21 エピローグ 二人の姫
2月5日(火) 午後5時30分
珍しく、終業のチャイムですぐに学校を出た。
電車のつり革を掴んで、目を閉じる。
異動はしなくて済んだ。
これで4月からも、この学校の先生でいられる。
でも、この胸の重さはなんだ。
自分は、どんな顔をしてる?
電車の中の閉ざされた空間ごと、海の底に沈んでいるような気分になる。
――無様で、お似合いじゃないか。
電車を自宅の最寄り駅で降りて、重い足取りで改札を抜けた。
バス停とタクシー乗り場を一応備えた、こぢんまりしたロータリーに出る。
「辰巳、迎えに来ました」
アイボリーの上品なクーペの前に、シャーロットがいた。
◇
「日本の左車線には、まだ慣れません」
二人乗りの、小ぶりなクーペ。ハンドルは、シャーロットが握っている。
「辰巳にせっかくプレゼント、と思ったのに……」
昨日の、咲耶の帰国のことだ。
先週末の夜、シャーロットと話をしたあとのことだ。彼女は家に帰ってアメリカの咲耶に連絡を取り、何があったかを洗いざらい話した。俺が異動を受け入れて、まもなくそれが本決まりになることも。
ろくに説明もないまま、なしくずしに留学を伸ばされ、周りに噛みつきまくっていたという咲耶は、電話口で事情を知ると、当然のごとく激怒した。シャーロットはすぐ「余裕でファーストクラスに乗って往復できるくらいの」大金を咲耶の口座に入金。咲耶は即日飛行機のチケットを買って日本へ舞い戻り――校長室のドアを破壊した。
車は再び街中へ入っていく。
シャーロットは日本の慣れないであろう道を、カーナビの指示どおりにゆったり走った。やがて、数台止められる駐車場のある喫茶店に車を乗り入れた。
シャーロットの先導で店内に入る。店員に「待ち合わせなので」と言って奥へ進む。
一番奥のテーブルに、咲耶がいた。
こちらに気付いて、すぐに立ち上がる。
「センセイ……どうして」
「咲耶、このまま今夜、私とだけデートして、アメリカに帰る、はないでしょ。ちゃんと、辰巳と話さなきゃ」
シャーロットが微笑んだ。
◇
4人掛けの席で、咲耶と向き合う。俺から見て左横の席にシャーロットが座った。
「センセイ――ちゃんと、話してくれませんか」
「……うん」
そうは言ったものの、どう続けていいかわからない。
それは、きっと咲耶も同じだ。
「あーもー、見てられません。辰巳、ちゃんと話さないと。どうして、お付き合いも結婚もしないのか、ほら、咲耶にはっきり言ってあげて」
一つ息を吸い込む。
「……俺には、恋愛する資格がない」
咲耶の目が、まっすぐに見つめてくる。
その目が、どういうこと?と問いかけている。
「俺は以前、ある人を不幸にした……それで……償わなきゃって。誰かと一緒にいようとしちゃいけないって思ってる」
咲耶は、俺の言葉を理解しようと……頭の中で咀嚼しているように見える。
しばらく経ってから、口を開いた。
「……センセイ、私だから、ダメってことじゃ、ないんですね?」
「円城だから、とか、誰だから、って話じゃなくて……強いて言えば、俺だから、ってことになると思う。誰とどんなことがあったかは……言えない。そこは、秘密にさせてほしい」
きっと、今の俺は「痛ましい顔」をしている。
だからなんだろう。咲耶の瞳は優しい。
まるで……俺の痛みを掬おうとするかのように見える。
――都合がいい。思い込みだ。
「センセイ……わかりました。今は……そこまでで」
シャーロットが、ふわっと笑って割り込んだ。
「かぐや姫は、私だけじゃなかったね……」
きょとん、とした咲耶に構わず続ける。
「ねぇ、辰巳。ちょっとスマホ見せて」
なんだろと思いつつ、言われるままにポケットから取り出す。
ロックがかかっているから、中身はいじれないはずだが。
スマホを手にしたシャーロットが、手の中でためつすがめつ。
やがて、クスクスクスと笑い出した。
「咲耶、私が辰巳の家におじゃました夜ね、もうちょっとで落とせそうだったんだけど、ぎりぎりでお断りされちゃって。女として大恥かかされちゃった……辰巳は酷い男だよぉ」
咲耶の視線が、ぎん!と音を立ててシャーロットを射貫く。
その視線を楽しむように受け止めて、シャーロットが続ける。
「いい雰囲気だったのに、他の女のことを思い出したんだね。私を押し戻して家から追い出したの……ほんとに酷い男。でも、仕方ないかなー。コレ見て、思い出しちゃったんだもんね?」
シャーロットは、スマホについたアクセサリをこちらに掲げて見せる。
竜の絵を固めた、コイン型のレジン。
「辰巳の竜を取り巻いてるのは桜……咲耶だもんね。辰巳を包んで守ってる。いやぁ手強いわけだ」
ぼぼぼん。
咲耶の顔から火が噴いた。
「ちょ……やめてシャーロット」
「……咲耶、きっとあなた、自信もって大丈夫よ」
◇
2日間の一時帰国の後、咲耶は3月まで留学を続けることにして、アメリカへ戻った。
俺の異動を撤回し、謝罪した鉄治氏の顔を立てたわけだ。咲耶のことだ。後輩のために、留学事業そのものを頓挫させない、という気遣いもしたに違いない。
父親からは、今後一切、邪魔をしない、という確約を取ったと聞いた。とどめに「懲りずになんかしたら、録音、公開するからね?」と言い渡してあるそうだ。