20 追加講義 「円城咲耶」
円城はまず、体育祭で3年生を狙い撃ちにした。実力と傲慢さを示して、わざと目立った。自身こそが憎むべきターゲットである、と広く知らしめた。
並行して、校内で人気の男子生徒三人とたて続けにデートし、その親しげな写真を自分からばらまいて、悪意や嫉妬を盛大にかき立てた。
これをずば抜けた美貌の、1年生にやられたのだ。写真に写った3人の男子には、それぞれ結構な数のファンもいた。ファンの多くは上級生だったが、その女子たちに円城は「先輩たちの憧れの彼など、私なら、3人まとめて落とせる」という痛烈なメッセージを叩きつけたことになる。
しかも、これはただの自爆的な報復ではない。
尾上を苦しめた者たちに嫉妬させるのは、円城自身、怒りにかられての意趣返し、という面もあったろう。だが、そこにはしたたかな計算も含まれていた。
彼女の本当の目的の一つは、学校中の女子からの悪意を自分に集め、結果として尾上の話題から目をそらすこと。
次に、『被害者』としてデート相手に福井真吾を巻き込むことで、尾上千絵との関係を周囲から覆い隠すこと――福井が面談で言ったとおり、円城は「福井と尾上が話をできるように、力になった」のだ。
消極的な悪で人の心をえぐった、姑息な者たちへ。
全てを焼き尽くす円城――炎上姫による渾身の放火テロ。
それは、円城の並外れた器量も手伝って、驚くほど成功した。
だが、引き換えに、必然的に、円城に降りかかった悪意の濁流は、計算外の勢いになってしまった――円城本人が慄き、怯えるほどの勢いに。
「もう、ここが潮時だろう。円城、君がやったことの良し悪しは、あえて問わない。他の先生方にも黙っておく。でも、もう十分だ。ここで謝って、ぜんぶ終わりにしよう」
教員として、マニュアルに沿った仕事……というなら、円城の真意を聞いて共有した上で、考えを改めさせる指導を学校として実施……となるだろう。でも、今回それをしたら……からくりが公になったら、このテロの効果は大きく減じる。
ここまでの覚悟で、友人のためを思って行動できる生徒に、効果的な「指導」のできる大人なぞ、どれだけいるものか……マニュアルなど放置でいい。
円城の瞳は揺れている。
だが、まだ険しい。
「終わりになんて、できません。私は人から恨まれるために、やったんです……これは、私が進んで招いたことです……」
――本当に、この子は……人の気持ちばかり。
「いい加減にするんだ。誰でもない、君自身が、こんなに苦しんで、怯えてるのにか?」
円城をまっすぐに見て、続ける。
「人一倍優しい君が、自分から人を傷付けて、恨まれながら超然と振る舞って……他人の話は後でいい。どれだけ自分を追い詰めた?……まわりじゅうに火をつけた先に、何があった?」
円城は視線を下に落とした。顎のラインにあったかすかな震えを、ぐっと噛みしめた。
「――全部、自業自得です」
「そうはいかない。君は、尾上の過去が蒸し返されたとき、俺に先に謝った。君が書いた、続・羅生門……やるせなさをぶつけて書いたあれの意味も……もっと早く読んで、すぐ、気付かなきゃいけなかった。君が出していたサインを見逃した俺にも責任はある」
――授業の続きだ。
「授業で話したろ。羅生門で、下人は悪を為した。でも、リアルでは、芥川は伯母さんを傷付けられずに、代わりに羅生門を書いた。物語で堕ちるならいい。でも、現実では芥川自身さえ、下人とは反対側――悪を為せなかった」
――問題は、下人側……悪を為してしまった人間の、その後。
「……悪を為して闇に堕ちた人間がどうなるか。羅生門には続編ともいわれる 『偸盗』 という作品がある。完全に崩壊した平安京で、殺人も当たり前になった盗賊団がお互いを裏切る……闇の底の物語だ。芥川は、闇であがき、何かを見いだそうとする人間を描こうとした……といわれている」
「……闇の底で……何か見つかるんですか」
「何も……『偸盗』は書き上がったものの、芥川自身が、酷い失敗作、読み返したくない、と言っている……確かに、読むほどに闇の重さばかりが増す作品だ。結局、芥川は堕ちた底に光を見いだせなかったんだと思う。君は続・羅生門でも、リアルでも、周りを火の海にした。その怒りはよくわかる……でも、本当に大切なのは、燃やしたあと……今、ここから先だ」
円城は黙ったままだ。
でも彼女は賢い。とっくにわかっている。
「一人で闇に堕ちるなんて、もうやめろ。そこには何もない。痛みや後悔しか残らない。だから、もう――戻ってくるんだ」
円城の両手が自然に上がってきて、そのまま顔にあてられた。
ふるっと背中が震え、円城は嗚咽を始めた。
身体を震わせて「なんで、なんで」と繰り返す。
小さな背中に、手をそっとあてた。
「納得いかないのは、君だけじゃない。俺だって、なんでって――思う。少しの悪意、少しの嫉妬……そんな小さな後ろ向きでも、たくさん集まれば人の心をえぐるんだ。だから――」
――辛くても、心はちゃんと前に向けるんだ。
「君は優しい。だから傷つけ返すんじゃなくて、癒せるように。ここでやりなおして……ちゃんと、謝るんだ」
円城が泣き止むまでには、しばらく時間がかかった。
◇
「……ほんとは……怖かった。すごく、怖かった」
「ああ……人から恨まれるって、本当に怖い。でも、実際にそうなってみるまで、わからない。円城、スマホで、君に届いたメッセージを、見せてくれないか」
スマホ、メッセージ、という言葉に円城が小さく、びくりと震えた。
スカートのポケットに入れたスマホをとりだし、ゆっくりした動きでSNSのアプリを開く。そのまま素直に差し出してきた。
――一瞥して、目を瞠る。300件以上のメッセージ……円城に寄せられた悪意と敵意。
何も言わず、片っ端から削除していく。
一瞬、円城がぴくりと手を動かしたが、そのまま俺が操作させるに任せている。
「……私、たくさん、人を傷付けました。だから、そのメッセージもちゃんと読まなきゃ、と思って……でも、胸が苦しくて……」
「読む必要はない。一時の感情で送ってしまった暴言なんて、読まれず消えた方が、送り手にだって救いだ」
メッセージが円城の手元に残っていたところで、彼女を再び追い詰めるか、送り手の責任が問われるきっかけになるか……くらいしか意味をなさない。
削除を終えた。
「先輩たちにも、その先輩たちを好きな子たちにも……みんなに嫌な思いをさせました。きっと、怒ってます」
「そりゃそうだ……だから、間違えたことはちゃんと謝ろう。せめて、デートした先輩たちには」
円城は小さくなる。幼子のように。
「……怖いです」
目からぽろぽろ涙が落ちてくる。まるで、だだっ子だ。
「福井と尾上は、君がしてくれたこと、そこに込めた気持ちも理解してる」
そうでなくては、福井は協力しない。
「それに……君の優しさをわかっている人間なら――ここにも一人いる」
円城の顎が、少しだけ上を向いた。
「センセイも……わかって、くれてる……」
「……味方がゼロってわけじゃないんだ。こんなときくらい、頼れ」
円城が右手の指先で、俺の袖口をきゅっとつまんだ。
「それでも怖いなら、一緒に行ってやる……でも、謝るのは、自分でするんだ」
――円城はゆっくり、でも、しっかりと頷いた。