8 神田先生の不穏な休暇
職員室に戻り、煮詰まったコーヒーメーカーからマグに継ぎ足す。
画面には作成中の期末テストの問題が表示されている。別にまだ問題を仕上げるには早いが、空いた時間に少しずつでも進めておくと後が楽だ。ただでさえいつ急な仕事が増えるかわからない。
舞姫の本文を教科書会社から購入した資料CDを使って取り込み、ワープロソフトに貼り付ける。本文で出題したい部分に傍線を引いていく。
――「今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。」
舞姫の主人公、太田豊太郎は、ドイツの大学で学ぶうちに法学から歴史や文学に傾倒してしまう。それまでイエスマンだったゆえに上司から可愛がられていた彼は、次第に立場を悪化させていく。
そんなときに出会ったこの貧民街の少女がエリスだ。劇場で踊り子をする彼女との出会いは、豊太郎の立場を決定的に悪化させる。
寺門――まだ、教会という言葉が普及していなかった時代だ。ここでの「寺」はキリスト教会を指す――の扉の陰に隠れて、声を殺して泣く十六、七歳の少女――助けてしまうわな、それは。
――我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
一目見た瞬間、その視線に心の底まで射抜かれた豊太郎。詩人ではないから描けない、といいつつも、延々と彼女の美しさをしつこいまでに語っているところが面白い。
要は、一目ぼれだ。
豊太郎は、電撃に打たれたような出会い、をしてしまった。
問……「詩人の筆なければこれを写すべくもあらず」について、
「これ」は何を指しているか。簡潔に答えよ。
答……少女の顔の様子(美しさ)
つらつらと問題を作りながら、頭の半分で結城琴美のことを考える。
気になっていることがあった。
美術の神田先生が今日欠勤していることだ。25歳と若いが、熱心な指導をしてくれる先生で、生徒からも信頼が厚い。
美術科にはベテラン教諭の山川もいるが、科の仕事を実質的に回しているのは、若手の神田先生だ。神田先生は美術部の副顧問を務めるが、実質は主顧問といっていい。そのため、部員たちも質問や指導は山川より神田先生のところへ受けにくる。
先ほどから山川に敬称をつけていないのは、わざとである。
あまりに仕事しない教師に対して、先生、と呼ぶ気になれない。我ながら、心が小さいとは思うが、面と向かっては「先生」をつけて呼んでやっているのだから許してもらいたい。
さて、その熱心な神田先生が今日に限って学校を休んでいる。職員室で他の先生方に聞くと、昨日の職員会議からすでに姿が見えなかったという。
事務室で少々聞き込んでみたところ、昨日午後3時以降について、神田先生の出勤データは休暇扱いになっていた。これが正しいなら、神田先生は6時間目の授業終了とほぼ同時に学校を出たことになる。
――結城に関係してる?
テスト作りを進めながら、考える。
神田先生の休暇は、午後5時頃になって事務室へ電話連絡で申し出てきたものだという。普通、休暇を申請するなら事前に行う。
そもそも3時まで授業をしていた神田先生なら、そのまま職員室で申請して帰ればよいだけだ。よほどの急用でないかぎり、教頭や校長に一言もなく職場を離れることはない。
――休暇願を出すことができないほど緊急な事情があったか。
そもそも、休暇をとることを想定していなくて、後から仕方なく休暇にした、か。
どちらにしろ、神田先生の行動にはなにやら不穏な感じがある。