女神は語らない
皆様こんにちは、東郷ミカサです。
前回に引き続き、今回も私が過去に書いた短編小説をいくつか上げたいと思います。2つ目の作品は、秘密警察として働く青年とフィギュアスケート選手として活躍する少女の物語です。舞台はソ連をモデルにしてみました。前作よりは読みやすい作品となっておりますので、是非読んでみてください。
――イリーナ・ペトロフスカヤ。年齢は19歳。
『共和国連邦』を代表するフィギュアスケート選手であり、前年に行われた世界スポーツ大会では二位の選手と大差をつけて、見事金メダルを獲得した名選手であった。
未成年とは思えない程長い四肢に、白く透き通るような肌、銀色に輝く長い髪、そしてサファイアのような深い青色の瞳――スケートリンクの上で舞う姿は「氷上の女神」と呼ばれ、見る者全てを魅了した。そして彼自身も、その内の一人だった。
* * *
「……これは、決定事項なのでしょうか?」
書類に目を通し、オリーブ色に赤いラインが特徴的な制服を着こんだ青年――ミハイル・ゼレンコフが質問を投げかけた。それを受け、目の前に立つ同じ制服の大男がそう答える。
「そうだ。これは同志書記長が自ら判断を下された。もう変更することは出来ん」
ミハイルは改めて手元の書類に目を通す。書類にはクリップでフィギュアスケートの世界的選手であるイリーナ・ペトロフスカヤの証明写真が挟まれており、彼女のプロフィールや生活習慣について事細かに記載されていた。文章には『スパイ』や『反革命的』、『亡命』の文字が度々見られる。これで、この書類に目を通したのは何回目だろうか、もう分からなくなっていたが、何度見てもミハイルはその内容を信じることが出来なかった。
ミハイルが所属する国家保安委員会は、『共和国連邦』における諜報、防諜、犯罪捜査、国境警備を担当する情報機関であり、秘密警察であった。『合衆国』を始めとする西側諸国との対立が激化する中、既存の警察組織を統合する形で設立され、国内で活動する数多のスパイを取り締まってきた。
そして今日、国家保安委員会はイリーナに目を付けたのであった。
「前年行われた世界スポーツ大会において、独占取材を受けた記者が『合衆国』中央情報局所属の工作員であることがわかった。捜査を進めると、その他西側諸国の情報機関との接触もあり、関係者によると反革命的な発言もあったそうだ。よって、同志書記長及び同志議長はイリーナ・ペトロフスカヤにスパイ容疑があるとして、彼女の『処分』が決定した」
「確証は、あるのでしょうか……?」
「ない。『疑わしきは罰せよ』だ。それは、何度も聞いた話だろう?」
国家保安委員会の標語は「疑わしきは罰せよ」。『党』書記長や国家保安委員会議長が命令を下せば、どんな理由であろうと特定の人物を逮捕又は即刻処刑することが出来き、組織内ではこの行為を「処分」と言った。こうして「処分」された人間は社会から完全に抹消され、数年も経てば最初から存在しない人物として扱われた。いつ、どこで彼らに監視されているのか分からない人民にとって、恐怖の対象以外の何ものでもなかった。
「しかし、彼女はまだ19歳です。こんなに若いのにスパイだなんて……」
「お前は、最高指導者の決定に異議があるとでも言うのか?」
最高指導者たる『党』書記長の発言に間違いはない。最高指導者の決定は絶対である――それが、『共和国連邦』全人民共通の認識であった。そんな書記長に反対又は異議を申し立てるという行為は、自身の「処分」を表す。ミハイルは黙り込んでしまった。
「……お前の言いたいことはよくわかる。彼女は『氷上の女神』と呼ばれた世界一の選手だ。『処分』するには勿体ない。しかし、こうも容疑が発覚すれば彼女は英雄ではなく、もはや反逆者だ。『党』や『共和国連邦』としては、生かしておくわけにはいかない」
「それでも、何故自分なのでしょうか……?」
ミハイルはただ疑問であった。書記長や議長の判断に対する懐疑の念が無かったと言えば、それは嘘になるだろう。しかし、彼の頭の中にあったのはただただ疑問だけであった。この組織に入ってからまだ三年ちょっとしか経っていない自分が、未熟なはずの自分が何故選ばれたのか。上層部はこの任務に、何故自分を選出したのか。よりにもよって、何故自分が――。
「同志ゼレンコフ。どうやら君は、彼女と直接面識があるみたいじゃないか」
答えは単純明快。この組織は実に合理的なのだ。
* * *
まだ学生だった頃、休日に旧都――革命以前は帝都と呼ばれていた――を散歩していた時のことだった。旧都には雪が降り積もり、遠くに見える大聖堂の屋根も白く染まっていた。公園の近くを通りかかると、引かれるように足を踏み入れる。湖に沿って植えられた街路樹はすっかり葉を落とし、代わりに雪の白い花を咲かせていた。公園には誰も訪れていないのだろうか、白い道の上にある足跡は一つのみ。まるでこの雪化粧に染まった公園を独り占めしているようだった。ミハイルはそんな銀世界を歩くのが大好きだった。
夕方に差し掛かり、雪がはらはらと降り始める。かなり冷え込んできたので、自分もそろそろ帰ろうかと思ったその時、誰かが湖の上にいるのが見えた。一瞬目を疑ったが、湖が凍っているということに気付くには然程時間はかからなかった。
「こんな所で何をしているんだ……?」
気になったミハイルは道を歩きながら、その人物に近づいてみた。黒いコートに身を包んではいたが、その人物が女性であることがわかった。しかも、まだ若い。自分より数歳年下の、十代くらいの少女だ。更に近づいてみる。雪のように白い肌に、白銀の綺麗な髪、瞳は宝石と思わせるぐらいに青く――。
「……何してるの?」
鈴を転がすような声が鼓膜を揺らす。あまりにも美しい姿に見とれていたミハイルは、彼女の方から来てくれたことに全く気が付かなかった。否、気が付いてはいたが、その動く姿にさえも目を奪われていたのだ。声を掛けられて約三十秒後、通常の意識を取り戻した彼は、しどろもどろになりながらも答えた。
「あ……いや、僕はその……散歩をしていたら、たまたま通りかかっただけで……き、君は? ここで何をしているの?」
「私? 私は練習よ。ほら」
そう言って彼女は踵で氷を叩く。彼女が履いているブーツの裏には、鉄製のブレードが取り付けられていた。
「スケート……?」
「そう、私は世界一のスケート選手になるのが夢なの」
「そうなのか……それなら、こんな所で練習しなくても、あっちの方にちゃんと整備されたスケート場が……」
「どんな場所であっても、綺麗に滑れなかったら世界一にはなれないわ」
彼女は氷を蹴って、インフィニティを描くように湖の上を滑る。本来、自然に出来た氷は表面に凹凸が見られる為、人工的な氷を使用するスケート場のように滑ることは難しいと聞く。しかし、彼女の動きはとても滑らかだった。もしかして、足が浮いているんじゃないか――ミハイルはその光景が不思議でならなかった。
「それに……」
少女の足元を注視するミハイルに、彼女はまた声を掛ける。ミハイルが顔を上げると、彼女は立ち止まって空を見上げる。旧都の空は、分厚い雪雲に覆われていた。
「ここで滑るのが、好きだから」
彼女は呟くようにそう言った。最初は彼女に対してストイックな印象を受けていたミハイルだったが、その言葉を聞いて彼女に共感した。自分も子供の頃、氷の張った湖の上を滑ってみたいという願望があった。スケート靴なんて高価なものは買えない家庭だったので、結局その願望は頓挫してしまったが、雪が好きだと思う気持ちは、今の自分も引き継いでいる。だからこそ、ミハイルは彼女に近いものを感じていた。
「貴方はあるの? 夢とか」
また滑り出した彼女がそう問いかける。ミハイルは銀色の空を見上げながら、「ああ、勿論」と答えた。
「弁護士になるのが夢だ。法廷に立って、無実の罪から人々を助けたい。だから、今は大学で法律を学んでいるんだ。うちは元々農家だったんだけど、両親がお金を取り計らってくれたお陰で、僕はこうして大学に通うことが出来ている。そんな家族の為にも、絶対にならなきゃいけないんだ」
「そう……素敵な夢ね」
彼女はそう言って足を止めると、またミハイルの側にやって来る。そして、初めて彼に笑みを見せた。通常は凛とした顔立ちで非常に美しかったが、彼女の笑顔は温かみがあり、ずっと可憐だった。
「ねえ、私の滑るところ見たくない?」
「え? もう十分見たけど……」
「今までのはただの準備運動。さっきよりも比べ物にならないほど凄いやつあるから、見てみない?」
宝石の瞳が先程よりもキラキラしているように見えた。それ程、自分の滑りに自信があるということだろう。ここで断るのは可哀想だし、彼女に対しても失礼というものだ。何より、彼女の言う「凄いやつ」がどういうものなのか、純粋に「見てみたい」という興味があった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「そう来なくっちゃ。じゃあ、未来の弁護士さん。貴方のお名前は?」
「え? どうしてそんなことを……」
「いいから」
「み、ミハイル……ミハイル・ゼレンコフ」
「ふふっ、それではミハイルさん。私にとって、貴方が最初のお客さんね」
氷を蹴った彼女は、湖の中央へ滑って行き、彼女と自分だけの公演が始まった。
音楽も何もない舞台。しかし、彼女の動きに合わせて風の音が鳴り、街路樹が枝を揺らして演奏を始める。湖の上に張った自然のスケートリンクは、ミハイルのよく見る通常のものと違ってやはり荒い。しかし、そんな粗悪な氷の上でも彼女は立ち止まることも、躓くことも無く舞っていた。自然が作り出した舞台の上を舞い続けた。
助走をつけて、彼女は空を飛ぶ。世界中の時間が一時停止したように、空中で1回、2回、3回――と回って見せた。そして、彼女が着地すると同時に、世界はまた動き出す。これまで演奏者の側だった風や草木は彼女に拍手喝采する。それに釣られて、ミハイルも掌を叩いていた。それから彼女は何度も、何度も高難度の技を披露する。自然界の歓声は鳴り止むことはない。
彼女は公演の際、終始笑顔だった。観客に好印象を与えるための、見かけの笑顔ではない。ミハイルに見せた時よりも満面な笑みを浮かべて、この状況を純粋に楽しんでいるのだった。先程まで雲に覆われていた空からスポットライトの光が降り注ぐ。空中に漂う雪が鏡のようにそれを反射して彼女を照らし、舞い上がる銀髪が更に輝きを増す。世界中のありとあらゆるものが彼女の存在を祝福しているように見えた。その姿は、まさしく天使――否、それすらも超越する存在。女神、と言うべきだろうか。兎に角、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
気が付けば、時間はあっという間に過ぎ去っていた。日は既に傾き、寒さも増してくる。
「今日はありがとう、ミハイルさん。またどこかで会える日を楽しみにしているわ」
そう言って、彼女は帰っていった。そろそろ自分も帰らなければ、寮の門限に間に合わなくなってしまう。それでも、ミハイルは彼女の舞いを忘れることが出来ず、しばしばその場で余韻に浸っていた。ふと、彼は思った。そういえば、彼女の名前をまだ聞いていないじゃないか。自分の名前を答えた時に、彼女の名前も聞いておくべきだった、と。
後に世界スポーツ大会で優勝した彼女が、イリーナ・ペトロフスカヤという名前であることを知ったのは、願ってすらいない国家保安委員会に所属してから実に2年後のことであった。
* * *
白く染まった大聖堂の屋根が遠くに見える。この旧都は何年経っても変わっていないし、これから先も変わることはないだろうと、ミハイルは車の中から学生時代に見た同じ光景を見ていた。今回はいつもの制服とは違い、スーツの上に黒いコートを着込み、茶色のハットを目深く被るといったミハイルにとっては馴染みのない服装をしている。
あの日、ミハイルは例の任務を承った。抵抗は勿論ある。しかし、それを辞退できる程、この組織は甘くはない。国家保安委員会――更に言うなれば、『共和国連邦』の人民に不可能なことはない。どんな内容であっても、最高指導者の名で指令が下されれば、人民は喜んで実行しなければならない。仮にそれを断れば、「処分」されるのは自分だ。人民に拒否権がないのは当然のことだった。
大学卒業後、弁護士を志望していた自分がこの組織に入ることになったのは、それが理由である。イリーナは自分の夢を叶えたのに対し、ミハイルは国家権力によって夢を叶えることが出来なかった。しかも、そんな彼女を自分の手で「処分」しなくてはならいない――これ程、皮肉なことはなかった。
「処分」には銃や刃物ではなく、自動車を使用するように命じられた。事故に見せかけて、人為的な証拠を抹消する為だ。今や超有名人となった彼女が何者かに殺害されたとなれば、世界的ニュースとして国内外で大々的に報じられるだろう。書記長はそのよう状況を望んではいないという、強い意向の現れでもあった。自分は「処分」を遂行次第、車を乗り捨てて現場から距離を取れと言われている。それが終われば、組織の方で後処理をしてくれるらしい。これは裏を返せば、「失敗すれば、後は無いぞ」という脅しの文句として取ることが出来る。どちらにしろ、ミハイルにとっては地獄であることには変わりは無いということだ。
ミハイルは交差点に差し掛かったところでブレーキを踏む。この横断歩道を横切った突き当たりにあるのが、彼女と初めて会った例の公園がある。人や車の流れが、学生の頃より多く見えるのは、イリーナの影響なのだろうか。
捜査官によると、彼女はこの時間帯になるとここを渡って公園で練習を始めるらしい。スケート場より湖の上で滑るということを続けている彼女のストイックさは今も健在していた。それを知ったミハイルは、思わず安堵する。すると、目の前を行き交う人混みの中に他の人とは異質さを放つ人物が通りかかった。黒いコートに、灰色のマフラー、防寒帽を深めに被り、サングラスを掛けていたので上手く顔を確認することが出来なかったが、そんな衣服の下からちらちら見える白い肌や銀髪を見て彼女――イリーナ・ペトロフスカヤであることがわかった。
ああ、とうとうこの時が来てしまった――願わくば、今日だけはここを通らないでくれと思っていたミハイルだったが、こうなってしまったらもう引き返すことは出来ない。いや、もういっその事、彼女の手を引いて車に連れ込み、このまま西に向かってひたすら逃げるのはどうだろうか。そして、東西の境界線を越えて一緒に『合衆国』へ亡命すればいい。彼女は大好きなスケートを続けることが出来るし、自分もこんな汚い仕事を辞めて、なりたかった弁護士の仕事に就くことが出来る。まさに理想的な未来だ。しかし、国家保安委員会の脅威は死ぬまで付き纏うことになるだろう。毎日、恐怖に襲われながら暮らさなければならなくなるだろう。それでも、こんな国にいるより――。
はっと顔を上げた先、そこには彼女が立っていた。青信号が点滅し始めているのにも関わらず、彼女は道路の真ん中、ミハイルが運転する車を遮るかのように立ち止まっていた。
「一体何を……」
ミハイルよりも先に動きを見せたのは彼女の方だった。サングラスを外し、帽子を地面に脱ぎ捨てて、銀色に輝く長い髪が現れる。その姿は間違いなくテレビで見た彼女の姿、あの日公園の湖で見たイリーナの姿であった。よく見ると、彼女が練習に使うはずのスケート靴らしい持ち物を持っていないことに気付いた。サファイアの視線がミハイルの顔を貫く。そして、
「……やって」
それは、ほんの一瞬の出来事であった。直接そう聞こえたわけではないが、ミハイルには聞き取ることが出来た。口の動きから、鈴を転がすような彼女の声が聞こえてきた。彼女の青く力強い瞳が、彼の視線と交差する。その時、ミハイルは理解した――自分がどんな容疑を掛けられているのか、ミハイルが何をしにこの街に戻ってきたのか、自分がこの後どうなるのか――彼女はもう全てを察していたのだ、と。彼女は既に覚悟を決めていたのだ、と。
ミハイルは車のエンジンを噴かす。君の決意はしっかりと受け取った――そういう意味を込めた合図だったのだが、彼女はしっかり理解してくれただろうか。否、彼女ならきっと理解してくれただろう。
信号の点滅もそろそろ終わる。路上に立っているのは、イリーナただ一人だった。他の人々は不思議そうに彼女を見ている。「そんな所に立ってたら危ないだろ」と注意する運転手もいれば、「あれ、イリーナ・ペトロフスカヤじゃない?」と噂する歩行者もいた。しかし、彼女はその場を一歩も動こうとしなかった。
信号が青から赤に切り替わる。もう時間だ。これ以上長引かせるわけにはいかない。自分にとっても、組織にとってもそれは好ましくない。そして何より、覚悟を決めているイリーナを待たせるのは、実に失礼ではないか。
結局、彼女は最期まで何も語ってくれなかった。本当に中央情報局に情報を提供したのか、最高指導者や『党』に対して反体制的であったのか、『合衆国』への亡命を企てていたのか、何も教えてはくれなかった。しかし、今となってはどうでもいい。『共和国連邦』だの、最高指導者だの、同志書記長だの、『党』だの、国家保安委員会だの、もうどうでもいいんだ。今は彼女の意思に答えてやるのが、自分が成すべき任務だと、そう思って――。
ミハイルは、アクセルを強く踏み込んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
他にも『嗚呼、憂国の烈士よ』といった作品も投稿しておりますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです。また、今後は過去作意外にも新作も上げていきたいと思いますので、応援の程をよろしくお願い致します。