てて地に崩れ落ちる。わずかに痙攣し、そして――完全に動かなくなった。
カルヴァは茫然とその光景を見つめていた。
ほんの少し前まで彼女を恐怖で縛りつけていた怪物は――今や惨めな死体と化している。
老人は鼻から静かに息を吐き、戦斧をゆっくりと下ろした。その呼吸には、乱れひとつなかった。
そして、ゆっくりとカルヴァへと歩み寄る。
その一歩一歩に込められた重み。まるで、神話の時代から抜け出してきたかのような威容だった。
彼はカルヴァの数歩手前で足を止め、静かに見下ろす。
「無事か?」
低くも優しげな声。鋭さはなく、どこか安心感を与える温もりがあった。
カルヴァは口を開きかけるが、言葉にならない。胸が締めつけられ、視界が滲んでいく。
ようやく、小さな声で搾り出す。
「……あなたは……誰……?」
老人の口元がわずかに緩む。それは、微笑とは言えないまでも、それに近いものだった。
「しゃべれるなら、大丈夫だな」
そう言って、怪物の死骸へと視線を向ける。表情がわずかに険しくなる。
「……こんな魔物、この森にいるはずがねぇ。いったい、何が起きてやがる……?」
長い沈黙のあと、彼は再びカルヴァへと顔を向ける。
「運が良かったな。だが、こんな場所に一人で置いておけねぇ。ここは、子供がいるべき場所じゃねえ」
カルヴァは静かに頷く。だが――
立ち上がろうとしたその瞬間、足元がふらつく。
「……え?」
めまいが襲い、視界がぐにゃりと歪む。
身体が傾ぎ、バランスを崩して――
「おいっ!」
倒れかけた彼女の体を、老人の腕がしっかりと受け止めた。
その抱擁には、彼女の重さなど感じさせない力強さがあった。だが、その動きには明らかな配慮と優しさが宿っていた。
「しっかりしろ! 聞こえるか!?」
緊迫した声が森に響く。彼はカルヴァを優しく揺さぶるが、その意識は戻らない。
彼の視線が怪物の死骸へと向けられる。
……何かがおかしい。
「……これは、一体……?」
細めた目で、低く呟く。
そして――彼はスキルを発動した。
「〈真視眼〉」
その瞬間、彼の蒼き瞳が淡く光を放つ。彼にしか見えぬ透明な情報ウィンドウが、虚空に浮かび上がる。
彼は素早く、正確にその内容を読み取った。
そして、口元を強く結ぶ。
「……クソッ」
そのスキルは、怪物が死んだあとに発動する隠し効果を暴いた。
――《毒霧》。
無臭で、目に見えない。だが、長時間吸えば意識を奪われる。
「冗談じゃねぇ……このレベルの魔物が、こんなスキル持ってるなんて、ありえねぇだろ……」
彼はすぐに自らのマントで口と鼻を覆い、再びカルヴァに目を落とす。
その小さな身体は、ぐったりと彼の腕に身を預けていた。
「……まずいな。想像以上に、厄介な事態かもしれねぇ」