現実描写と願望成就
私の友人は、ブログで映画批評をやっていました。彼は色々な映画を見て、芸術作品は「現実描写」であり、エンタメ作品は「願望成就」だと定義しました。
この区分けを今回は使おうと思います。この「現実描写」と「願望成就」の分割で「ルックバック」を見るなら、丁度、ラストの部分でこの二つが混合されているのが見て取れます。
つまり、京本が殺された現実を見つめる視点は「現実描写」であり、京本が救われた世界線は「願望成就」です。作品の構造的には「願望成就」した世界から、4コマ漫画が一筋降ってきて、「現実描写」の世界の藤野を救います。そう考えると、かなり不思議なバランスの作品だと言えます。
これは、藤本タツキという人の資質を示すとも言えます。「ルックバック」という作品を見ると藤本タツキに芸術家的素養があるのは確かですが、同時に、少年ジャンプの漫画家として必要とされるエンタメ的資質も持ち合わせています。
この微妙な配合は一体どういう事でしょうか。作者そのものの資質に還元してもいいのですが、京アニ事件の事もありますし、社会的連関として今は考えていこうと思っています。
おおまかに言うと、藤本タツキという人が、エンタメ要素と芸術的要素が混合している事、また暴力性が作品の核にある事は、時代の変化の反映と捉えたいと思っています。
今から考えると、村上春樹からよしもとばなな、川上弘美あたりの、ぬるい感覚、同一性の中に溶けていくのをよしとし、世俗的に救われるのを肯定する感覚というのは、私のような人間には受け入れがたくなっています。彼らの感覚はやがて、異世界転生もののような、幼児的救済に到達します。
団塊の世代のリーダー、即ち村上春樹、糸井重里、高橋源一郎、タモリなどがやった事は、カルチャーからサブカルチャーへの橋渡しであったと思います。彼らはある程度教養はあるのですが、それをあえて「ポップ」に見せる事に意味があったわけです。
彼らは、ある程度は教養、知性を備えていましたが、その下の世代からは本格的にそういうものが抜け、サブカルチャーに浸る事が全てとなってしまいました。あえて低俗を気取るのが彼らの芸であったわけですが、全てが低俗一辺倒になると、かえって彼らが高級なものに見えてきます。今がそういう状態です。ではそういう中で藤本タツキという人はどんな人でしょうか。