3 締めくくる日に向けて
11月3日(日) 午後8時40分
さて。
いっちょ気合い入れて準備しましょう、と自分に渇を入れた。
教科書に、何冊か買っている文庫版、さきほど本棚から抜いてきた資料――どかどかと自宅の机に積み上げた。眼鏡を直して、まずは教科書を開く。
ついに、この単元だ。
3年生の最後に、取り上げようと思っていた『こころ』。
日本を代表する文豪、夏目漱石の傑作である。高校国語教材の定番中の定番。緻密で説得力のある人物描写に、隙のない構成は流石としか言い様がない。
『こころ』は全体が大きく三つに分かれている。
『上 先生と私』 36段
『中 両親と私』 18段
『下 先生と遺書』 56段
高校教科書では、全体の半分を占める『下 先生と遺書』の、半分程度を掲載しているのが普通だ。教科書のページ数的に、それくらいが掲載できる限界でもある。
ただ、この作品について、『下』だけ……しかも、その半分だけを授業で読んで、全編を読んだつもりになるというのは、あまりにもったいない。
確かに、『下』だけでも十分に面白い。でも、どうせ学習するなら、生徒には全編通してこそ、の面白さに触れさせたい。
時間と教科書の制約の中で、教師としては、どうやったら全編の味わいを伝えられるか、と頭を悩ますことになる。その際に、よく採られる手が『書籍を買わせて、上中下、全部読ませてしまう』というストレートかつ乱暴な方法だ……今回は俺も例にもれず、そうさせてもらうことにした。
先週までの中間テストが終わり、12月初旬の期末テストまであと1ヶ月。うちの高校では、3年生は1月以降、受験準備期間となり、通常の授業がわずかしかない。だからこれが3年の教室で扱う最後の単元になる。
……ふぅ、と大きく息をついた。
春になれば、とつい考えてしまう。
春になれば、また新しい生徒を迎え、きっと、授業もまた1年生をメインにもつことになる。羅生門や、数々の評論や、短歌や詩を一緒に学習し、生徒たちが少しずつ大人になっていく姿を見守る。
新しい学年、新しい生徒との日々……。
いつの間にか、教材研究の手が止まってしまっていた。
今預かっている担任生徒たちとの授業は、実質あと1ヶ月……。
違う。本当に気にしてるのはそこじゃない。
……円城の顔が浮かぶ。
彼女をどうするべきなのか……と考えが進みそうになるのを、愚問だ、と切り捨てる。
彼女は優秀な生徒だ。きっと受験も乗り切って、立派に進路を決めて卒業していく。春からは、彼女には新しい生活が待っている。大学生活で、たくさんの出会いを経験して、もっともっと魅力的に成長していく。
そこに、俺の出張る余地など、あるわけない。
教師をしていると、たまに、なんでこの先生に、こんな素敵な相手が……というカップルを見る。当人が幸せなら、外野がそんなことを考えるのは野暮だ……というのはわかる。みんなそれはわかっているのだが、それでもどうなのかねぇ……と周りから噂されてしまうくらい、バランスがねぇ……というケース。
そんなとき、事情を聞くと往々にしてあるのが、元教師と教え子によるカップルだったりする。広い社会で、魅力的な異性と出会う前に「教師という立場で、教え子に恋をさせた」……そんな、意地悪な言い方をする人もいる。
大人として、教え子にそんな恋をさせていいものだろうか?と思っていた。
少なくとも、自分がそうなるとは思っていなかった。
……だから、そうならなくていい。
俺は、3年生全員を笑顔で送り出す。
授業で、ホームルームで、伝えたこと、教えたことは覚えていてほしい。
でも、俺自身があの子たちの中に残ろうなんて、おこがましい。残すべきは教育そのものであって、俺という個人じゃないはずだ。
あらためて、美幸の顔を思い出す。彼女との間にあったこと。傷付けた人。償えない罪……忘れてはいけない。
――俺は、あの子たちの中に残っていい人間じゃない。