4 「こころ」の授業 一
11月5日(火)
「夏目漱石の『こころ』は、高校教科書に載っている作品で、最も高い評価を受ける作品といえる。新聞小説として、大正3年に発表されてから、すでに100年あまりになる」
今日は『上 先生と私』の冒頭から読んでいく。主人公は『私』という青年。『上』は、私が昔の思い出を振り返る、という形式で書かれている。
「読み進める前に話しておくが『こころ』には、『上』『中』『下』を通して読んで、さりげなく、でも大量に張られた伏線に気付いたとき、初めて見えてくる『書かれていない核心』がある。伏線は全編に……いや、作品外にまで張り巡らされている」
生徒が、きょとん、とした顔をする。「作品外……?」と小さなつぶやきが聞こえた。
「そう。本文の外側……あえて、どこに、どういう形でかは、今は秘密にしておこう。ただ、教科書だけでは『下 先生と遺書』の一部しか掲載していないから、気付くことができない。だから君たちに宿題で全編を読んでもらった。本文をこれから授業で見直していくけど、さっき言った『書かれていない核心』とは何か、考えながら読み進めてほしい」
――私は、その人を先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。
「舞台は明治40年頃……現代から110年ほど前の東京だ。高校に通う私……といっても当時の制度は現代と異なるので、おそらく20歳くらい……が『先生』と出会う」
先生は謎めいている。ごく一部のエリートしか行けなかった大学を卒業し、美しい奥さんもいるのに、仕事に就かず、日々静かに過ごしている。
私は先生の超然としたたたずまいや、含蓄ある言葉に惹かれて、度々訪ねて親交を深めるようになる。先生と呼ぶようになったのも、人生の先輩らしい深みを感じてだった。先生はときおり冷淡な態度を取ることがあって、親しくなれた、と思っていた私をその度にがっかりさせる。
――私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、はじめて解って来た。
「私が『上 先生と私』を書いている時点では、先生がもう死んでいることがさらりと明かされる。私と生前の先生の交流に、多くのページが割かれる『上』だが、その中でもいくつか重要なポイントがある」
まず外せないのが、先生が毎月欠かさない墓参りだ。
私と先生が初めて出会ったのは真夏に旅先でだったが、その約1ヶ月後、私は先生の家を訪ねる。
この時、先生は留守で、家にいた奥さんから、毎月の墓参りに行っている、と聞かされる。私はそのまま墓地に行き先生と再会するが、私の姿を見た先生は酷いショックを受けてしまう。
――「どうして……、どうして……」先生は同じ言葉を二遍繰り返した。その言葉は森閑とした昼のうちに異様な調子をもってくり返された。
「先生にとって、この墓に私が来たことも、ここにいることを奥さんが私に話したことも想定外だった。この墓に眠っているのは、先生によれば、昔の友人とのことだが、肉親でもない友人に『毎月』墓参り……それだけでも、何か事情があるのでは、と気になってくる。次の月の墓参りに、散歩がてら同行したい、と言い出した私に、先生はこう言って断る」
――「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえまだつれて行った事がないのです」
先生は過去に大きな秘密を抱えている。そして、私が訪れることを歓迎はしてくれるのに、不思議なよそよそしさが消えない。それでも私は度々先生を訪ね、高校から大学へ進学、数年間かけて親しくなっていく。
「先生の家は、奥さんと、仕事に来てる下女のおばあさんがいるだけで、いつも静まりかえっている。次に注意して読んでほしいのは、珍しくお酒を飲むことになった先生と私、奥さんの場面だ。いつもあまりに静かなので、寂しくはないですか、と私が尋ねた」
――「子供でもあるといいんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。
――「一人貰ってやろうか」と先生がいった。
――「貰いッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「私を味方に引き入れるように『子供でもいれば……』という話を持ち出す奥さんと、養子をもらってやろうか、とつれなく返す先生のズレ。この違和感は、なんなのか」
――「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。
――奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
子供ができない理由を「天罰だからさ」といって笑う……先生の抱えた深い罪の暗示。この日より後、私は先生と恋愛について会話するが、そのとき先生はこう言う。
――「妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」
先生と奥さんがお互いを大切にしていることは、態度からも疑いがない。
なのに先生の『幸福な一対であるべきはず』という奇妙な言い方。先生の恋愛には『天罰』が下されていて、真の幸せにはなれない……そんな状況がほんのり見える。
――先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。(中略)先生はそれを奥さんに隠して死んだ。
「謎めいた過去。天罰。幸せで『あるべきはず』なのに、そうなれない夫婦。そして執筆している今、すでに生きていない先生……たくさんの疑問をはらみながら、私と先生の親交は続く。次回もこの続きを読んでいこう」