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夏休み明け、初週の金曜日。僕は落ち着きがなかった。理由は一つしかない。言わずもがな、今日は上坂さんと感想会をする日だからだ。
彼女がお勧めしてきた『推し、燃ゆ』は驚くほど読みやすかった。これまで僕の中にあった「文学作品は難しい」という考えを根底から覆してしまうほどの読みやすさだった。内容も今を生きる若者に刺さりやすく、かくいう僕にもすごく刺さった。
それに、澱みなく感想を伝えるイメージトレーニングもやった。けれど、いざ本人の目の前で同じことができるかと言われたら自信がない。それにそもそも、彼女にどう声をかけようか、そもそも僕のことなんて1ヶ月経って忘れてるんじゃないか、周りから挙動不審に思われないだろうか、なんて不安が頭の中をぐるぐると飛び回る。すると、
「おはよ、大丈夫?」
「ぅわっ!」
後ろから突然声をかけられたことで、情けない声が出る。見てみれば上坂さんだった。
心配してくれてる?この学校に僕のことを気にかけてくれる人がいるとは思わなかった。僕は咄嗟に平静を装いつつ「なにが?」と答える。本当は「おはよう、大丈夫だよ」とか「大丈夫だよ、どうしたの?」とか気の利かせた言葉を返すべきだったのだろうが、今の僕にその余裕はなかった。
「いや、顔色悪かったし、挙動不審だったから⋯⋯」
「挙動不審⋯⋯?」
「そう、挙動不審」
心配された喜びと挙動不審と思われたショックが綯い交ぜになって自分でもよく分からない感情になってしまう。そんな僕のことを知ってかしらでか、上坂さんは話を切り出す。
「ねえ、今日の感想会なんだけど、旧校舎の文芸部室でいい?図書室とかだとやっぱり喋りづらいし、それに迷惑かけちゃいそうだから。その点、文芸部室はちゃんと部長に頼んで、許可もらってるから⋯⋯。どう?」
「そこがいいと思うよ、僕も図書室はやめた方がいいんじゃないかと思ってたし」
「了解、じゃあ放課後、忘れないできてね!」
と、自分の席へと帰っていく。
上坂さんの言っていた旧校舎は、僕が入学した年度からほとんど使われなくなった校舎だった。僕たちの通っている学芸館中学は今、主に使われている新校舎と、もうほとんど使われることがなくなった旧校舎の2棟で構成されている。「ほとんど使われることがなくなった」とは言っても、文芸部、美術部の絵画専攻、手芸部などはいまだに旧校舎にあったりする。だけど、人の出入りは無いに等しく、故に今日の開催場所としては都合が良かったのだ。
◇
放課後、2人しかいない文芸部には少し気まずい雰囲気が流れていた。
「読んで⋯⋯みました⋯⋯。その⋯⋯すごく、面白かったし、なんて言えばいいか分からないけど⋯⋯、今の若者にも通ずるところがあって⋯⋯すごく共感できたし⋯⋯」
ぜんぜんうまく伝えることができなかった。脳内リハーサルではうまくいっていたのに、いざ本人を目の前にすると、どうしても怖くなってしまう。けれど、上坂さんはそんなことは些細なことだと言わんばかりに、
「読んでくれたんだ⋯⋯難しそうっていってたのに」
と微笑んでくれた。
そんなとき、窓から陽の光が差し込み、彼女のことを照らす。静かな教室には窓の外の木々の葉が風で擦れる音が聞こえてくる。
一言でいってしまえば、美しすぎた。彼女のこういうところがずるいと僕は思ってしまう。上坂さんは、僕が感想を言うたびに適度に相槌を打ってくれて、話しやすかった。
——好きだ。
僕は初めて彼女、上坂麗奈に対する好意を自覚した。
そこから何時間経ったかは分からない。再び時間を意識したのは、下校時刻を告げるチャイムが鳴った時だった。
壁にかかっている時計を見ると、時刻は6時半。僕たちは名残惜しくも、時間も時間ということでお開きにして文芸部室を出た。
昇降口で靴紐を結ぶ彼女の横顔も、また彫刻のように美しかった。
◇
「この後さ、時間ある?」
下校途中、熱心にスマホをいじっていた上坂さんがふと思い出したかのように聞いてきた。友達と呼べる仲の人すらいない僕に予定があるはずもないので「ぜんぜん空いてるよ」と返す。すると上坂さんは、
「よかった!実はね、わたしのおすすめの美味しいパンケーキ屋さんがあって、この後一緒にどう?」
と提案してきた。正直、小腹が空いていたし、僕は甘いものには目がないので二つ返事でOKして向かうことにした。
上坂さんがおすすめしていたパンケーキ屋さんは、学校から徒歩15分ほどの場所に位置していた。外装こそ古めかしいと思ったものの、内装は綺麗で小洒落たカフェ見たいな雰囲気だった。入店するなり店員さんが駆け寄ってきて席に案内してくれる。ホスピタリティ満載のいいお店だ。僕はパンケーキとコーヒーを上坂さんはパンケーキと紅茶を注文する。厨房の奥を覗いてみると、パンケーキという言葉がとても似合わなそうな、がたいのいい男性がパンケーキを焼いていた。十数分ほどしてパンケーキがテーブルの上に並べられる。素朴な風味とふんわりとした食感、上に載せられたバターが溶けてマイルドな仕上がりになる。隣に添えつけてあるクリームもふわふわで美味しかった。少々値が張るが、食べにくる価値はあるといえよう。
パンケーキを食べ終わってひとしきり飲み物を飲みながら話をした頃、彼女が奢ると言い出した。僕としては申し訳ないし、何より自分の食べたものは自分で精算したかったため、上坂さんに自分で払う意思を伝えるが一向に引く気配がない。なぜそこまでしておごろうとしているのか気になったので、聞いてみることにした。
「上坂さん、なんでそんな奢ろうとしてくれるの?」
「だってあなた、今日、誕生日でしょ?」
僕は驚いた。たしかに僕の誕生日は今日だ。けれど、それに驚いたわけではない。なぜ上坂さんが僕の誕生日を知っているのかということだ。僕が教えた覚えはないし、そもそも喋る相手すらまともにいないから、誰かに教えていたら覚えているはずだ。
「なんで⋯⋯知ってるの?」
「だって今日、風船が飛んだ〜ってつぶやいてたじゃない」
そのことについては確かに心当たりがある。Twitterでは誕生日に登録している日付になると自動的に風船が飛ぶ。そんなのは自明のことだ。しかし、それこそなぜだと言いたい。そもそもなぜ僕のTwitterを知っているのか。
「実名を使ってるのが甘いよね。それからあなたの好きそうなものとか、時々つぶやいてる行事の予定が丸かぶりしているのを考えるとね。しかも、何をつぶやいてるのか見てみたら、読んだ本の感想ばかり。だから、見つけてみれば特定は簡単だったよ」
と上坂さんは探偵気取りで説明する。
「⋯⋯」
返す言葉もなかった。まさかバレているとは思ってもみなかったから、余計なことを言っていないか心配になってくる。
「まあ、見つけたのは結構最近なんだけどね。あ、そうそう。あなたのフォロワー欄の“うれい”ってアカウント私だからね」
僕は慌ててアプリを開きフォロワー欄を確認する。数少ないフォロワーの中から“うれい”を見つけるのは容易だった。見てみると、アイコンやヘッダーは初期のままで最近作られた様子だった。フォローしている相手は多少はいるものの、自分から発信することのないアカウントは、さながら僕を監視するためのアカウントと言っても差し支え無さそうだった。ここまで外堀を埋められていてはなすすべがないので、おとなしく奢られることにする。
ついでに記念日を設定することにした。
——上坂さんがパンケーキ屋に連れてきてくれたから、今日はパンケーキ記念日。