8 初めての胸のざわめき
退社時間になり、私だけ一足先に会社をでると、ちょうど溝口課長が戻ってくるところだった。
「お疲れ様です。」
「やあ、お疲れ様、帰る時間だったね。」
少し息を切らしている感じがした。急いでいるのか⋯。
そんな事を考えていたら、
「今日は大活躍だったみたいだね。紅茶を買いに来たお客様を大満足させて、種類増やしてくれたらしいね。」
「ご存知だったんですか。大活躍だなんて、余計な事してしまったんじゃないかと思ったりしました。」
後々何か問題が起きたらどうしよう、と実は不安が湧いてきていた。
「全く問題ないよ。代理店の方からこっちに連絡あって、お客様が直接紅茶に詳しい人と話せて、とてもいい時間が過ごせたし、営業が来て売り込まれるより遥かに気分がいい、って喜んでくれてたらしいよ。」
「本当ですか⁉️良かった⋯良かったです。ここの紅茶の美味しさ他にも知って頂けましたし。」
「広瀬さんは人を安心させる雰囲気と、話し方のできる人だから。」
「そんな、褒めすぎです。」
何とも言えない表情で笑みを作った気がする。
由美子の幼い頃、他のママ達からはいつもお高くとまってる、とか冷たいとか言われていたから、溝口課長にはそんな風に見えている事が驚きだった。けれど嬉しくて、胸のあたりがじんわり暖かくなった。
でも溝口課長の方がその言葉が当てはまる。
もちろんとても顔が整っているイケメンと呼ばれる人だから、緊張する事もあるけれど、何も話さなくてもその間が気にならない。
それは彼が微笑んでくれているからだろうか。
「まぁ、自分ではわからないだろうけどね。だから返答の最後にでも【ありがとうございます】って加えれば、相手にも自分にも優しいよ。ま、これは営業テクの1つでもあるんだけど。」
そう言って優しく微笑んだ。
「それにあなたはもっと自信を持っていいと思うよ。」
⋯私を真っ直ぐ見つめて⋯
何だろう⋯この気持ち。
熱く湧き上がるような、切ないような。
「ゆり⋯」
どこからか聞き覚えのある声がした。
振り返ると、ここで見るはずのない人がいた。
「修二さん⋯どうして。」
つい先日、弁護士を通じて離婚成立し、書類などの処理がやっと終わって、由美子と真由美とお疲れ様会(あの二人は縁切り祝いと言っていたけど)した時に、もう直接会うことはないから良かったね、と言われたばかりだった。
「話がある。」
修二さんの話し方は威圧的だ。いつもそうだった。
「弁護士さんを通しての方がいいと思います。」
「由美子の事だけどいいのか。」
「⋯⋯」
どうするべきか。きっと何かあるはず。この人がわざわざ動くのはそういう事だろう。
従うのはよくない気がするとわかっていても、由美子の事だと言われると、聞いてみないと、と思ってしまう。
そう思っていたけれど、そこでまだ溝口課長と一緒だったと我に返った私は、少なくとも溝口課長を巻き込む形になってはいけないと、修二さんとこの場を離れるようにしなければ、と口を開きかけた⋯
「失礼ですが、弁護士を立てていて話は着いていたはずなのに、このような行動はよくないのでは?それが無理強いや弱味に付け込んだものならば、あなたの会社にも迷惑をかける事態に発展してしまうかも知れませんよ。」
やんわり牽制している⋯
こんな他所の家庭問題に立ち入る必要はないのに⋯助けてくれてる?
「何なんだ。君は。同僚だとしても無関係でしょう。それとも口を挟めるほど親しくなってるのか?」
「やめてください。この方は上司の溝口課長です。私の離婚の事もわかった上で採用してもらっています。ご迷惑になるような言い方はやめてください。」
「ここは会社の敷地内です。と、なれば部下なら無関係ではないはずです。」
「⋯⋯」
修二さんは悔しそうにしていたけれど、溝口課長の言う通りではあり、自分の会社に通報するという遠回しな牽制もあったため、無理な反論や行動はまずいという考えに至ったようだった。
「私たちはこの後、顧客のところに行かないといけないので、そろそろ失礼したいのですが。」
溝口課長はもう切り上げるという状況にもっていった。
「いいのか、ゆり」
修二さんは最後だぞ、というように低い声で言ってきた。
「⋯どうして」
由美子に何かあるというのか。何かするというのか。
「広瀬さん、しっかりするんだ。今の話はスマホに録音してある。弁護士を通してもいいし、何ならこの人の会社にも言える。ヘタな事はできない。」
溝口課長は私の耳元でそう言ったけれど。十分修二さんにも聞こえる音量だ。
「後悔しても知らないぞ。⋯次はお前が来る番だ。」
そう言って踵を返して、帰って行った。
直前に溝口課長を睨んで。