8 「こころ」の授業 二
11月12日(火)
「出会いの場面で高校生だった「私」は、さらに一年高校を経て大学に進学。大学卒業まで……おそらく五、六年に渡って先生との交流を続けていく。先生と奥さんの静かな生活。意味ありげな毎月の墓参り……先生の過去に深い事情があるらしいことはわかるが、真相はまだわからない」
大学卒業まで一年を切った頃、私に実家から、父の体調が良くない、と連絡が入る。 私は実家に帰って、腎臓病の父親の様子を見て、東京に戻ってくる。
先生は、私に対し、親の健康状態に不安があるなら、早めに遺産などの整理をしたほうがよい、とアドバイスをくれる。身内でトラブルを経験した先生ならではの助言だった。
――「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うよりほかに仕方がないのです」
「先生は親類に騙された経験があって、それ以来、人が信じられなくなった。さらに自身も人を裏切ったことで、ついに自分さえ信じられなくなってしまったという。先生がやった『裏切り』……人間を信じられなくなったきっかけ、とは何なのか」
年が明けて、いよいよ六月の大学卒業が近づいてくる。卒業のために必要な論文の執筆に打ち込み、先生の家への訪問も自粛するようになった。論文は四月に無事書き上がった。
卒業を目前にした私は、先生に、あらためて人生を詳しく語って欲しい、と正式に願い出る。
――「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
先生もすぐには承諾しない。
――「私の過去をあばいてもですか」
その後の言葉が印象的だ。
――「私は過去の因果で、人を疑ぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。(中略)私は死ぬ前にたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか」
誰かを、本当は信じたかった。でも信じられないままに生きてきた先生の寒々しい人間観。あなたは真面目ですか、と問いかける先生に、私は正面から「真面目です」と受け止める。
先生は私の熱意を受け入れて、過去を残らず話す、と約束してくれる。ただ「適当の時期が来なくては話せない」とも付け加えた。
「卒業してすぐ、私は実家へ戻ることにした。九月に先生と再会することを約束し、私が東京を離れるところで『上 先生と私』は終わる。次に『中 両親と私』だが、短いのでまとめてしまおう」
私は実家で卒業を盛大にお祝いされる――父親は病気も進行して、もう長くない、と覚悟していただけに、一際感激していた。
やがて九月になり、東京へ戻る予定日が近づくが、父親の病状が急激に悪化して、私は実家を離れられなくなる。
そこに、先生から分厚い手紙が届く。
――「私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
「卒業のときに約束した、先生の人生を教訓として伝えること。それが手紙の目的だった。しかし、不審な点がある。なぜ、突然手紙で送られてきたのか。手紙の冒頭に書かれた『この時期を逃せば物語る自由は、永遠に失われてしまう』とはどういう意味なのか。私は不吉な予感を感じて、手紙の最後のあたりまでめくっていく」
――「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
手紙は先生の遺書だった。
私は、危篤になっている父を家族にまかせ、東京行きの汽車に飛び乗ってしまう。そして夜中の車内で遺書を読み始める……。
「『こころ』の解答編、クライマックスの『下 先生と遺書』は、この遺書をそのまま、まるまる掲載した形になっている。次回から読んでいこう」