1 残り時間
2019年 11月1日(金)
「来週からは、夏目漱石のこころに入ります……みんな、先々週から言っておいた、通して読んでおく宿題はやってあるかな」
やべ、忘れてた。大丈夫でーす。今日から読まないと……。
クラスの中がざわつく。
ほんのすこし、イラっとした。
センセイの課題をやってこないなんて、私ならあり得ない。
課題をやってこない不届き者なんて、ほっといたらいいのに。
「ここから先は、こころの授業が続きます。予習で読んでおいてもらわないと、置いてきぼりになるので、まだの人は来週までに必ず読んでおいてください。それでは、号令お願いします」
日直の、起立、気をつけ、礼――。
授業が終わった……また、残り時間が減ってしまった。
わかっている。これから始まる最後の単元、その授業もあと一ヶ月ほど。
三学期は、ほんの少ししか授業日がない。
高校生活は、もうすぐ終わる。
わかっている。もうすぐ私は、センセイの生徒じゃなくなる。
卒業証書を受け取って、校門を出ていく。
受験勉強も、とっくに佳境に入っている。
勉強自体は嫌いじゃない。
このまま順当に準備すれば、それなりの結果は出るだろう、と進路指導部の先生から言われているし、模試の結果も良好だ。きっと春になれば、大学に新入生として私は通う。新しい生活を始める。
新しい生活が始まったら、高校時代の生活は……過去になる。
わかっているのに。
ふとした瞬間に、それでもどうしようもない寒さに襲われる。足下が突然崩れて、身体が落っこちていくような。座り込んでしまいたくなる……私はどこにもいきたくない。
その後にくる気持ちは、焦り。
残りの日数、残りの時間数、何度も数えた。
数えても気持ちが焦って、苦しくなるばかりだとわかっているのに。
私は、いつからこんなに愚かになったのだろう。
いつも強い子と言われて、頼られて、褒められてきた。
本当の私はそんなに凄くない……そう反発する気持ちもあったし、態度にも出した。でも、周囲から認められることで私は脆い自分を保ってきた。どうにか、なんとかやってきた。
最初から賢くなんかなかった。意地っ張りで、不器用なだけだった。
そんな私のバリアは、この3年ですっかり消えてしまった。
――ずっとセンセイと一緒だったから。
1年生の春、私は本当に愚かだった。
自分がやったことの収拾が付かなくなって、怯えた。手を差し伸べてくれたセンセイにすがってぼろぼろ泣いた。誰かの前で心がほどけてしまうことがあんなに恥ずかしくて……それを受け止めてもらえることがあんなに幸せだと、知ってしまった。
その年の7月7日、七夕はずっと忘れない日になった。
私の一大決心の日。
ネットに、センセイとお付き合いする、と書き込んだ。
叱られたらどうしよう……内心はびくびくだった。でも、センセイはあきれ顔で、あの優しい目を向けてくれた……あの日から、私は「先生好きの変な子」になった。
……幼なじみの琴美まで、センセイを好きになったのはちょっと驚いたけど。相手がセンセイじゃ仕方ない。でも、琴美にだってこれだけは譲らない。
センセイが顧問をする創作部で、部長になっていっぱい活動した。笑顔を見れば何も怖くなくなった。
励ましてくれれば、なんだってできた。
でも……センセイがいない時間、私はどう生きてたんだっけ?
毎日会えなくなったら、私、どうなっちゃうんだ。
きっと来年から新入生に優しくするんだろうな。
なんで私じゃないんだろう?
このまま終わるなんて、イヤだ。
私はセンセイの、もっと奥に、もっと中に、入りたい。
◇
はぁ、とため息をついた。
鞄を開ける。上側に付いた薄型のポケットから、一通の封筒を取り出した。真っ白な封筒に、私の住所と名前。裏に、差出人の名前。
―― 鷹取美幸
この3日間、鞄の中に入れたままにしている。
文面は、すっかり覚えている。
円城咲耶様
文化祭で創作部にお邪魔した鷹取美幸です。
あのときのお話、詳しく聞く覚悟はありますか?
文面はそれだけ。最後に彼女のメールアドレスが書かれていた。
「あのときのお話」……それだけで、心臓が早鐘を打つ。
――「私と祐司は、人を――――」
殴られたみたいな衝撃だった。
聞き返して確かめることもできなかった。
背中を向けた美幸さんを、ただ見送ってしまった。
――「……彼女、他に何か、言ってたか?」
――「……昔の……知り合いです、と」
私は嘘をついた。あの場で本当のことを口に出していたら、きっと何かが壊れた。怖くて仕方がなかったから、あれは本当なの?――そう思いながら彼の……センセイの顔をじっと見つめた。
センセイの目は、はっきりわかるほど……怯えていた。
彼女が何かを言った可能性……その可能性がセンセイにとってどれだけ恐ろしいことだったか、その目は裏付けていた。
美幸さんは、私に直接連絡をしてきている。私の住所まで、わざわざ調べている。何度もスマホで返事を出すかどうか、迷った。
まだ、迷っている。
終章、開幕しました。
最後までお楽しみいただける物語となるよう、全力で頑張ります。
どうか、最後までおつきあいください。