2 美幸の記憶
文化祭から一ヶ月以上も経ったのに、気持ちはずっと晴れない。明けない梅雨にでも戻ったように、重さが身体にまとわりついている。
原因は、十分すぎるほど、わかっている。美幸という名前。
――本当に、美幸が学校に来たのだろうか。
なにかの間違いでは……と流れかけた思考は、ただ都合の良い想像に過ぎない。ミユキという名前、俺に会いに来たという事実、昔の知り合い……どう考えても、あの美幸に間違いない。
廊下でデジャヴのように感じた後ろ姿。やはりあれは美幸だった。わざわざ創作部に訪ねてきて、飛田先生に案内まで頼んで、俺のところへ来ようとした。
――だとしたら、目的はなんだったのか。
美幸とは、この何年もの間、年に一度顔を合わせるだけの関係を続けてきた。顔を合わせて、ただ一言、二言、言葉を交わすだけの関係。そこに笑顔はない。
二人でどんな顔をしていいのか、いまだにわからない。微妙な緊張感と、切なさと……もしかしたら疲れを感じながら、時間を共有する。それが、美幸と俺の今の関係だ。
年に一度の日まで、まだ何ヶ月もある。
このまま、何もせずとも、またあの場所で会えるだろう。なのに、彼女はなぜ、今来たのか。
連絡先をスマホの画面で見ながら、また答えの出ない問いを考える。
電話をかければ、事情はわかるのかもしれない……それでも、自分からかけるふんぎりは、なかなか付かない。
◇
「もうすぐ中学生だね」
古い記憶の中にある美幸は、にこにこと笑っている。
中学の制服。セーラー服に、白いリボン。
いつの間にか近所にいて、いつの間にか、俺に話しかけるようになっていた。きっと、小学6年生になるまでのどこかのタイミングからだった。
俺は、小学6年生の途中まで、記憶が薄れてぼんやりしている。
だから、彼女の記憶は、もうすぐ中学生……そんな時期から先にある。もっと古い、小学生時代の記憶を手繰ろうとしても、茫洋とした白い霞が記憶を覆ってしまう。
理由はわかってる。きっと、母と過ごした……楽しく思い出せる記憶が、その頃からなくなった。今でも母を思い出そうとすると、記憶が白い霧に閉ざされる。
ずいぶん後になって、俺は小学5年生で母と死別した、とはっきり理解した。たぶん、母が亡くなった直後も、一通りの事情は聞かされたはずだ。でも、俺の脳は、リアルタイムで見聞きした母の死について、それに連なる記憶とセットで思い出すことを拒否したらしい。
母の死の前後で、父も大きく変化した。ずっと古い、おぼろげな記憶の中の父は、家族思いで優しかった。母が入院してからも、時間を作っては俺をつれて見舞いに通った。
「祐司、早く元気になれるように、母さんを応援しよう」……そんな言葉がかすかに思い出せる。
でも、俺が小学校を卒業する頃には、家に帰るタイミングが不規則で、ときどき、見慣れない女性と帰ってくる父親になっていた。俺も邪魔にならないよう、部屋でヘッドホンを被り、時に散歩に出た。ちらりと見る父の顔は……子供の目にも、幸せそうに見えなかった。
◇
中学生になった頃、少し酔った父親に言われた。
「……祐司はほんとに強いな……コツでも教えてくれないか」
きっと父は怖くなっていた。だから換えの利く関係ばかりで隙間を埋めた。
それに付き合った女性たちも、父と同様に、何かを埋めようとしていたんじゃないかと思う。
うちに上がって酒を飲んだり、泣いたり、少年だった自分の前で泣き出したり、時に妙な絡み方をしてきた女性たち……不幸せそうな他人を見ていると、それが当たり前に思えてきて、ほっとした。
同時に、そんな感覚の自分に不安を感じて、できるだけ一人の時間を増やした……本を開いては、答えを探すつもりで読みふけった。
――なぜうちは、自分はこんなことになったのだろう。
沈黙の中に、自分を沈めるのは、海の底のようで楽だった。
そんな俺に声をかけてきたほぼ唯一の存在が……美幸だった。
「また眠そうな顔してるねぇ……ちゃんと寝られてる?本読みすぎると、目悪くするよ?」
あの頃は彼女の方が背が高かった。顔を合わせる度に、少し交わす他愛もない会話。ときに頭をわしわしと撫でられて、ただでさえ落ち着きのないくせ毛をぐしゃぐしゃにされた。
「美幸はすぐにそうやって……」
ぶつぶつ言いながら、髪の毛を手ぐしで梳く。
いっつも構ってきて、ほんとにおせっかいだ……そう口で言いながら、彼女と顔を合わせない日があると、物足りない気分になった。
やがて、中学生になった俺は、入学早々、自分から手を挙げて図書委員になった。放課後は図書室の住人でいようと思ったからだ。
2年生の図書委員に美幸がいるなんて、委員になるまで知らなかった。