第2章 前編:差す救いの手
澄み渡る青空に、ふわりと浮かぶ白い雲。
孤児院の庭には鳥のさえずりが響き、優しい風が木々の葉を揺らしていた。
その庭の大きなオークの木の下、カルヴァは敷物の上にちょこんと座り込んでいた。
膝の上には分厚い本。表紙にはこう書かれている——
『魔法の基礎:初心者のための指南書』
彼女の鋭い瞳は、書かれた文字をじっと追いながらも、時折、傍らに置かれた小さな皿へと視線を移す。
そこには焼きたてのクッキーが数枚のっていたが、すでに半分以上が彼女の胃の中へと消えていた。
片手に本を、もう片方の手には食べかけのクッキーを持ち、カルヴァはまるで新しい知識の世界に夢中になっている子供のようだった。
「マリエル母さんの話によると……」
風に消え入りそうなほどの小さな声で、彼女は呟いた。
「魔法のスキルはティア1からティア5までに分かれている……
今の私が学べるのはティア2まで。
それ以上の魔法を覚えるには……レベルを上げなきゃいけない、か」
ちらりとクッキーを見た後、もう一つ手に取り、考え込むようにかじる。
「ティア1の魔法は簡単。小さな火球や、初歩的な回復魔法とか……
でも、ティア2から一気に難しくなるんだよね」
カルヴァはふと遠くを見つめた。
一週間ほど前、マリエル母さんと交わした会話が脳裏をよぎる。
かつて冒険者だった彼女は、カルヴァの魔法の師でもあり、この世界における冒険者ギルドやシステムについて教えてくれる存在だった。
「マリエル母さんはレベル35……だったよね」
カルヴァは呟く。
「それって、結構高いよね。でも……マリエル母さん、昔は本物の冒険者だったのに……
それでもレベル35止まりってことは、レベルを上げるのって、本当に大変なんだ」
そう言いながら、本のページをめくる。
指先がサラリと紙の感触をなぞり、ある一節が目に留まった。
彼女は無意識に姿勢を正すと、その内容を声に出した。
「『現在、到達可能な最大レベルは65である』」
「『神授者や煉獄の契約者であっても、この壁を超えることは極めて困難である。
その一方で、ドラゴンのような強大な魔物は最大レベル70に達することができる』」
カルヴァの眉がピクリと動く。
「……ドラゴンですらレベル70が限界?
ってことは、レベル65を超えるのは、どんな存在でもほぼ不可能ってことか……」
彼女は背もたれ代わりに木の幹にもたれかかり、青空を見上げる。
そして、一つの考えがよぎった。
「レベル99……」
そっと呟く。
「それは、神や魔王の領域……
でも、彼らでさえレベル100には届かなかった……
到達できたのは、深淵の者だけ……」
——静寂が、彼女を包む。
この世界には、厳格なルールが存在する。
目に見えない“システム”が、力や成長の限界を定めている。
しかし——
それが彼女にとって絶望には感じられなかった。
むしろ、挑戦すべき課題のように思えた。
「……まあ、今の私にはレベル65のことなんて関係ないけど」
カルヴァは苦笑しながら、膝の上のクッキーの欠片を払う。
「でも……冒険者になる前に、せめてレベル20までは上げたいな。
実戦経験を積めば、レベル30まではいけるかも……?」
またページをめくり、手元のノートにペンを走らせる。
重要な部分を書き留めながら、カルヴァの瞳はどこまでも真剣だった。
——彼女は、迷わない。
どんなに幼くとも、彼女の意志は揺るがない。
なぜなら、その心に灯るものは——
“夢”ではなく、“決意”だった。
柔らかな草の上を踏みしめる足音が、彼女の思考を引き戻した。
顔を上げると、マリエルが杖を頼りにこちらへ歩いてくるのが見えた。年老いてはいるが、その姿にはなおも力強さと威厳が宿っていた。その優しげな表情がカルヴァを見下ろす。
「ずいぶんと考え込んでいたようだね」
マリエルは微笑みながら、カルヴァの隣に腰を下ろした。
「その本から、何か興味深いことを学んだのかい?」
「はい! マリエル母さん!」
カルヴァは嬉しそうに顔を輝かせながら本を抱えた。
「スキルのティアについてたくさん学びました! でも…… まだちょっとわからないことがあって。」
マリエルはクスリと笑い、少女の熱意に目を細める。
「ほう……それで? 何が気になるの?」
カルヴァは一瞬迷ったが、思い切って尋ねた。
「……どうしてレベルを上げるのはそんなに難しいんですか? マリエル母さんほど強い方でも、まだレベル35なのに……。」
その問いに、マリエルは小さく笑いながら答えた。
「いい質問だね。実のところ、レベル上げは単に魔物を倒せばいいというものではないんだよ。レベルが上がるほど、必要な経験値も労力も膨大になる。生き抜くこと、この世界を理解すること、心と体を鍛えること…… そうしたすべてが成長につながる。この世界は、ただ強さだけを評価するわけではないのさ。」
カルヴァはゆっくりと頷き、その言葉を噛み締めた。
「つまり……魔法だけじゃなく、いろんなことを学んで鍛えないといけないんですね。魔法だけじゃなくて、全部……」
「その通り。」
マリエルは優しくカルヴァの髪をくしゃりと撫でた。
「お前さんのその聡明な頭があれば、きっと大きなことを成し遂げられるさ。」
カルヴァは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は本の最後のページをめくる。そこにはマナの制御理論や初級魔法の解説がぎっしりと詰まっていた。
そんな時、頭の片隅に引っかかる疑問がよぎる。
『ティア5の先がある』
—— ティア5を超えるスキルがあるという噂を耳にしたことがあるけれど…… 本当にそんなものが存在するのだろうか?
それはただの作り話なのか、それとも——
カルヴァは顔を上げ、マリエルを見つめた。
「……マリエル母さん。」
「ん?」
「マリエル母さん、ティア5を超えるスキルって本当にあるんですか? 例えば…… ティア6とか7とか……?」
その瞬間、老婦人の表情がわずかに曇る。しかし、それも一瞬のことで、すぐに微笑みを取り戻す。
「……あるにはあるよ。」
彼女は静かに頷いた。
「だけど、それは普通の人間には到底手の届かない領域さ。
マリエルは遠くを見つめる。
「私も長年冒険者として生きてきたが、ティア5の入り口にすら立てなかった。
その先に進むことが、どれほど難しいか……想像もつかないわ。」
カルヴァは眉をひそめた。
「どうしてそんなに難しいんですか? 何か特別な条件があるんですか?」
「ええ。」
マリエルは遠くの空を見つめながら答える。
「ティア6は——神々や魔王だけが扱える領域なの。神授者や煉獄の契約者でさえ、その力を扱うのに苦戦する。
彼らは神々の恩恵や呪いを受けているのに、それでもティア6に到達できる者はごくわずか……。
それほどまでに、スキルのティアを超えるということは、並の人間には不可能に等しいのよ。」
「そんな……」
カルヴァの目が大きく見開かれた。
カルヴァは黙り込み、本を見つめた。
もっと聞きたいことは山ほどあったが、それ以上の問いかけが無意味だと直感した。
代わりに、彼女は小さく息を吐き、決意を固める。
「だったら…… 私はもっと勉強しなきゃ。」
そう呟くと、彼女は新たなページをめくった。
マリエルはそんな少女の姿に微笑むと、ゆっくりと立ち上がる。
「本当に変わった子だね、お前さんは。」
「さてと……そろそろ戻らないとね。やるべき仕事は山ほどあるし、今夜の夕飯も決めなくちゃいけない。ああ、年寄りには重労働だわ。」
マリエルは冗談めかして言った
カルヴァはぱっと顔を上げた。
「チーズ入りのミートブレッド! 私、それが大好きです!」
老婦人はクスクスと笑った。
「ふふっ……まぁ、考えておくわ。でも、あまり期待しすぎないようにね。」
くすくすと笑いながら、マリエル母さんは背を向け、ゆっくりと歩き出した。
大樹の下に取り残されたカルヴァは、膝の上の本を見つめながら再び読み進める。
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時の流れに気づくこともなく、日が傾いていた。
数時間が過ぎ、西の地平線へと沈む太陽が、空を淡い橙と桜色に染め上げていく。
カルヴァは、初級魔法の基礎理論をまとめた書物に夢中になっていた。
だが、じわじわと疲労が身体を蝕みはじめていた。
最後の一冊を閉じ、両腕を上に伸ばして大きく息を吐く。
「……今日は、ここまで終わりにしようかな」
小さく呟くと、彼女は立ち上がり、まわりに散らばった本を一つ一つ丁寧に集めはじめた。
——そのときだった。
耳元で、ひやりとした風のような声が、そっと囁いた。
「……お姉ちゃん……」
カルヴァの身体が硬直する。
それは、風が木の葉をくぐり抜けるような微かな声。けれど、はっきりと聞こえた。
しかも、その声には聞き覚えがあった。
ゆっくりと顔を巡らせて周囲を見渡す。
しかし、孤児院の庭には誰の姿もない。
「……誰……?」
ほとんど聞き取れないほどの声で、彼女は呟いた。
「……お姉ちゃん、たすけて……」
カルヴァの瞳が大きく見開かれる。
その声——忘れたくても忘れられなかった。
彼女の記憶の奥底に深く沈んでいた、あの「失われた声」。
「……妹っ!?」
思わず声が震える。
恐怖と戸惑い、そして期待が胸の奥でせめぎ合う。
カルヴァは駆け出した。
心のままに、声を追って。
「どこにいるの!? カルヴァだよ!」
必死に呼びかけるも、返ってくるのは風に溶けるような微かな声だけ。
が、その囁きは彼女を導くように、奥へ、さらに奥へと誘ってくる。
息を切らしながら孤児院の正門にたどり着いた時——
すると、今度ははっきりと、その声が響いた。
「……お姉ちゃん……こっちだよ……」
カルヴァはごくりと唾を飲み込み、目の前の大きな鉄門を見上げた。
規則では、許可なく外に出ることは固く禁じられている。
——けれど、あの声だけは、無視できなかった。
「……行かなきゃ」
誰にともなく、あるいは自分自身に向けるように、彼女は小さく呟いた。
「ごめんなさい、マリエル母様……罰はあとで、ちゃんと受けます……」
ぎぃ……と金属の軋む音を立てて、彼女は門を押し開けた。
その隙間をするりと抜け、境界の外へと足を踏み出す。
導かれるままに、あの声の方へ——
「必ず見つけるから、妹……だから、待っててね」
囁くように言い残し、
暮れゆく空の下、カルヴァの影は静かに、長く伸びていった。