7、引っ越し
私が、時々転びながらも《身体強化》なしで歩けるようになり、呂律も回るようになった頃。
母カトリーヌが再婚した。
彼女が勤めてる商店の客で、貧乏画家だけど見目はいい男。
なんでも侯爵家のご子息だそうな。
「じゃあ、あたしもほんとのおひめさまね!」
ロキ君と毎日あえる環境に未練たらたらで、最初は引っ越しを渋ってたエリザベスだけど、相手の生まれを聞いた途端、大乗り気に。
甘いな…
引っ越し先は何区画か先で子供の足では遠かったけど、下町であることに変わりはない。
我が母と同年代でこんな暮らしをしている時点で、実家には勘当されてるに決まってる。
「やぁ、エリザベスにフローラだね。これからよろしくね」
引っ越していった日にはじめて会うとか。
私たちに決定権も拒否権も皆無な時点でお察しだ。
「こ~んなカッコイイパパができてうれしい!」
「え…うん」
姉としては精いっぱい愛想をふってるわけだけど、相手の顔色は冴えない。
はい、コブです。しかも二つも。
「なるべくお仕事の邪魔をしないように気をつけます。してはいけないことなどあったらその都度、教えてください」
私は控えめに微笑んで頭を下げる。
ふつう三歳にもならない子供がこんな口をきいたら不気味だと思うけど。
母親は、その鈍さをこれ幸いと、日々少しずつ慣らしてきた。
姉は、私の言動など気にしない。
そして、さすがは貴族令息。
敬われ、ついでに適度な距離を示されてほっとしたらしい。
「下の子はなかなかわかっているね」
カトリーヌの腰に手を回しながら囁く。
曖昧に笑う母。
子供への愛をとりたいところだが、これからの生活を考えれば見目がよく自分の容姿に惚れてる男を立てなければといったところかな。
エリザベスはそんな彼らを尻目に、壁に立てかけられたいくつものキャンバスを眺めて歩いている。
「なにがかいてあるのか、ちっともわかんない」
姉よ、ここでは正直さは美徳ではないのだ。
「に、荷物を整理しちゃうわね。ベス、手伝いなさい!」
「えぇ~!」
強引に娘の手を引いて、続きの間に入っていく。
さらに部屋があるだけ、いままでの生活よりランクが上がったことがわかる。
残された者同士、無言で見つめ合う。
「…………」
本来なら私たち母娘を養ってくれる立場のはずだけど、結局は我が母が、大きな子供一人と小さな子供二人の面倒をみることになる気がする。
でも、どうにもならないことなら事を荒立てず、なるべく平穏に暮らしたい。
「…そちらの大きな絵からは情熱を感じます。こちらの小さな絵はもの悲しいです。…生意気言ってすみません」
「おおっ! そんなことないよ。わかるかい?」
まあ、わかりやすいっちゃわかりやすい。
絵具を何重にも跳ね飛ばしただけの絵だ。
言っておくが私は芸術には疎い。
ただ、色の与える印象くらいは前世どこかで齧っている。
赤は情熱、青は悲しみ。
彼はとても単じゅ…素直らしい。
「でも、高尚すぎて凡人にはわからないかもしれません」
「そうなんだよ…。君はいい子だね。よかったら絵の描き方を教えてあげよう」
「ありがとうございます」
私がこの男から教わりたいのは、文字や礼儀作法だ。
幸い、お坊っちゃんだった彼は、子供の発育過程をまるでわかってない。
「絵具というものは、こんなにコントロールのきくものなのですか?」
「それはね、うん、なかなか苦労しているんだよ。すり潰し具合とか、溶きぐあいとか…」
いきなり初日から欲張らず、少しずつ誘導していくとしよう。
実際、彼の所作は綺麗だ。
男女の差はあれど、見てるだけでも勉強になるに違いない。