9 初めての認識
「大丈夫?」
何も言えず元夫の背中を見ながら、立ちすくむ私に彼が顔を覗き込んで、聞いてきた。
少し遠慮がちに心配の表情を浮かべて。
「あ⋯はい。すみません、課長まで巻き込む形になってしまって。」
急に足がガクッと力が抜けて、膝が地面に付きそうになった時、溝口課長が私の腰に手を回して、抱き起こしてくれた。
「大丈夫じゃなさそうだな。」
ふわっと爽やかなシトラスベースの香りがする。キツさはなく少しの甘さと心地よい清涼感。彼の後を歩いている時も感じるけど、今はとても近くに居るからとてもしっかり香る。
彼の香りとして認識されていたみたい。
「今日は車で来てるんだ。一緒に駐車場に行こう。送るよ。」
「いえっ、そんな訳にはいきません。そばに⋯先ほど傍にいて下さっただけで、とても心強かったです。それに口添えまでしていただいて⋯巻き込んでしまい申し訳ありません。大丈夫ですから。」
あんな会話、溝口課長には聞かれたくなかった⋯。どうしてそう思うのか。
「そんな事気にしなくていい。むしろいれて良かったよ。始めは君がどう思ってるかわからないから、何も言えなかったが⋯。もし俺がいなければきっと従わざるを得なかっただろうから。」
その通りだ。由美子に何か少しでも不都合があるかもと思うと、向こうの思うつぼだとわかっていても⋯。
「さぁ行こう。まだ違う所にいるかもしれないから、安心できない。だから送らせて欲しい。車の中で少し待っててもらえるかな。書類だけ渡しときたいから。」
「わかりました。すみません、何から何まで。」
「部下を守るのも上司には当たり前の事だ。」
そう言いながら、駐車場まで決して、触れられてると気になるものではなく、私を誘導するのに優しく腰の辺りに手を添えて歩き出した。
とてもエスコートに慣れている人の立ち振る舞いだった。
やっぱりドキドキしていた。そして心はあわてていた⋯。
彼女を車に残して、急ぎ足で社内へ向かいながら、自分に驚いていた。
今までの自分なら、人の家庭の事に踏み込むなんてありえなかった。
夫だとわかった時点で、ややこしくなるかもしれない事はわかりきっているから、立ち去る事も普通にできたのに、そうするつもりがなかった⋯。
それより彼女を連れて行かせてはいけない、という思いと自分以外の男と2人きりにさせる訳にはいかない、という思いが行動を起こしていた。
⋯俺は彼女を?⋯いや⋯⋯今更だ。わかってたはずだ。
面接の時から同じように座っていても彼女だけら凛として醸し出す雰囲気の中に柔らかな気品を感じて、真っ直ぐに話し、大人なはずなのに笑うと何にも染まっていないような⋯決して媚びていず一生懸命さを感じた。
もっと話しをしてみたくて紅茶に興味があるから、倉庫へ連れて行き2人でゆっくり話せるようにした。⋯デスクでは周りがいるし、何より田伏が必ず割り込んでくる。
紅茶の話しをしている彼女は本当に楽しそうだった。
結婚していた時は、自由はなく何をするにも役員の妻という仮面を付けて行動しなければならなかったらしく、こんなに思う存分自分のしたい事ができるのは、この会社に入ってからだと本当に嬉しそうに、切なそうに目を伏せがちに話した。
そんな時の顔もとても愛おしさを感じずにはいられなかったし、抱きしめたいとも思ってしまった。
ギリギリのところで、用事で営業が入ってきたから残念だったが、ホッとした。
間違いなくセクハラになってしまっただろから。それに怖がられ、嫌われていただろうし。
会社もやめていたかもしれない。