5 初めての会話と感情
「広瀬さん、飲料保管庫で、在庫確認するから一緒に行こうか。」
ある日、何とか入力作業が慣れてきたと田伏くんに認めてもらえ、ホッとしていたら溝口課長に声を掛けられ、周りの女性の視線が一斉にゆりに注がれた。
なせそんなに注目されているの⋯
普通このような声を掛けられてもただの上司と部下のやり取りで、誰も気に留めることはないのだが、溝口課長は女性社員から人気があり、彼に声を掛けられるのを待ってる女性はたくさんいるらしい。
⋯が、彼が女性に声を掛ける事は滅多にないらしい。自分が女性からどう思われているか、自覚があるんだろうと田伏くん情報。
社内でややこしい声に巻き込まれたくない、誤解されたくないのだ、と田伏くんがいつもいろいろ教えてくれる。⋯情報通でもあるらしい。
それらの視線を痛々しく受けるも、溝口課長からの声を無視する事はできないから、はい、と返事をし早足で付いて行った。
「わぁ、大きいですね⋯」
「全ての商品があるからね。コーヒーと紅茶は奥にあるんだ。今日は紅茶の在庫と品質チェックをしようと思ってね。広瀬さん紅茶好きだから、面白いし興味あるかと思って。」
「はい!ありがとうございます。とても興味深いです。昔、紅茶屋さんで布に入った茶葉を見た事はありますが、ほとんどは売り物になった、小袋や缶の状態ですから。」
コーヒー豆もそうだが、紅茶も品質維持の為、麻の布に入れられている。封を開ければ紅茶の香りがフワッとする。
とても心地よい瞬間。
「うちで卸しているのは、個人店や特化したスーパー、百貨店だから、注文毎に小袋や缶に入れたりしているから、開け閉めが多いんだけど、注意しててもちゃんと封ができてない場合があるから、ちょくちょく見に来てるんだ。」
「そうなんですね。いただく方は品質が保たれていて、美味しく頂けるけれど、管理は大変ですね。」
「まあね。正直、僕はコーヒー派だから紅茶はよくわからないんだけど、きっと紅茶も風味が落ちやすいだろうと思っていたからね。まぁ本で勉強とかはしてるけど、なかなか普段の仕事にプラスになる程、突き詰められなくて。」
「それは当然です。私で良ければ封のチェックくらい毎日しますが。あ、商品詰めも。」
「本当に?助かるよ。実はお願いしたいなと思ってたんだ。大量注文は滅多にないから、一件当たり多くても、20袋ぐらいだから、1人でもできると思う。なるべく急な注文にならないようにはする。退社時間は守れるようにね。もちろん無理な時は俺や他の人間も付けるから。」
「ありがとうございます。でも緊急などの時は残業になるのは理解しています。⋯なんだか楽しいです。自分の好きな銘柄の茶葉を扱わせてもらえるなんて。」
「ああ、うちの紅茶好きって言ってくれてたよね。」
「覚えて下さってたんですね。」
「もちろん、本当に好きなんだな、と感じられたしね。でも正直、コーヒーよりパンチが弱いというか⋯香りもだけど。」
「そうですね、味も香りも紅茶の方が弱く感じるかも知れません。でも茶葉や淹れ方によっては、しっかりしたボディで深みもあって、コクもあるんです。紅茶は私を癒してくれて、寄り添ってくれるものなんです。」
「そうなのか⋯。」
「溝口課長はコーヒーを飲むと、そう感じるんじゃないですか?」
「確かに癒される事はあるけど、ホッとひと息ついたりとか⋯でも豆の味とかそういうの自分で飲む分には、あまり気にしてないんだよな、実は。」
「なんとなく落ち着く為ですか?」
「うん、それとか口寂しい時かな。酒やタバコがダメな時とか⋯まぁ確かに家に帰ってコーヒーを飲みたくなるのは、癒しの為なのかな。」
「そうなのかも知れませんね。もし良けれは紅茶もじっくり味わってみてください。きっと癒されると思います。あ⋯分押し付けてしまってますね。」
「そんな事ないよ。広瀬さんが話してるの聞いてると飲みたくなるよ。⋯広瀬さんが淹れた紅茶、飲んでみたいな。」
「あ、私で良ければお淹れしますよ。」
「本当に?いいの?今でも?」
「えっ、今ですか?」
びっくりした。まさか今とは⋯もしかしたら、本当に淹れる時があるかもしれないけれど、言葉だけのものかな、と思ってたから。
「無理、かな。」
なぜか、様子を伺うように聞いてきて、私を覗き込むようにする仕草にドキッとした。
色気を漂わせた彼のアップは、よそ行きの私の表情を乱しそうだった。
「い、いいえ、何がいいですか?」
「うーん、おまかせで。」
「ミルク、ストレートどちらが?」
「⋯ミルク⋯広瀬さんの飲みたいのを飲んで見たいな。」
「私?えーと、では、私は1杯目はストレートで、2杯目からはミルクを入れて飲むので、アッサムでお淹れしますね。」
「ああ、それでお願します。じゃ、こっちのCTCかな。」
「いいえ、ここのはそれじゃない普通の茶葉で飲みたいです。アッサムのオーソドックスな味で、ミルクを入れても重すぎなくて、いつでも飲める感じで好きなんです。」
「へぇ、そうなのか。ミルクならCTCだと思ってた。」
「ほとんどのアッサムはミルクに合いますよ。ただ、季節や茶園によって味が違うので、どんな味が好みかによるんです。いろいろ試して美味しいと思っても、毎日飲みたいのはオーソドックスなものになってしまうんです。」
彼女はとても生き生きと紅茶の話しをしてくれる。聞いているとこっちも楽しくなるし、もっと聞きたいとも思う。彼女の表情に惹き込まれる。あまり知らない事を聞いてるからだろうか。
それから20分ほど経って、淹れてくれた紅茶は、とても香りがよく、茶葉がポットに入ったままだから1杯目はストレート、2杯目はミルクを入れ、飲ませてくれた。
⋯味わい深い。こんなに同じ茶葉でも彼女が淹れた紅茶は初めて飲むような味で、美味しかった。いつまでも口の中に味が残り、余韻に浸れる。
「広瀬さんは、とても上手に淹れられるんですね。こんなに美味しいと思ったのは、初めてだ。」
じっとカップに入ってる紅茶を見てしまう。
「大袈裟ですよ。私はただの紅茶好きの素人ですから。もっと上手に淹れるひとはたくさんいますよ。でもありがとうございます。嬉しいです。」
ほんのり顔を赤らめて、微笑みながら話す彼女を見入ってしまう。
「これから試飲や飲む機会がある時、お願いしたい。いいかな」
「私で良ければぜひ。」
そう言って柔らかな笑顔を見せてくれた。
なぜか切なくドキッとした。
そんな俺の感情を知る由もなく、
「溝口課長はここのコーヒーを飲まれるんですか?」
「ああ、品質管理の意味もあって、粉挽きして何種類か飲んでるかな。外ではなるべく時間があれば他社のコーヒーを飲んで、一応研究してるかな。」
「そうなんですか。好きな飲み物とはいえ、継続して行動するのは大変ですね。」
「正直飲みたくなくなる時もある。そんな時は紅茶を社内で淹れてもらって飲んでたんだけど、こんな美味しいと思ったのは、初めてだよ。
コーヒーを扱うなら紅茶もいるだろうっていうので扱っているけど、この部門を立ち上げてまだ2年くらいで、商品の知識を全て持っている訳ではなくてね。コーヒーはだいたいわかるようになって、お客からの要望に対応できるようになったけど、紅茶はまだまだなんだ。」
「そうだったんですね。でもその割りには沢山の種類がありますよね。」
「うん、それは資料とかから種類の多さを知って、とりあえずカフェとかいろいろなお店廻って、よく置いてるものをベースに専門店で扱われている人気なものを置いてみることにしたんだ。
あと一度インドやスリランカに行って、詳しい人を紹介してもらって、その人に任せている状態なんだ。
もし広瀬さんからみて、必要な茶葉、特に量的にこんなにいらないとかアドバイスもらえると有難い。」
「私はマーケティングの事はよくわからないので、お役に立てるかわかりませんが、よく専門店に行くので、 そういうところで聞いた知識等ならお話しできるかと思います。」
「それで十分。あと広瀬さんの好みで大丈夫だから、評価も欲しい。」
「わたしの好みは偏ってますよ。」
見た目よりも柔らかい雰囲気を纏って、笑いながらそれでも大丈夫なのかという雰囲気で、顔をじっと見てきた。
まっすぐな瞳が綺麗だと思った。
「それだけでもいいよ。やっぱり外でもアッサム中心?」
「そうですね。アッサムがメインのブレンドも好きですが、気分でダージリンも。あ、チャイもよくいただきます。」
「チャイ?ああ⋯ミルクたっぷりの。」
「はい、家でも作りますよ。でもお気に入りのお店の味は出せないので、なかなか満足出来ないんです。お店ごとにブレンドされた茶葉ですから仕方ないんですが。」
「そうなのか。深いな。」
「フフ、コーヒーも紅茶も深いですね。」
いつまで話しても飽きないし、むしろもっと話したい。
少しプライベートな話しでもしてみようかと思ったところで、終業の音楽が聞こえてきた⋯
「ああ⋯もうこんな時間か、広瀬さんの処理溜めてしまったかな。明日でも大丈夫?今日中のがあるなら、引き受けるよ。」
「大丈夫ですよ。田伏くんが引き受けるって先ほど言ってくれましたから。」
「そうか、良かった。⋯またここの作業の時、紅茶淹れてもらえるだろうか。」
「もちろんです!嬉しいです。大好きな紅茶のお仕事ができる上に、紅茶も淹れられるなんて。」
「ははっ。広瀬さんてなんて言うか、まっすぐだな。」
「え、⋯そうでしょうか?私ちゃんと自分を出せていますか?」
「え?」
「すみません、変なこと聞いて。⋯今までの私は自分を出してはいけなくて、周りからも冷たい人と認識されていたはずなので。やっと、自分の心を解放できるはずなんですが、急に変われるはずもなくて、なかなか気持ちを表すことが難しくなってしまってます。」
驚いたが、確か彼女の旦那だった人は菱紅商事。日本でトップなのはもちろん、世界でもその名を轟かせ、世界TOP5に入る企業。その会社の役員ともなれば想像できないような、人間関係、精神的なプレッシャーがあるのだろう。本人はもちろんだがその家族の協力、あるいは犠牲も半端ないはずだ。
だけどその見返りとなる、給料や報酬も半端ない。それがあるから、家族は我慢や協力し、成り立つ。⋯でもそれよりも自由を選んだという事はきっと、かなりの苦しみがあり決断は勇気がいったはずだ。
そう言った彼女の表情は悲しさ、後悔、切なさを感じさせたが、優しく微笑む姿に守ってやりたいと思わせた。
「ちゃんと伝わっている、少なくとも僕には。もっと聞いてくれて構わない、不安な時は。」
「⋯っ、ありがとうございます。」
心が揺れる⋯今までは決して心を読まれるな、足をすくわれるような行動はするな、と言われ続けた。
それに従い周りから冷たい人間、お高くとまってる、等と認識されてきた。
辛くてもそうするしかなかったから、心にフタをして長い月日を経て、心が感じないようになってくれたから、何とか生きてこれたし、由美子を守れた。
だけどやっぱり完全な仮面ではなかったからか、涙が止まらない時もあった。もちろん由美子のいない所で⋯
だから由美子には、【ママはいつも笑ってるね】と言ってもらっていた。それが一番救われた。そう思ってもらえるように頑張っていたから。
そんな由美子が別居するようになり、【もう気持ちを隠さなくていい、無理に笑わなくていいよ、今まで私の為にありがとうね、ママ】
⋯そう言われた時、全て理解した。今まで由美子が言ってくれていた言葉は、私が言って欲しかった言葉だと⋯だから言ってくれてた⋯と。
今は隠す必要がない。
だから溝口課長が、ちゃんと伝わっている、不安な時は聞いてくれたらいいという言葉は、本当に嬉しい。一人で何でも背負わなくてもいいと言ってくれてるみたいで。
そう思っていたら、自然に口元が緩んでいた。
「その表情⋯」
「え?」
「とても広瀬さんっぽい。柔らかくて、人を包み込むようだ。」
溝口課長が目を細めて、優しく微笑みながら言う、その表情こそ他に女子がいたら、悲鳴が上がりそうな程の魅力的だ。
なんとなく頬が紅潮するのを感じる⋯トクン⋯
この日から、溝口課長と紅茶管理という名目で、週に一度はこの部屋で作業をして、紅茶を淹れ、飲みながら仕事やプライベートな話しを少しずつするようになった。