14 虎と辰
同日 午後8時
自宅の近くを歩く。
この時間はすっかり冷え込んで、コートを着込んでいても、寒さがしみる。
最寄り駅から幹線道路を10分少々歩き、一つ曲がって車が一応すれ違える程度の通りへ入った。もう4ブロックほど歩いて、角を、裏路地に向かって左に曲がれば、ほどなく自宅に着く。
さっさと、家に入って熱いコーヒーでも淹れよう……そう思って、小走り気味になったところで、声がした。
「こんばんは。辰巳先生」
道に停めた黒塗りの外車の脇に、男が立っていた。
40代くらいに見える。比較的長身の自分よりも背が高く、スーツの下にしっかりと引き締まった筋肉があるのが、立ち姿でわかる。
射るような強い瞳。後ろに向けてなでつけ、顔をしっかり出した髪型。強い意志を感じさせる顎のライン。
「どちらさまですか」
この雰囲気……まさか、と思った。
「突然、失礼します。円城鉄治と申します」
真っ直ぐに射竦めてくる視線……さすが親子だ。似ている。
「娘が、いつも、大変お世話になっているようで……先生、少し、お話しませんか」
円城氏は後部座席のドアをあけ、乗るように指示してきた。
全く断られるつもりのない、確信に満ちた動きだった。
◇
車内は良くヒーターが効いていた。
後部席に並んで座る。
「お仕事からの帰りで、お疲れでしょう。付き合わせて、申し訳ない」
円城の父、鉄治氏はそう言って、軽く会釈した。
「いえ……」
軽く流して、出方を伺う。
たっぷり10秒近く空白があって、ようやく鉄治氏が口を開いた。
「辰巳先生、先生は娘のこと、どう思ってらっしゃるんですか」
「どう、とは?」
「いえね……娘がずいぶんとあなたのことを気に入ってるようで。きっと、ご迷惑をおかけしてるだろうと。我が家は、思い込みの強い人間がどうも多いものですから」
「いえいえ、そんなことは……」
途中ですかさず、鉄治氏の通る声が遮る。
「ベタベタされたら、先生だってお困りでしょう」
声のトーンが変わった。石臼で雑穀を挽きつぶすようだ。固くて、押出しの強い声。
「そうしたことへの罰則も、一層厳しくなっているご時世ですし、誤解されるようなことがあったらそれこそ……先生はクビにだってなりかねないとか」
――白々しい。
「あらぬ誤解を受けないためにも、先生も早くご結婚などされたほうが、よろしいのではないですか」
「相手もいませんし……」
鉄治氏は、驚いた顔をして見せた。
「そうなんですか?辰巳先生は、新しくいらっしゃった補助教員の方とも、とても親密と聞きましたよ。ご結婚など、考えていませんか」
「あれは、ただの誤解です。泥酔した私を、介抱してくださっただけです」
「……そう、なのですか」
また、沈黙が戻ってきた。
数瞬おいてから、鉄治氏がだしぬけに言った。
「辰巳先生、ある少女の話を、聞いてもらえませんか」
「誰の話です」
「とても優秀な、アメリカから来た女の子です。少々事情がありまして」
「……伺います」
先ほどまでの、追い立てるような雰囲気はなくなっていた。その「女の子」についてはきちんと話すつもりらしい。
「先生は、かの国の教育制度はご存じですか」
話は、シャーロットの生い立ちについてだ。
彼女はアメリカのバージニア、ブリストルの片田舎で生まれ育った。実業家の親譲り、いやそれを超えた優秀さで、16歳の若さで大学進学を果たした。
日本よりも、優秀な子には、個々に相応の教育を与えるべき、という考え方が強いお国柄だ。かの国ではそこまでレア、というケースでもないという。
「そのこと自体は、喜ばしいことでした。ただ、問題は、心の方でした」
「心、ですか」
「表だって、何か病気があるとか、そういう話ではありません。ただ、彼女は忘れ物をしてしまったようで」
今ひとつ、話が見えない。
「彼女の能力を見いだしたのは、学校の先生、日本で言えば、高校の先生にあたります。シャーロットは彼が大好きで、恋をした。年齢は日本でいう一回り以上離れてましたが……彼女は大好きな彼――先生の提案を受け入れて、飛び級で大学へ進学しました」
シャーロットは、期待通りに優秀さを発揮した。19歳で大学も卒業し、電子工学やAIの分野ではシリコンバレーでもそれなりに知られた研究者になった。ただ、地元から離れ、高校生活そのものを飛び越えてしまった彼女は、先生と滅多に会えなくなった。
「それでも、シャーロットの心は先生から離れませんでした。時差が3時間ある長旅でも、地元に帰省すると、先生の顔を見に行くことは欠かしませんでしたし、先生もシャーロットをとてもかわいがっていました。ただ……」
先生には、秘密があった。
残り時間が長くない、という秘密。
若さ故に病魔の進行も早く、シャーロットが大学を卒業してほどなく、あっけなく逝ってしまった。
「後でわかったことですが、相当な長患いで、どうにか抑えながらの生活だったそうです。末期になってもできる限り薬で抑えて、学校も事情を汲んで配慮した勤務をさせていた。だから、シャーロットは本当に最後の最後まで、騙されていた……なにも知らないままでした」
あの、テンションの高いシャーロットからはギャップのある話だ。
「ある日、彼女の務める研究室に電話が一本入って……彼女は、それからしばらく、酷い状態……彼女を知る人によれば、完全に壊れていたそうです」
そのときからだ、という。
シャーロットの人生から真っ当な「恋」という概念が抜け落ちたように見えると。
「半端に断ち切られた少女の恋が、未完の映画のようにループしているのではないか、なんて、私は思います」
鉄治氏は淡々と話す。
今ひとつ表情が読み取れない。
「なぜ、私にそんな話をするんです?」
「君のことを、シャーロットがずいぶん気に入ってる様子でして。きっと君はシャーロットの行動に不可解を感じたでしょう……彼女に振り回されたのではないですか?」
――違和感。
この人はシャーロットについて詳しすぎるし、親しすぎる。
そして、彼女の異常なほど巧みな日本語……。
「……シャーロットのミドルネームのEは……母方の旧姓……ですか?」
鉄治氏が、にっこり微笑んだ。
「咲耶から聞いていたとおりですね。やはり察しがいい。シャーロットの母親は、私の姉……日本人です。なので、シャーロットは私の姪です」
――シャーロット 円城 ウィリアムズ――
「辰巳先生、咲耶の話によれば、あなたは心根が本当に優しいと。彼女の事情を知ってしまったら、邪険にはできないでしょう」
「……そのお話があったからといって、行動を変えたりはしないと思いますよ」
鉄治氏の瞳が細まった。
「……そうですか?そう簡単に割り切れる人には、見えません。そんな人なら、きっと咲耶が懐いていない」
「私に、何を望むんですか」
にこやかな瞳はそのままに、しっかりと落ち着いた声で続ける。
「シャーロットと恋をして、家庭を築くなんてどうですか。これは、冗談じゃありません。あの美貌に、心根の優しさでは、彼女もあなたに負けない。叔父として、自慢の姪です。シリコンバレー時代にかなりの財産を築いてますし、年齢の釣り合いもいい」
「本当に、強引なんですね……」
「最高の見合い話を、あなたのはるか上の上司である、教育長が直々にもってきた、と思ってください……意味、わかりますね?」
こういう言い方をされると、カチンとくる。
「私はそもそも、お付き合いや結婚を、しないつもりなんです」
ほう、と鉄治氏が息を吐いて頷いた。
「……君は独身主義者でしたか……そのこと、咲耶は知ってるんですか」
「いえ……話すようなことでもありませんから。教師と、生徒ですし」
「……食えない男だな、君は。父親として……実に腹立たしい」
鉄治氏との間に、冷えた空気が一束、流れたように感じた。
「先生、忠告しますよ。早めに身を固められた方がいい」
「……自分の人生のことです。お気持ちだけ、ありがたく」
今度こそ、ピン、と空気が冷えた。
まずい方向に。
「辰巳先生、窮鼠猫を噛む、という言葉がありますが……猫を噛んだ後、その鼠はどうなった、と思いますか」
「さあ……猫がひるんだ隙に、逃げたのでしょう」
「そういう幸運は珍しい。普通は、猫を怒らせるだけに終わるものです」
返事をする間もなく、鉄治氏が続けた。
「先生を玄関までお送りして」
車はいつの間にか、自宅の脇に止まっていた。