20 追加講義 「結城琴美」
6月16日(土)
「神田先生から、預かった。届けにきたよ」
スマートフォンを渡す。
結城は、何も言わずにうなずいて、画面の割れたそれを受け取った。
俺の手からこれが帰った――もう隠し事はしなくていい。
「君は、神田先生を困らせたかった?先生が学校を辞めることになっても、いいって思った?」
「そんなはず、あるわけないです。先生がいたから、私、ここまでこれたんです。いっぱい感謝してます」
「でも、ただの先生と生徒ではなくなってた。君は、先生に恋をした」
――もう、バレちゃってるんですね――
強張っていた顔が、ふっと緩んだ。
本来の、結城琴美の顔に戻ってきた。
「……いっぱい先生と時間を過ごして、ずっと熱心に教えてくださって、一緒に賞をとって喜んでくださって……好きになるな、って、そんなの無理です……」
「先生と、スキンシップというか……そういうこと、あった?」
「誰にもヒミツですけど……」
そう前置きしている顔が、ほころんでいる。誰かに話したかったのだ。
「冬に一回だけ……キスしました。凄く寒くて、暖房が効かない日で……なんか、先生が近くて。どちらともなくというか、自然にというか、そうなったんです。
本当にそのときだけ――先生、ごめん、ごめん、ってすごく慌てて謝ってきて、それっきり……私はそれでも、幸せでした」
結城の中で、大切な思い出になりかけていた話。
「でも、春に須藤さんが入ってきたら、なんか先生、ずっと不自然な感じで。彼女が先生をおかしくしたんだ、って思いました。」
ふんわりした二人の時間に、本物の婚約者が入学してきてしまった。きっと神田先生も戸惑った。
「そこはどっちもどっち、かな。須藤さんは、君をずいぶん怖がってた」
「……だって、あの子は……」
続きをどう言っていいのかわからないのだろう……結城が言葉に詰まる。
「……わかってるよ。そのスマホに、その、写真が入ってるんだよね」
「……」
――神田先生と、須藤奈々が二人で写った写真。
「神田先生は君のスマホのパスは知ってたんじゃないかな。知らなくても、壊すことだってできた。でも、先生なりの誠意だろう。データは一切触ってないそうだ。
今、セクハラの罰則が厳しくなってて、先生は生徒とのキスだけでもクビになり得る。だから、神田先生は写真が気になって仕方なかった。ただ今回のことを君が許せない、というなら、写真を公表されて罰を受けてもいい、と覚悟してる」
「……そんな、私、先生をそこまで困らせたいなんて……思ってないです。……そんな事情知りませんでした……本当に……」
「うん……君は、きっと先生を罰したかったわけじゃない。須藤さんの話ばかりして、写真を消してくれと言う先生に、腹が立った……ちゃんと、向き合ってほしかっただけ……違うかな?」
結城の目が、じわぁっと潤んでくる。
「……辰巳センセイはお見通し、なんですね。咲耶の言う通りなんだ……もう、ヤだなぁ……」
「そうじゃなかったら、君は本気でスマホとデータを取り戻そうとしたはずだ」
ぼろっと涙がこぼれた。
「須藤さんと、先生がどういう関係か、知ってるね?」
「婚約者、という説明を、あの日、神田先生から聞きました。それまでは、1年生のくせに神田先生を横取りした、ひどい後輩、って憎んでました。でも、先生がうちの学校に来る前からの婚約者って聞いて、私、頭がめちゃくちゃになりました。ひどいって。あんなに好きにさせておいて。キスしたのにって。ずっと騙されてたんだって。
でも、先生の話し方とか、態度とか……先生が守りたいのは、私じゃなかったって。私の方が邪魔だったんだって、理解というか、わかっちゃって……辰巳先生、この前授業で、舞姫やりましたよね。あれと、そっくりだって。私、エリスみたいだって。好きっていいながら、そばにいることで先生の邪魔してた……」
瞳から大粒の涙がどんどん溢れてくる。
「悔しくて、哀しくて。自分がいらないって思えて、もう迷惑かけたくないって……もう外出たくないって……」
「……つらかったね」
「……はい……はい…………」
結城はひとしきり、時間をかけて嗚咽した。
誰にも言えなかった気持ちを、きっと、やっと言えたんだ。
彼女がスマホ探しをやめたのは、突き詰めたら神田先生に疑いがかかる、と気づいたからだ。神田先生が持っていることを彼女は当然推測した。だからこそ、神田先生を困らせないために、探すのをやめた。
彼女は恋を失ったことを悲しんだが、自分を育ててくれた神田先生を本心から憎んだわけではなかった。
◇
「さっきの舞姫、なんだけど、授業では話さなかった追加の講義があるんだ」
「……はい?」
「実は、ドイツへの留学だが、リアルの森鴎外もしていた。豊太郎は法学だったが、鴎外は医学。あの小説は、ディテールこそ変えてあるけど、大筋では鴎外自身をモデルにしている。」
「……エリスも、実在したんですか」
やっぱりそこ、気になるよね。
「鴎外が勉強を終えて、日本に帰国したあと、ドイツ人のエリーゼという女性が、日本まできた記録が残っている。鴎外に会いたがって、何週間もかけて旅してきた。大変な行動力――きっと、愛情だね。心が壊れたエリスとは違って、しっかりした、聡明な女性だったようだ。」
「じゃあ……」
小説の悲劇とは違う結末を期待したのか、声に明るさが混じる。
「しかし、鴎外の家は名家だ。親族のものが鴎外とエリーゼを会えないように引き離してしまった。結局、再会は叶わなかった」
「……そんなの……余計、かわいそうじゃないですか。ひどすぎます」――しょぼん。
「それがね、まだ続くんだ」
ここで終わるなら、追加講義なんてしない。
「エリーゼは手作りの額を鴎外に残して帰国した。鴎外は日本の女性と家庭を築いたけど、エリーゼからもらった額が捨てられることはなく、100年以上経った今でも現存している。それだけじゃない。鴎外とエリーゼは晩年まで、手紙のやりとりで交流を続けた。心ではずっと支え合っていたのかもしれない。」
――伏せがちだった結城の顔が、上がった。
「そんな、人からは祝福してもらえなかった愛から 『舞姫』 という傑作が生まれた。作品の中で、エリスをとことん美しく描いてる、と授業で話したよね。そして、結末で豊太郎は加害者として、エリスを壊してしまう……自分が幸せにできなかったエリーゼへの愛と贖罪の思いを小説に残したかったんじゃないか。そうやって結晶になったのが 『舞姫』 なんじゃないかと、先生は思う」
――伝われ。
「目の前の人と、ただ抱き合えるだけが、意味のある恋じゃない。鴎外とエリーゼのように。師弟関係だって。友情だって。いろいろな形で人はつながっていける。
君にとって、神田先生と出会えたことは、決して無駄じゃなかった。
それは、君という才能を育てることができた神田先生にとってもだ。
だから―――」
―――だから、自分の存在を、いらないなんて、もう言うんじゃない。
◇
しばしの間があった。
結城が、少し、笑顔を見せた。
「……大丈夫です。神田先生には、今でも感謝してます。学校にもどったら、しばらくギクシャクしちゃうかもしれませんけど、大丈夫です。
きっとまた、絵を教えてもらって、もっと描けるようになって……それに……」
「それに……?」
「自分を大切に思ってくれる素敵な男性は、世界に一人じゃない、というか……なんかそんな気持ちになれたので……本当に、大丈夫です! はい」
彼女は、今度こそ、にっこり笑った。
ずいぶん、明るい笑顔で。
なんだろう、この違和感は。と思った。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
お話も、もう残りわずか。
次回「エピローグ」をお送りします。