19 追加講義 「橘麻衣」
「君の気持ちが不安定になったきっかけは、結城にきた特待生の話だったんじゃないか?」
地方の美大から、学費免除で結城を迎え入れたい、という話だった。一般的に、美大の学費は4年間で600万円を超える。学費の工面の難しさから、進路に悩んでいた結城には大きなチャンスだった。
「……あれで先輩が地方に行って寮に入ったら……本当にお別れになっちゃうって。先輩の家、余裕ないって知ってるし、あんなチャンス、逃す手ないですよ。でも俺、小学校から、十年以上もそばにいたんです……何も言えずにお別れって思ったら……それが当たり前だ納得しなきゃって自分と、イヤだ我慢できないって思う自分がいて……もう、心が暴れまくって……」
「美術部の先輩たちに、ぶつかったのも……」
「結城先輩に嫉妬して、ちゃんと実力で勝とうとしない他の先輩たちには前からずっとイライラしてたんです。今回の話が出て、先輩たちがふがいないから、こんなふうに結城先輩が連れて行かれちゃうんだって……八つ当たりですよね……もう先輩たちも卒業なのに……悔しいのも、当たり前なのに……」
結城が遠くへ行ってしまう、という話が現実になって、麻衣の心はバランスを崩した。
どうにかこうにか、ごまかしながら、それでもそばにいられた日々が、これで本当に終わってしまう。
だから、せめて結城の引退する文化祭まで精一杯頑張ろう、と思って準備に打ち込んだ。部誌の作品にも、長年抱いてきた結城を守りたい気持ちを込めた。
そんなとき、あの事件が起きてしまった。
「先輩は特別で、何があっても大切にしなきゃいけない……それが、ずっと俺の使命だったんです。なのに……」
麻衣が言いよどむ。口に出したくない気持ち……それが、あの過剰な暴力の源だ。
ずいぶん長い間が開いた後。
麻衣は、小さな声で、言葉を繋いだ。
「……事件のとき、犯人のこと……俺……心のどこかで、うらやましいって」
思春期の恋としては、決しておかしいことじゃない。でも麻衣は「使命」から逸脱した自分の感情を強烈に否定した。
「……自分が醜くて……何度も相手を殴って……全部消え去れって」
「……そして、結城に触れられなくなった」
「こんな穢らわしい手で、先輩に触るとか……もう、ダメなんだって。授業の山月記で 『猛獣に当るのが、各人の性情だ』 って言葉、ありましたよね。あれ授業で聞いたとき、俺、すごく刺さって。俺の中にも、ヤバいのがいるって。事件起こしたとき、ああ、ついにコイツが外に出ちゃったって……」
抑圧されて暴れ出した、当たり前の欲求。
「君が感じた気持ち自体は……否定しなくていい。心が正常に成長しただけだ」
「……こんな……いやらしい気持ちが、正常ですか」
「相手と触れあいたい、というのが形を変えただけだ。ときに支配したい、という衝動も……その一部といえる。君の場合、小さな頃から重ねてきた好意が、一人前の恋心に育っただけだ……何も、おかしくない」
「そう、なんですか、ね……」
最終的な答えを他人が示せる話じゃない。
少し、話題を変える。
「さっきの……山月記の獣なんだが……あの獣をどう読むか、ということについては、別の意見もあるんだ。一概に否定すべき存在ではないのでは、とね」
「……どういうことですか?」
「君はあの作品で、獣……虎の描写に、どことなく勇壮さや、伸び伸びした自由さを感じなかったか?岩石を軽々と跳び越えて、ラストシーンでは月下で勇壮に、美しく咆哮する。そして中島敦はおそらくそれを、自覚して書いた」
作品中、人間としての李徴はうじうじと、肥大化した自意識について、自分の愚かさについて語った。虎への変化は確かに、人間社会での彼を破滅させた。
「李徴の自嘲……自分の弱さ、愚かさを笑っている場面でも、その裏に、虎となった己を誇るかのような表現がほの見える。それはきっと、自分の全てを賭けた一途な生への自負――ここまで、自分を滅ぼすほど一途に生きた、という誇りだ」
「自分を滅ぼすほど、一途に、生きた……」
麻衣がつぶやく。
ゆっくりと、言い聞かせるように、話を続ける。
「……君が自分をどう評価しようと、結城が部活にいられる時間は、もう終わる。どうやって送り出す?自分は醜いから、穢らわしいから、と彼女から目を逸らして、最後の舞台で一人にするのか?
気持ちがどうあれ、獣になってまで君は一途に彼女を守り切った。傷つきながら彼女を守った君を、気持ち悪いだけなんて、誰が思うだろう。あとは自分でそれをどう受け止めて――最後を、どう締めくくるか、じゃないか?」
――最後……その意味を考えれば、結論は出るはずだ。
麻衣は再び黙り込んだ。
目をつむり、 大きく、長く息をした。
「……俺は……先輩を守りたくて、ずっと、ずっとそばにいたんです」
麻衣は、まっすぐ前を向く。
「最後に先輩をサポートするのは……やっぱり俺でありたいです。先輩を守る獣として……最後まで」
目にうっすらと涙を浮かべ、麻衣が小さく微笑んだ。
◇
生徒指導室を出ようと腰を上げたタイミングで、麻衣が言った。
「……先生、舞台が終わったあと、俺、先輩に気持ちを伝えたいと思います」
「……結果を受け止める覚悟があるなら……いいと思うよ」
麻衣の目から険しさが消えて、優しい色になる。
舞台の練習、仕上げてきます――そう言いながら、麻衣が背を向けてドアに手を伸ばす。
その背中が、ぴたり、と動きを止めた。
「……先生、ありがとうございました。でも……」
「ん?」
「やっぱり俺、先生のこと、嫌いです」
「……そうか」
麻衣が振り返る。目が冷ややかだ。
「結城先輩に、ちゃんと返事をしないから、じゃないですよ?」
――?
「結城先輩に向ける顔と、部長に向ける顔が違うからです」
麻衣の目に、軽蔑の色が混ざっている。
「先生、やっぱ自分じゃ気付いてないんですね。部長にだけ、見せてる顔が違うんですよ。その顔を見るたびに、結城先輩がどれだけ寂しそうな顔をしてるか……ほんっとに……」
次の言葉がわかってしまった。
「ヒドい男ですね。俺、今度は先生を、ぶん殴りに来るかも知れませんよ」
指導室のドアが、ばたん、と閉まった。