12 二人の挿話
6月8日(木) 体育祭前日 16時40分 生徒指導室
「俺、尾上とは地元の図書館でずっと前に会ってたんです。俺が中三で、尾上は二つ下なんで、当時は中一……だったんだと思います」
昨日、尾上千絵が退部届を出してきたことを受け、事情を聞きたい、といって練習中に福井真吾を呼び出した。
話を聞いているのは、俺と、尾上から詳しい事情を聞き出した飛田先生だ。バスケ部顧問もしている1年5組の村井先生には、呼び出しだけお願いして、あえて外してもらった。
熱血漢の村井先生は、事情によっては平静でいられなくなる。日向先生が外させた。
部活指導のため、といってそのまま体育館に残ってもらっている。
「中学三年で部活終わったんですけど、うち、両親ともに公務員で帰り遅いし、家にいるとダラけて勉強しないなって。遊んでる場合じゃないって思って、図書館に通って受験勉強してたんです。勉強に疲れたら、ちょっとだけ小説とか読んで息抜きして」
本好きの親の影響か、読書は昔から好きだったという。
「尾上はいつもいて、顔見知りになって……でも、入試前で、こっちも忙しかったし、なんか照れくさくて、話しかけたりしなかったです。彼女、ちょうど入試の頃から図書館来なくなって……嫌われたのかな、とかいろいろ悩みながら受験勉強、ほんとキツかったです……」
◇
昨日、6月7日(水) 昼休みの終わり――
飛田先生は、昼休みを延長する形で、尾上から聞けるだけ事情を聞いてくれた。
家庭に暴力を振るう父親がいて、経済的にも余裕がなかった尾上は、中学に入った頃には、すでに地元の図書館の常連だった。学校の宿題をしたり、本を読んだり。連日暗くなるまで図書館で過ごしていたという。
そこに、あるときからもう一人、少年がよく顔を出すようになった。
当時は名前も知らなかった。背の高い、短髪の少年――福井真吾である。
二人とも、毎日のように図書館に通ってくることで、いつの間にか顔を覚えた。名前も知らないまま、すれ違うときに、軽く会釈するようになった。
彼が借りたり、読んだりしている本を意識して、自分も読んでみたり、借りてみたりした……お互いにそれを、いつのまにかするようになっていた。直接声をかけることはない、そんな触れあいでも、尾上は楽しかった。
福井の持つ参考書から、高校入試を控える学年と気付いた。内心では、彼が受験に合格することを祈っていたし、合格したなら少しだけでもお祝いしたい、そんな風に思っていた。
だが、それはかなわなかった。
福井が入試シーズンに入ったころ、尾上の家の状況がさらに悪化したためだ。暴力はエスカレートする一方で、尾上も心身に深い傷を負った。ついには母親に連れられて家を出て、施設へ逃げ込んだ。
安全のため外出が制限されたことで図書館へ行くこともできなかったし、そもそも福井の名前も、連絡する方法もわからなかった。
そして――2年が経った。
尾上家は父親との関係を断ち、千絵は高校進学した。
尾上が入学早々、部活紹介で、パフォーマンスをしている福井の姿を見たときの衝撃は、言葉にできないほどだった、という。尾上は迷ったが、円城たちに背中を押してもらったことで、バスケ部マネージャーになった。
「やっと、尾上さんに楽しい時間が始まった。なのに……やりきれません」
昨日、夕方の打ち合わせで、飛田先生は尾上の事情を担任たちへ詳しく報告してくれた。
――ひどく悲しそうに。
2年ぶりに再会した彼――福井がバスケ部の看板選手であったことが、周囲の嫉妬を呼んだ。
福井が尾上との再会を喜んで、親しく接したのもまずかった。上級生のマネージャーたちは尾上に冷たく接したし、1年生のマネージャー仲間も先輩の手前、尾上と距離をとった。
そんなタイミングで、1年生の生徒から、尾上の中学時代の話が漏れた。
憧れの福井先輩、と急速に仲良くなった尾上への、1年生女子の僻みもあったのかもしれない……言葉では心配していても。
人の心は100かゼロか、だけでは割り切れない。人の成功を応援する者は、心のどこかで、ほんの数%でも、失敗を望んだりもする。
漏れた情報は、3年生にも水面下で伝播した。
そのことは、つい今しがた、福井からも確認できた。
「バスケ部の女子マネ含めて、結構3年女子が参加してるグループがあって、尾上が受けた暴力の話が伝わってるって……。そいつらカギかけてるから、外からは見られないです。でも、女子の一人が、話題になっちゃってるって、見せてくれて……」
福井に見せた女子の真意がどこにあったかは……福井もあえて触れなかった。
ただ福井にしてみれば、尾上に図書館で会えなくなったその頃、彼女はひどく辛い思いをしていたことになる。
だから、気になって尾上に確かめてしまった。
「なんか3年女子から噂、聞いたけど、大丈夫だったの?」と。
――尾上にとって、そこが限界になった、と飛田先生は言った。
逃げたかった過去がどこまでも追いかけてくる。このまま福井といれば、3年生の女子はさらに噂を広めるだろう。福井の耳に当時の話も、より詳しく伝わる……尾上はそれだけは嫌だった。
だから、尾上は、自分から退く覚悟をして、バスケ部を辞めたのだと。
やりきれない――飛田先生の言うとおりだ。
一つ一つは小さな悪意でも、たくさん集まれば人の胸を深くえぐる。
これはそういう、やりきれない話だ。
◇
目の前の福井と、話を続ける。
「尾上がやめちゃった事情って、やっぱり、上級生の女子マネがいじめた、みたいな話じゃないんですか。俺、だったらやっぱり、許せません」
福井の言葉は落ち着いているが、静かに、そして深く怒っている。
尾上から聞いた詳しい話を勝手に福井にするわけにはいかない。それは尾上への裏切りになる。それに、下手に事情を知ってしまったら、福井は怒りのままに行動しかねない。
「今の時点で、他の人から聞いた話をきみに軽々しく話すわけにはいかない。君から聞いたことも、他の生徒には話さない。でも、尾上さんにとって一番いい形にしたい、と先生方も思ってる。だから、君には冷静にしていてほしい」
少し、間が開いた。
福井なりに、こちらの言葉を受け入れようとしている。
「……俺は、尾上のために、なんかできないんでしょうか」
福井の瞳は真剣だ。こちらをまっすぐに見据える。
「先生が決められることじゃない。でも……君自身は、どうしたい?」
……考え込んだ福井に、付け足す。
「考えがまとまったら、もう一度話をしないか。何か行動する前に。無理に君の意見を否定したりするつもりはない」
「……わかりました。少し、自分で考えさせてください」
福井はそう言って、部屋から出て、体育館へ戻った。
◇
バスケ部の村井先生には、部員、マネージャーについて一通り面談する、と伝えてある。福井が戻ったら次の生徒をこちらに寄越してもらう段取りだ。
飛田先生は日向先生に交代。ここから先は、俺と日向先生で、道を違えてしまった娘たちに、自覚を促す――仲間内でカギをかけてるからって、何を言ってもいいわけじゃない、ということを少々、強面で教える――仕事になる。
心ない言葉が何を招くのか、そういう人間を、周囲はどう見るのか……想像力をもう少し働かせれば、きっとわかったはずだろうと。