「ルックバック」の「詩」
さて、感想です。
まずこの作品の優れた所から上げています。特に重要な事、おそらく一番重要だろう事から書きたいと思います。
「ルックバック」の表紙を見てください。少女がこちらに背中を向けて漫画を描いています。この、背中をこちらに向けて何かを描いている絵。このカットは印象的に、作中に登場します。
最初は、藤野が京本に画力の差を見せつけられた所です。京本に敗北した藤野は悔しさをバネに、黙々と絵の練習をします。その為に友達すら犠牲にしてまで、彼女は描き続けます。
その後も印象的に後ろ姿のシーンが出てきますが途中は割愛します。重要なのは、最後の場面で、藤野が再び漫画執筆を始めるシーンです。京本の死を乗り越えようと藤野は漫画を描き始めます。ここでも藤野の顔は見えません。その前のコマもそうですが、立ち上がろうとする彼女を、カメラは後ろから写します。
私はここに藤本タツキのセンスを感じました。普通であればこの場面は、藤野の顔を正面から映して、希望の満ち溢れた微笑なんかを描きたい所です。しかし藤本タツキは最初から最後まで、後ろからのシーンにこだわります。
昔、淀川長治が北野武の「キッズ・リターン」を評した事があります。淀川は「キッズ・リターン」の何に感心したかを述べて、「二人の青年が自転車を二人乗りしているシーン」だと言いました。このシーン、この場面が作品の「詩」であるとはっきり言いました。これは非常に優れた評論でした。
淀川が言いたいのは、あの場面に作品の魂、すなわち「詩」が封印されているという事です。二人の青年が自転車を二人乗りしている。校庭をぐるぐると回っている。それは青年のやるせなさの表現であり、また、バイクでも車でもなく自転車というのが彼らの未熟さ、少年性を表している。一つの場面が作品全体を象徴すると共に、北野武の心象風景になっている非常に優れた場面である。淀川長治はそういう事が言いたかったのだと思います。
私は、表紙の藤野の後ろ姿こそが、「ルックバック」という作品の「詩」なのだと感じました。これが作品の最も優れている所であると思います。この場面について、もう少し詳細に考えてみましょう。