9 ある日の「舞姫」授業 二
――父は死にたり。明日は葬らではかなわぬに、家に一銭の貯だになし。
「少女エリスが泣いていた理由は、父親が死んだのに、明日の葬儀の費用が用意できない、ということだった。しかし、往来で人に泣く声を聴かせるのはよくない、といって彼女の家に案内させる豊太郎の行動はどうなんだろう」
生徒がクスクス笑う。「完璧ナンパだ」「いきなり自宅って」とひそひそ話す声が聞こえる。
冒頭からここまで続いた地味な豊太郎の独白から、エリスの登場で華やかになる物語に生徒も乗り気になってくる。
「エリスと連れだって彼女の家に帰ると、老婆が出迎えてくる。
エリスが家に入ると、老婆にぴしゃっとドアを閉められて、なんとも愛想がない。ところが、しばらく待つと、その無礼を丁寧に謝りながらこの老婆が家に招きいれる。ここからが面白い」
――立たば頭の支ふべき処に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一、二巻と写真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価 高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帯びて立てり。
「奥の部屋の様子だ。部屋にはテーブルとベッドがあって、綺麗なクロスに書物、場違いに高価な花束。そして、この部屋に立っているエリスが恥ずかしそうに言う。――許したまへ。君をここまで導きし心なさを――と。
彼女は、劇場のオーナー、シャウムベルヒが、葬式代を貸すかわりに「身勝手ないいかけ」をしてきていると涙ながらに訴える」
ただの家の中の描写ではない。老婆の感覚とエリスの違い、家の調度が含んでいる意図など、読み取るべきポイントは多い。
「まず前提にあるのは父親の葬式が明日に迫っているということだ。つまり、明日の葬式までに、エリスはお金を借りる、というミッションを完了しなければならない。劇中の時間がすでに夕方であることは外の場面で語られていた、ということは、だ」
一息入れる。
「はい、推測できることをお願いします。並木くん」
いきなり指名。
集中力の切れかかっている――しかし、完全に落ちているわけではない生徒を狙う。
「えと……シャウムベルヒからは、今夜中にお金を借りないといけない?」
「いいねぇ!――ということは、どういうこと?」
「これから、シャウムベルヒと、会う?」
「ますますいい。その通り。さらに考えてみよう。この部屋にあるおしゃれなテーブルや、花束は何のためだ?貧しい家が、意味もなく高価な花束なんて飾るだろうか?」
「え…」しばらく考える並木くん。
10秒ほど待ってみると、しばらく考えた末に、一瞬、はっと表情を変えた。しかし、そのまま黙り込んでしまった。
「並木くんはわかったようだが、無理強いするとセクハラになるから先生が言ってしまおう。つまりこの部屋はエリスをシャウムベルヒに抱かせるためのセットなんだ。花束やテーブルクロスでお洒落な部屋にしているのも、この老婆が用意した「愛人部屋」としての演出と考えればしっくりくる」
生徒が少しざわつく。
むき出しの性が、露骨にこそ描写されないものの、読み取れるように書かれている。生々しさにうぇっとした女子が何人かいるが仕方がない。
そもそも、お子様に配慮して書かれた作品ではないのだ。
「この部屋に立たされたエリスの恥ずかしそうな――許したまへ。君をここまで導きし心なさを――の意味がこれでわかったろう。
豊太郎は一目ぼれしたエリスを純粋に助けるつもりで訪ねてきたが、この老婆は早合点して、愛人部屋に連れ込んだ。エリスは、老婆によって、ベッドの横に立たされているんだ。
エリスが感じている「羞」は、部屋の様子から、老婆の考えを豊太郎が読み取ってしまうことに対する恥ずかしさだ」
エリスは貧しい家の娘ながら、「父親がしっかりした人だったため」、売春などをせずに生きてこられた、という事情が後の段で語られる。作者のエリスを穢したくない、と思う心理が反映している。
――「我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金を析きて還し参らせん。縦令我身は食はずとも。それもならずば母の言葉に」――彼〔エリス〕は涙ぐみて身をふるはせたり。
「この老婆、エリスのおかんだったのか!とここでわかるわけだ。
エリスの【安い給料から、分割でお金をお返しする】という言葉の最後には【さもなくば、母の言葉に(従うしかない)】――という言葉が続いている。母はさっさとシャウムベルヒの愛人になって、お金を受け取るようエリスに言いつけていた、ということだ。貧困のためとはいえ、実の母親にそんな言いつけをされるのは……。
豊太郎は当時高価な品だった懐中時計を、さっとエリスに渡して、質屋で現金にするよう指示する。そして、この日を境に、恩を返すため、エリスは豊太郎の家に訪れるようになる。
いよいよ本格的にラブストーリー開幕だけど、今日はここまで。号令お願いします。」