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【書籍化】辰巳センセイの文学教室【ネトコン受賞】  作者: 瀬川雅峰
終章 こころの時間_2020年3月編
93/118

3 締めくくる日に向けて

11月3日(日) 午後8時40分


 さて。

 いっちょ気合い入れて準備しましょう、と自分に渇を入れた。


 教科書に、何冊か買っている文庫版、さきほど本棚から抜いてきた資料――どかどかと自宅の机に積み上げた。眼鏡を直して、まずは教科書を開く。


 ついに、この単元だ。


 3年生の最後に、取り上げようと思っていた『こころ』。


 日本を代表する文豪、夏目漱石の傑作である。高校国語教材の定番中の定番。緻密で説得力のある人物描写に、隙のない構成は流石としか言い様がない。


 『こころ』は全体が大きく三つに分かれている。


『上 先生と私』   36段

『中 両親と私』   18段

『下 先生と遺書』  56段  


 高校教科書では、全体の半分を占める『下 先生と遺書』の、半分程度を掲載しているのが普通だ。教科書のページ数的に、それくらいが掲載できる限界でもある。


 ただ、この作品について、『下』だけ……しかも、その半分だけを授業で読んで、全編を読んだつもりになるというのは、あまりにもったいない。


 確かに、『下』だけでも十分に面白い。でも、どうせ学習するなら、生徒には全編通してこそ、の面白さに触れさせたい。


 時間と教科書の制約の中で、教師としては、どうやったら全編の味わいを伝えられるか、と頭を悩ますことになる。その際に、よく採られる手が『書籍を買わせて、上中下、全部読ませてしまう』というストレートかつ乱暴な方法だ……今回は俺も例にもれず、そうさせてもらうことにした。


 先週までの中間テストが終わり、12月初旬の期末テストまであと1ヶ月。うちの高校では、3年生は1月以降、受験準備期間となり、通常の授業がわずかしかない。だからこれが3年の教室で扱う最後の単元になる。



 ……ふぅ、と大きく息をついた。


 春になれば、とつい考えてしまう。


 春になれば、また新しい生徒を迎え、きっと、授業もまた1年生をメインにもつことになる。羅生門や、数々の評論や、短歌や詩を一緒に学習し、生徒たちが少しずつ大人になっていく姿を見守る。



 新しい学年、新しい生徒との日々……。


 いつの間にか、教材研究の手が止まってしまっていた。




 今預かっている担任生徒たちとの授業は、実質あと1ヶ月……。


 違う。本当に気にしてるのはそこじゃない。


 ……円城の顔が浮かぶ。


 彼女をどうするべきなのか……と考えが進みそうになるのを、愚問だ、と切り捨てる。

 

 彼女は優秀な生徒だ。きっと受験も乗り切って、立派に進路を決めて卒業していく。春からは、彼女には新しい生活が待っている。大学生活で、たくさんの出会いを経験して、もっともっと魅力的に成長していく。


 そこに、俺の出張る余地など、あるわけない。

 

 教師をしていると、たまに、なんでこの先生に、こんな素敵な相手が……というカップルを見る。当人が幸せなら、外野がそんなことを考えるのは野暮だ……というのはわかる。みんなそれはわかっているのだが、それでもどうなのかねぇ……と周りから噂されてしまうくらい、バランスがねぇ……というケース。


 そんなとき、事情を聞くと往々にしてあるのが、元教師と教え子によるカップルだったりする。広い社会で、魅力的な異性と出会う前に「教師という立場で、教え子に恋をさせた」……そんな、意地悪な言い方をする人もいる。


 大人として、教え子にそんな恋をさせていいものだろうか?と思っていた。

 少なくとも、自分がそうなるとは思っていなかった。


 ……だから、そうならなくていい。

 

  俺は、3年生()()を笑顔で送り出す。


 授業で、ホームルームで、伝えたこと、教えたことは覚えていてほしい。

 でも、俺自身があの子たちの中に残ろうなんて、おこがましい。残すべきは教育そのものであって、俺という個人じゃないはずだ。



 あらためて、美幸の顔を思い出す。彼女との間にあったこと。傷付けた人。償えない罪……忘れてはいけない。


――俺は、あの子たちの中に残っていい人間じゃない。

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